前回からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2022/09/08/223000
◆二宮金次郎像
右側学校の敷地内にあるらしい。
確認できなかった。
google mapのマーク
◆日本大学通信教育部3号館
瓢逸と諷刺の名文家 内田百閒(うちだひゃっけん) 旧居跡地
内田百閒は、1889年(明治二十二年) 岡山に生れた。本名、内田栄造。別号百鬼園。夏目漱石門下の異彩として、随筆に、幻想小説に、鉄道紀行に、独特の文学世界を繰り広げた。
1937年(昭和十二年)、市ヶ谷仲之町から土手三番町三七(現五番町十二)に転居してきた。昭和二十年五月の東京大空襲により居宅を焼失したため、隣家の松木邸の掘立小屋②に戦後も三年ほど住み続けた。昭和二十三年、六番町六に、いわゆる三畳御殿③を新築し、1971年(昭和四十六年)四月に亡くなるまでの後半生を、この番町で過ごした。
とくに昭和三十二年、愛猫のノラが失踪し、番町近辺を懸命に探索した様子を綴った随筆『ノラや』は、彼の韜晦な性格から醸し出す苦味とは別の人情味を知らしめた。
三〇年目の生誕日に、旧居跡地付近に記念碑を設置する。
◆内田百閒 掘立小屋 バロン松木方
説明版などは見当たらなかった。
上記、旧居跡説明版、2番の所。
google mapの場所は上の写真のところあたり。
江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に「大番組」 と呼ばれる旗本たちを住まわせました。 ここから、 「番町」 という地名が生まれました。
現在の番町小学校が建っている場所には、かつて定火消 (消防)の役屋敷があり、のちに上野小幡藩上屋敷となりました。 四谷御門寄りの広い敷地には、尾張藩付家老成瀬隼人正の上屋敷がありました。 明治以降は、下六番町という町名になり、 昭和十三年(1938)から現在の六番町になりました。
明治から大正・昭和にかけては、数多くの文化人や高級官僚の住宅地として発展しました。 『破戒』 『夜明け前』の島崎藤村、『婦系図』『天守物語』 の泉鏡花、アララギ派の歌人島木赤彦、 『或る女」 の有島武郎、 「三田文学」で活躍した水上瀧太郎、 『父帰る』の菊池寛、『多情仏心』の単見、『百鬼園随筆』の内田百閒など、多くの作家たちが居を構えました。 また、 印象派を紹介した画家で作家でもあった有島生馬、エコール・ド・パリで活躍した画家の藤田嗣治(つぐはる)、歌舞伎俳優の初世中村吉右衛門、初世市川猿翁、 二世中村又五郎、三世市川猿之助、長唄の吉住慈恭(じきょう)などの芸術家も六番町の住人でした。
かつては日本の近代的女性を育んだ明治女学校、日本の歌壇の中心的存在であったアララギ出版所、 菊池寛が創立した文藝春秋社もあり、白樺派の誕生にかかわった有島邸や若い作家たちが集った
鏡花邸など、 まさに六番町から、日本の近代文学や芸術が開花したといっても過言ではありません。
◆四ツ谷駅
江戸城外堀史跡展示広場
駅改札脇にある。
ここのだけ別ページにまとめてみた。
2022/09/08 江戸城外堀史跡展示広場 - ovanの社会科見学
まだまだ暑いね・・・。
坂もあるからちょっとキツイ。
まだまだ都心にもめぐってないところがあるけれど、ちょっと遠くに行ってみたくなった(w