2022/11/05 薬師寺




 當山は慶長五年 1600)人皇第一〇七代後陽成天皇の御代、関ヶ原の合戦において豊臣勢に加担した河内の國(大坂)の郷士、市角頼母は敗戦し大坂冬の陣(慶長十九年十月1614)、夏の陣(元和元年四月1615)に相次いて敗れ一族郎党を率いて関東に逃れ當地、現在の本大久保一丁目(現杉の子幼稚園付近)に帰農し豪勢を占めた。後大久保(江戸時代は大窪といい小金ヶ原弁天原)に移住名主職に就く。長子をして下屋敷であった此地(大久保一丁目)に持佛の福壽薬師如来を奉祀した。長女は河内の國誉田の里に鎮座する八幡宮を分神して本大久保の地に祀り、その後現在地に移る。明治六年(1873)四月二九日、明治天皇の御親臨の下、大和田原において近衛兵の大演習が実施され近衛都督「西郷隆盛」の部下「篠原國幹」少将(明治十年西南戦争で西郷軍の一番大隊長として熊本城を攻撃、南下した政府軍を防いで戦死)の見事な指揮を誉めて今後「篠原に習え」と云われたことから習志野原と命名された。明治二十二年(1899) 騎兵第一旅団(第十三聯隊第十四聯隊)と第二旅団(第十五聯隊第十六聯隊)の設置が正式に決定され旅団の編成が完了したのは明治三十四年末。明治三十六年四月二日(1903)第一旅団長に秋山好古少将(小説「坂の上の雲司馬遼太郎著の主人公の一人) (第二旅団長に閑院宮載仁親王・少将)が着任。明治三十七年(1904)二月第一旅団が営所を露國に向けて出発し五月二九日(1904)に上陸。第二旅団も八月十五日に露國に出征。 各地を転戦、苦戦を強いられ乍ら連戦連勝を重ね、凱旋帰国したのは明治三九年二月二日(1906)広島の宇品港に上陸。 「雪を交ひて降頻る強雨の中を隊伍堂々四時頃無事営所に着せるが町村有志、小学校職員生徒等は沿道に歓迎したる由」「習志野騎兵聯隊本部は一昨日午後二時四〇分品川駅着車にて凱旋したり、生憎の大雪なるも歓迎は相応に盛にして愛国婦人會をも見受けたり」 (千葉毎日新聞)と有るように、関東特有の春間近を知らせる雨混じりの雪の中の凱旋であった。 星霜移り昭和の時代となり昭和二年十一月 (1927)藥師寺本堂建築とご本尊の薬師如来を塗替えたとの記録が最近発見された。 昭和十七年(1942)七月一日戦乱激しくなり英霊奉安のため一寺建立の議起こり習雲山瑠璃光院藥師寺を建立す。昭和三七年(1962)市の要請(都市整備の必要)により納骨堂を設置。 昭和六三年(1988)十一月本堂の老朽による雨漏りの大修理と境内の整備を完了。 平成九年十月(1997) 山門建立し山容を一新。
 平成十七年十一月 (2005)隣接地、東京東信用金庫跡地百十七坪を買収。平成二十七年七月 合祀墓設置と納骨堂の大改修を実施。
   真言宗  豊山
   総本山  奈良県桜井市初瀬・長谷寺
   ご本尊  福壽藥師如来 秘佛)
平成二十七年(2015)七月改める







六地蔵



六道において衆生の苦患(クゲン)を救うという六体の地蔵尊、一切の愛生が善悪の業によっておもむき住む六つの迷界
地獄 禅林地蔵
餓鬼 無二地蔵
畜生 護讃地蔵
修羅 諸龍地蔵
人間 伏勝地蔵
天上 伏息地蔵
この六地蔵は橋上十三年(西暦1728)市角頼母により建立されたもので、中御門天皇の御代、八代諸郡吉宗の治世。







◆平安観世音







◆石塔群

真ん中は子育地蔵。







◆薬師大師遍照金剛像







◆お堂







◆石塔






◆山門






◆参道