2022/10/11 日枝神社水天宮

こちらは「日枝神社」と「水天宮」が同格で併設ということでよいのかな?
左側が日枝神社、右側が水天宮。





日枝神社本殿
一間社入母屋造り銅板葺き
朱塗り
正面 3.6m
奥行 5m
所在地 清瀬市中清戸二丁目六一六
指定日 昭和六十一年一月十四日
 本殿のまわりには腰組付の切目縁をまわし、は二軒の全扇垂木になっています。
 日枝神社は江戸時代、山王社大権現と呼ばれて神仏習合でした。本殿の建築様式は、和様を基本としながらも軒を扇垂木にするなど禅宗の様式をとり入れています。雲紋を主にあしらった彫物の模様をはじめ全体に江戸時代中期の特徴をよく示している建物です。
 基壇の石組に宝暦九年(1759年)とほられており、本殿もそのころ建てられたと推定されます。



日枝神社 不動明王立像
 この不動明王は、もと正覚寺のご本尊でした。明治維新までの神仏習合時代、正覚寺日枝神社別当寺で神社をお守りする寺で、現在の社務所から東にかけて建てられていました。
 不動明王は、自らの身を捨てて修行者の身を守ることを使命としています。そのため火生三昧(火の燃えるような力の境地)にあって魔軍・怨敵をほろぼすために両眼をカッと見ひらいた怒りの姿を示しています。
 この像の制作年代は不明ですが、仏像の様式から室町時代後期の制作と推定され、細身で緊張感のみなぎった仏像です。
 光背の火焔は江戸時代のものと推定されますが、焔のなかには鳥の頭がつけてあり、ところどころに孔雀の羽のような感じの焔が配置されてあり、印象的です。
 不動明王は患いを消し、現世のご利益を与える力の強い仏様として民衆の信仰を集めました。



日枝神社のスギ
 一般に杉の老木や巨木は山地か丘陵に生育していますが、日枝神社の杉は台地にしっかりと根を張って巨木になりました。樹齢は約四〇〇年といわれています。
 このように台地で巨木になったスギはめずらしいものです。
樹高 21m
囲四 4.8m
枝下高 10m






御嶽神社




御嶽神社の石塔






金刀比羅神社






白山社






柊(ひいらぎ)



格と地名の由来
このは老樹名木の蘖(ひこばえ)で景行天皇の御代に日本武尊が東柾の際この地に至り社前の柊の根本に憩い「清き上なり」とおおせられたので爾来この村を「清土(きよと)」と称したが何時の頃よりか「清戸(きよど)」と改められたと、いい伝えられている。
当時の柊の老樹は大正年間の台風により風損したが其の根妹より生じた葉である。



 一行は、武蔵国(東京都)をさらに進んでいきました。
 倭建命(やまとたけるのみこと)は、強い日差しに、どこか休息するところがないかと、あたりを見回しました。すると、向こうに大きな木があるのが目に入りました。
 近づいてみると、それは、相当年数を重ねた柊の大木でした。大倭を出発する時に天皇から授けられた比々羅木(ひひらぎ)の八尋矛(やひろほこ)と同じ木で、魔を除けてくれる木とされています。
 倭建命は、この木陰で休むことにしました。するとどうでしょう。とても清々しく心地よい気持ちになりました。
 倭建命は、いつの間にか両手でその大木の根元を覆う土の感触に感動していたのでした。
「何と清々しい土地なのだろう」
 身も心も疲れ果てた倭建命は、心穏やかにこの柊の木陰でしばしの間、休むことができました。
 清瀬市清戸に鎮座する日枝神社の縁起には、倭建命がおっしゃった「清々しい土地」に因んで、「清土(現在は清戸)」と呼ぶようになりました。






祖霊社






日枝神社三猿の石灯籠二基

神社、清瀬の歴史を知る石燈籠でありますが参道の両側に建立以来年数がすぎて風化がすすんで来ましたので永久保存のため移動しました。



日枝神社 三猿の石燈籠
一基 高さ 171cm 寛文四年(1664年)造立銘
一基 高さ 164cm 宝永七年(1719年)造立銘
 二基の石燈籠は、参道の両側に向かい合って建てられていました。 竿は六角柱で、それぞれに「見ざる」「聞かざる」「物言わざる」の三猿が彫刻されています。 日枝神社は山王様と呼ばれて人々に親しまれ、猿は山王様の使いと信じられていました。
 燈籠の竿部に「山王開闢天正七天(1579年)中嶋筑後守信尚開之」と彫られ、さらに寛文四年造立の燈籠には山崎傳七良以下 下清戸村十一名が、又宝永七年のものには中清戸村小寺宇佐衛門尉重政の名が刻まれており、中世末から近世にかけて、清戸の開発を知る貴重な手がかりとなっています。







日枝神社鳥居






水天宮鳥居

こちらは写真を撮っていなかったのでgoogle mapのストリートビューから。