2022/10/26 雑司が谷宣教師館(旧マッケーレブ邸)


雑司が谷旧宣教師館(ぞうしがやきゅうせんきょうしかん)は、1907年(明治40年)にアメリカ人宣教師のジョン・ムーディー・マッケーレブが自らの居宅として立てた建物。旧マッケーレブ邸とも呼ばれる。豊島区に現存する最古の近代木造洋風建築で、東京都指定有形文化財。豊島区が、1982年(昭和57年)に取得した。正式名称は、東京都豊島区立雑司が谷旧宣教師館になる。 』
雑司が谷旧宣教師館 - Wikipedia





東京都教育委員会による説明版 10/21撮影

 この建物は、明治四〇年(1907)にアメリカ人宣教師J・M・マッケーレブが建てたものです。マッケーレブは昭和一六年(1941)に帰国するまでの三四年間この家で生活をしていました。一九世紀末のアメリカ郊外住宅に多く用いられたシングル洋式を基調とし、細部のデザインはカーペンターゴシック様式を用いています。建物の内部は一階・二階ともに三部屋がT字形に配置され、各階三部屋ともに暖炉が組み込まれ、壁の中で煙突につながっています。一階の西北部にポーチ付きの玄関を設け、北側に廊下及び主階段、南側にはサンルームとしでも使える広縁があり、東側には補助階段が付いています。一九世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を有する質素な外国人住宅であり、都内でも数少ない明治期の宣教師館の一つとして貴重です。








◆1F


玄関から

10/21撮影


食堂



 この部屋は食堂として使用されていました。 当時の食生活は、大変に質素だったと伝えられており、敷地内ではトウモロコシ、トマトなどの野菜が栽培されていたようです。 食堂の左手奥が台所で、 ガスレンジが置かれ、パンやローストチキンなどを焼いたといわれています。 質素ななかにもアメリカ的要素がうかがわれます。



10/21撮影


10/21撮影
「晩年の宣教師 J.M」
寄贈 竹内不忘



10/21撮影
食道内のピアノ



暖炉 

10/21撮影



 旧宣教師館の1階と2階は、各部屋がほぼ同じ形で配置されており、それらが暖炉を囲む構成となっています。 なかでも、この部屋の暖炉飾りは、意匠や製作技術の面でもっともすぐれ
ています。 濃い緑色の地に赤色の花弁(はなびら)を思わせる模様が見られ、 世紀末芸術といわれるアール・ヌーボーのモチーフを取り入れたものといわれています。



10/21撮影
全国の宣教師館
 現在、国内で宣教師館・司祭館として残されている建造物は、かつての宣教師たちの住居および伝道の場として使用された建物です。
 これらは、多くの宣教師たちが来日した1880年代以降1950年代にかけて各地に建設されました。 そして当時の姿で残されているものが30例ほどあります。
 宣教師の住宅には、母国の建築様式や生活様式が反映されています。アメリカ人宣教師の住宅では、アーリーアメリカン住宅の特徴である下見板張りのコロニアル様式や、中世ヨーロッパの手法をアメリカ木造建築に取り入れたカーペンター・ゴシック様式、壁を小さい板で柿葺きに覆ったシングル様式などの工法が使用されていることが特徴的です。
 また、宣教師たちの住宅は、 1階を公的な場、 2階をプライベート空間と考え、 浴室を2階に設置するなど、アメリカの生活感覚が反映されて設計されました。 しかし、 雑司が谷旧宣教師館のように、 内装に割竹を用いるなど、日本独自の素材を取り入れた和洋折衷の様式を持つものもあります。 これらは、 当時の宣教師の住宅建築に、 日本人大工や職人が関わったことを示唆しているのです。


居間

10/21撮影
この部屋は居間兼応接室として使用されており、明治時代の質素な建築である旧宣教師館のなかでも、意匠的な工夫が施されています。 西向きのベイ・ウインドウ (張り出し窓) は室内に開放感を与えており、 この部屋の暖炉飾りは、館内でも唯一、建築当時の原形をとどめているものです。








◆2F


2Fホール 

10/21撮影


寝室



10/21撮影
マッケーレブのベッド~三度太平洋を渡る~
 マッケーレブ宣教師一行は1892 (明治25) 年、サンフランシスコで留学中の石川角次郎 と出会い、日本到着後、 石川の案内で宣教活動を始めます。このベッドは石川が、 アメリカ出航時に贈り(荷札が現存)、ここで使われたものです。
 日本への永住を望んだマッケーレブは、1941(昭和16) 年の日米開戦により帰国。 ベッドもアメリカに送られました。
 マッケーレブの再来日は叶いませんでしたが、ベッドは野村基之氏により日本へ引き取られ、 長年保存されてきました。
 2007年10月、旧宣教師館建築100年を記念し、 野村氏のご了諾と渡辺進氏の篤志にて、ベッドの修復がなってこ
の館に戻ってきました。

※1 石川角次郎は明治女学校、学習院で教鞭をとり、のちに聖学院初代校長をつとめました。
※2 野村氏のマッケーレブ回想は1階のビデオでご覧ください。


浴室 

10/21撮影
この部屋は浴室として使用されていました。 浴室が2階に配置されているところが、 和風住宅と違っておもしろいところです。 2階部分をプライベート空間として使用していた表れといえるでしょう。 建物の外側にはタンクがあり、 そこから水を汲み上げてバスタブにためていたようです。


