2022/09/08 番町散歩 02 シルバービル/地学会館/番町の庭/新坂/三年坂/五番町

前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2022/09/08/220000





◆シルバービル

ビルの屋上に神社が見える。



google mapの航空写真でも確認できるね。
お詣りしたいが・・・・。










◆地学会館

なにか地学と関係したビルなのかな?
WEBで調べたがオフィス情報しか載っていなかった。











◆番町の庭



みなさまにおたのしみいただけるようこの庭を有期限で開設いたします。日々集い、憩い、遊べる場としてご活用ください。



google mapには「神社」のマークがあるのだが、それらしいものは見当たらなかった。










◆新坂

坂上



坂途中。



坂下。



江戸時代、この場所は武家屋敷で、道はありませんでした。人々は、東側にある帯坂か、西側にある三年坂を通っていました。
明治時代に、東京の都市計画が決められていく過程で、道路整備がすすめられ、一九三年(大正元年)の地図上でこの坂道を確認することができます。










◆三年坂

坂下。



坂上



かつて、三念寺という寺院があったことから名付けられました。本来は三念寺坂であったと考えられますが、三年坂の通称が定着し現在に至っています。










◆五番町



 江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、 この一帯に 「大番組」 と呼ばれる旗本たちを住まわせました。 ここから、「番町」という地名が生まれました。
 江戸城外郭門のひとつである市谷御門(現・JR市ヶ谷駅付近)があったこの町は、 旗本屋敷が整然と立ち並んでいたようです。 明治時代にこの地に付けられた町名は土手三番町で、五番町と改称されたのは昭和十三年(1938) のことです。
 江戸時代は城を守る人々が起居した番町ですが、 明治期には華族や官吏が住む町へと移り変わっていきます。 また、ほかの番町と同様、 この界隈も文人たちに愛された町でした。
 フランスの風刺画家であったビゴーや、『婦系図』『歌行灯』などで有名な小説家の泉鏡花も、 明治時代の一時期ですがこの町の住人でした。 夏目漱石の門下生で、 「山高帽子』 『ノラや』などの作品で知られる小説家・内田百閒は、昭和十二年(1937) からの十年あまりをここ五番町で過ごしました。 数多くの随筆で知られる百閒は、 『東京燒盡』のなかで、 戦場ルポライターのような確かさで、 空襲のさまを描写しています。 彼の邸宅跡地には、 現在、 番町会館が建 东。求仁、昭和二十九年(1954)『驟雨』飞芥川賞を受賞した小説家・吉行淳之介もこの五番町の住人でした。
 落ち着いた風情を色濃く残す五番町の趣は、こうした偉大な文人たちによって培われてきたものなのです。










続く。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2022/09/08/230000