2022/11/27 亮朝院


『亮朝院(りょうちょういん)は、東京都新宿区西早稲田にある日蓮宗の寺院。如意山栄亮寺。旧本山は身延山久遠寺、通師法縁。通称、高田の七面堂。徳川将軍家の祈祷所として栄えた。 』
亮朝院 - Wikipedia




 亮朝院の本堂は、木造、正面五間、側面五間、寄棟造り、本瓦葺きの建物で、嘉永三年(1850)に建築された。
 屋根などを中心に後代の改修や改変が多く見られるものの、全体として当初の状態がよく維持されている。
 内部は建具を入れれば細かく仕切ることができ、修行僧が籠る場として使用されたものと推定され、修行道場としての本堂という性格も持っている。 平成六年(1994)から八年(1996)にかけて耐震補強等を目的とした改修工事が行われた。
 区内では希少な江戸時代の寺院建築で、江戸時代後期に発行された 『江戸名所図会』の挿絵にも描かれており、当時の亮朝院境内の様子を知ることができる建造物として貴重である。




亮朝院文書
如意山亮朝院に伝来する古文書類で、亮朝院の開基である能勢の局の書状など年代不明のものを除くと、寛永二年(1625)の日閑筆「疫神遠離秘法(えきしんえんりひほう)」を最古とし、昭和15年の「福寿海無量(ふくじゅかいむりょう)」まで約400件に及ぶ区内最大規模の寺院文書である。
内容は、江戸後期から明治時代のものが多く、亮朝院の由緒や経営、建物や境内の普請工事などに関するものが中心である。
亮朝院は、江戸前期に徳川家の庇護のもと、その祈祷所として成立したが、明治以後は一般檀徒の寺となった。文書からは、このような寺の歴史的変遷を知ることができる。戸塚地区に残る数少ない古文書として貴重である。

梵鐘
江戸鋳物師(いもじ)の鋳造技術が極めて高かった元禄十五年(1702)に造られた銅造の梵鐘。総高141.5cm。銘文により、浅草権兵衛が発起人となり、市谷田町講・関口講などの講中のほか、506名の武士や庶民が鋳造に寄与していることがわかる。






◆高田七面堂(七面大明神堂)



亮朝院七面堂
 亮朝院の七面堂は、木造、正面五間、側面五間、入母屋造り銅板葺きの建物で、天保五年(1834)に建築された。当初は拝殿・幣殿・本殿の三棟からなる権現造りであったが、幕末頃に現在の形になったと推定される。
 縁側や屋根などに後代の改修や改変が多く見られるものの、概ね当初の状態がよく維持されている。 平成六年(1994)から八年(1996)にかけて耐震補強等を目的とした改修工事が行われた。
 区内では希少な江戸時代の寺院建築で、江戸時代後期に発行された「江戸名所図会」の挿絵にも描かれており、当時の亮朝院境内の様子を知ることができる建造物として貴重である。

木造七面明神半跏像及び宮殿
 亮朝院七面堂の本尊七面明神半跏像と像を納める宮殿である。 七面明神像は、木造、寄木造り 像高は38cmである。正保四年(1647)に身延山久遠寺から遷されたものと伝えられる。宮殿は、木造、正面一間、側面一間、入母屋造りで、規模も大きく、建造物として優れている。ともに江戸時代前期から中期頃に制作されたと推定される。

木造妙見菩薩立像及び宮殿
 妙見菩薩立像と像を納める宮殿である。妙見菩薩像は木造、寄木造り 像高は27.8smで、北斗七星を配した光背は上半分が欠損している。宮殿は木造、正面一間、側面一間、入母屋造りである。像は日本橋界隈から遷されたと伝えられており、宮殿の基壇には日本橋周辺の人物を含む六十一名の施主名が記されている。像に伴うと考えられる扁額には嘉永五年(一八五二)の年紀があり、この頃に制作されたものと推定される。

木造諏訪大明神坐像及び宮殿
 諏訪大明神坐像と像を納める宮殿である。 諏訪大明神像は木造 寄木造り 像高は33cmである。元は境内にあった諏訪社に安置されていたものである。宮殿は木造、正面一間、側面一間、入母屋造りである。像に伴うと考えられる扁額には文政十一年(1828)の年紀があることから、この頃に制作されたものと推定される。






◆亮朝院の金剛力士石造



 宝永二年(1705) 三月二十九日に奉納された石造の金剛力士像で、境内の七面堂前に阿吽一対で安置されている。
 総高234cm、像の背面には奉納年月日と造立施主として「尾州住大工加右衛門(びしゅうじゅうだいくかえもん) 日匡代(にっきょだい)」の名が刻まれている。尾張国の大工加右衛門は嘉右衛門とも書き、亮朝院の堂塔についても寄進したとする記録がある。日匡は亮朝院の第五代住職である。
 金剛力士像は一般に「仁王」と呼ばれ、仏を守護するものとして寺院の山門などに阿形と吽形の一対で安置される。大半が木彫であり、このような石造のものは珍しく、区内では唯一のものである。 西大久保や柏木で暮らした詩人・歌人・随筆家の大町桂月(おおまちけいげつ)は、「東京遊行記(とうきょうゆぎょうき)」(明治三十九年)の中で、この像のことを記している。






◆朝日堂






◆鐘楼堂






◆石塔など

花塚ははっきりと確認できる。






◆山門





場所はコチラ↓