書斎 

10/21撮影
この部屋はマッケーレブが書斎として使用していました。 宣教活動、教育活動などを幅広く展開するなか、 さまざまな思いをめぐらしていたことでしょう。 マッケーレブは、アメリカ本国へ日本のさまざまな情報を書き綴っており、 それらは宣教報告誌「ミッショナリー・メッセンジャー (MISSIONARY MESSENGER)」として刊行されています。








他パネル展示等

10/21撮影
マッケーレブの生きた日本
 宣教師マッケーレブは、 明治25年(1892) に来日しました。 そして、 明治40年から太平洋戦争開戦の直前にアメリカへ帰国する昭和16年(1941) 10月までの34年間を雑司が谷の地で暮らし、キリスト教の伝道に務めました。
 明治時代はじめの日本は、近代化を志向した明治政府によって欧化政策がとられていました。そのため、欧米諸国との関係から、江戸時代まで禁教とされてきたキリスト教を許容せざるをえなくなります。 明治6年に切支丹禁制の高札が撤去され、制限つきながら信教の自由が容認されると、キリスト教西洋文化の象徴と考えられるようになりました。 宣教師たちは、その伝道者として受け入れられたのです。
 しかし明治時代中期以降の日本は、大日本帝国憲法教育勅語によって天皇主権の国家体制が確立する時期でもありました。 また、 幕末以来の不平等条約改正運動は、国内のナショナリズムを高め、 外国人や外国の文化を排斥する運動につながりました。 こうして、 キリスト教は次第に苦しい立場となっていくのです。マッケーレブの来日は、 このキリスト教苦難の時代と重なっています。
 しかし、彼ら宣教師たちの活動は、 社会救済事業や教育の分野で、日本社会に多くの影響を及ぼしました。 キリスト教の影響を受けた人々の中には安部磯雄片山潜のように、明治時代末から大正時代にかけて、慈善事業を通じて社会主義運動を推進する原動力となる人物も現れます。
 マッケーレブは、昭和16年の帰国命令によって帰米した後、再び雑司が谷の地を踏むことはありませんでした。 一方で、自国に帰国せず日本に留まった宣教師たちは、昭和20年8月15日の終戦まで、さらなる苦難の時代を迎えることになります。



10/21撮影
マッケーレブの住んだ雑司が谷地域
 マッケーレブが住居を構えた頃の雑司が谷地域は、 現在の雑司が谷一~三丁目、南池袋一~四丁目、東池袋一・四・五丁目 (部分)、 西池袋一・二丁目にほぼ相当する地域でした。江戸時代には雑司ヶ谷村と呼ばれ、 「雑司ヶ谷」という表記は、 昭和41年(1966)の住居表記施行直前まで使われました。
 明治時代の雑司が谷地域は、明治18年 (1885) に目白駅、 同36年には池袋・大塚駅が開設、東京の中心部と郊外が繋がる鉄道が開業し、 駅周辺は都市化が進みます。 こうした交通の利便性から次第に人口が増加し、大正12年(1923)の関東大震災では被災地から多くの人々が移住したこともあり、大正時代の終わりには住宅地としての性格を持つようになります。
 しかし、現在の旧宣教師館周辺は、大正14年王子電気軌道 (現在の都電荒川線の一部) の雑司ヶ谷停留場が開業するまで、鉄道の届かない地域でした。 マッケーレブは、 明治40年(1907)、この地に住居を構えるとともに雑司ヶ谷学院を開き、若者たちにキリスト教を伝道したのです。
 雑司が谷地域の特徴は、 芸術や文化、社会主義に関わる人々が集住したことです。 大正時代になると、 明治時代の公教育が批判され、子どもの世界観を重視する自由教育運動が起こります。 それは、 鈴木三重吉による 『赤い鳥」 創刊などの児童文化運動の時代と重なります。 雑司が谷地域には、この児童文学者や芸術家などの文化人たちが移り住み、この地で多くの成果を残しました。
 マッケーレブは、 昭和3年(1928) に雑司ヶ谷幼稚園を開園し、 幼児教育に力を注ぎます。 それは、 雑司が谷地域から生まれた文化的・社会的な風潮も影響していたのかもしれません。








少女 

10/21撮影
制作 河野 新
宣教師J.M. マッケーレブは1907年から34年間維司ヶ谷に住み直物をしつつ教会や学校を建て地域の住民と親しくふれあい 青少年教育 社会福祉活動を熱心に続けておりました この静かな庭園に師の遺徳を偲び平和のシンボルを抱いたブロンズ像「少女」を贈ります








海のゆりかご ー耳をすましてー



雑司が谷旧宣教師館に居住したアメリカ人宣教師J・M・マッケーレブは、
1892(明治25) 年に来日し、築地・神田・小石川で宣教活動を展開します。
1907 (明治40) 年には、 雑司が谷の地に自らの居宅 (当館) を建て、
1941(昭和16) 年の日米開戦の直前に帰国するまで、この地を拠点に宣教活動を続けました。
この作品は、貝をモチーフに大理石で制作されています。
大理石はモチーフである貝と同様に、様々な生物が長い年月をかけて変化したものです。
この建物もマッケーレブの思いがかたちとなり今に伝えられています。
雑司が谷旧宣教師に残したマッケーレブの思いが、はるか遠く海を越え、貝を通して伝わってくるかもしれません。








 

10/21撮影







宣教師通り

10/21撮影