2022/11/24 入間散策と中村屋工場見学 01 入間市駅/JA二本木支店/石灯籠(明治26年)/社/学舎の跡(狭山飛行場跡)/陸軍境界石


お休み♪
細君が入間にある中村屋の中華まん工場見学に申し込みしてくれたので一緒に参加。
周囲を少し散策してみた。
地図のルートはJA二本木支店バス停から





入間市駅

西武池袋線入間市駅






三美神

1992年 原田原田治


狭山警察署 入間市駅前交番


教育研究所商工業研修所児童センター

↑と、書かれているが、何のオブジェかよくわからなかった。


姉妹都市新潟県佐渡市

観光案内マップがあった。








◆JA二本木支店

バス停。









◆石灯籠(明治26年)








◆社



google mapには載って居なかった。
現在地を示すマークのところあたりにあった。








◆学舎の跡(狭山飛行場跡)



 この場所は、東西およそ1800m、南北およそ1390mの旧日本陸軍航空士官学校狭山飛行場跡地の西端に位置し、航空士官学校校舎がありました。
 校舎は戦後も遺され。終戦直後の混乱期には寺にあった有隣青年学校生徒の学舎となり、昭和22年4月には元狭山村・宮寺村組合立狭山中学校がここに開校し、新しい教育の場となりました。更に二本木地区の子どもたちの狭山小学校が、校舎の一角に開校しました。
 昭和42年、役目を終えた跡地には大妻女子大学狭山台校が新設され、再び学舎の歴史が積み重ねられてきました。こうして、この地は多くの人びとの懐かしい学舎の跡になったのです。
 弊社は、地域の人びとに親しまれ続けてきた学舎の跡に工場を操業できることを誇りとして、新たな歴史を刻んでまいります。








◆陸軍境界石

学舎の跡の説明版からすぐ近くにある。


いろんな角度から撮ってみた。
狭山飛行場の境界線・・・ということで良いのかな?
空軍ではないんだね。

陸軍航空士官学校
『陸軍に航空兵科[注釈 1]が誕生したのは1925年(大正14年)であり、翌年に陸軍士官学校本科に入校した40期(24名)以来、航空兵科士官候補生は基本的に他兵科の候補生と同じ教育を受けた。そして卒業後三ヶ月の見習士官勤務を経てからはじめて所沢陸軍飛行学校の基本操縦課程を九ヶ月履修し、実施学校において乙種学生として四ヶ月の教育を受けた(47期以降は一部簡素化)。さらに部隊に復帰してからの訓練を経て、やっと一人前の航空兵科将校となった。しかし満州事変以降、必要性が重視された航空軍備拡充と、航空兵科に要求されるきわめて専門的な技術を習得させる教育の効率を改善するために、航空士官学校の必要性が提起されていた。ところが歩兵科や砲兵科などの出身者が大多数の陸軍上層部においては航空兵科への理解が十分とはいえず、「将校団の団結を強固にするためにも全員が同じ士官学校を卒業することが望ましい」といった意見も出され、航空士官学校の創設には時間を要した。』

『所沢に分校として開校された当時はすべて既存の陸軍施設[注釈 10]が用いられた。翌年新たに建設された豊岡の施設に移転したが、飛行場の完成は移転後一年半ほどを必要とした。飛行練習[注釈 11]は広大な空間を必要とするために豊岡の本校以外にも所沢、狭山、高萩、坂戸、館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。狭山、高萩、坂戸、館林には分教所も設置された。53期から55期までの教育は坂戸飛行場未完成のために横芝、西筑波の陸軍飛行場も使用された。59期の候補生のうち操縦分科候補生は戦局の悪化により昭和20年7月、空襲の心配がなくアルコール燃料の入手が比較的容易な満州に移動して操縦教育を行い、8月初旬に60期の操縦分科候補生も満州に向かった。国内に残った技術、通信等の分科候補生も空襲を避けるため飯能など埼玉県各地に分散疎開して教育を受けた。 』

陸軍航空士官学校 - Wikipedia








続く。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2022/11/24/230000