2022/12/07 向島百花圓


2度来たことがある。
2015/03/13 part1 向島百花園 - ovanの社会科見学
2015/09/24 向島百花園 - ovanの社会科見学

今回は真冬でお花も咲いていなかったので、江戸時代の石碑をメインに巡った。



『仙台出身の骨董商、佐原鞠塢(さはらきくう)がもと「多賀屋敷」と呼ばれていた土地を入手し、1804年(文化元年)に開園した。360本もの梅の木を植えたことから当時亀戸(現・江東区)にあった「梅屋敷」に倣って「新梅屋敷」とも、「花屋敷」とも呼ばれていたが、1809年(文化6年)頃より「百花園」と呼ばれるようになった。江戸時代には文人墨客のサロンとして利用され、著名な利用者には「梅は百花にさきがけて咲く」といって「百花園」の命名者であった絵師酒井抱一や門の額を書いた狂歌大田南畝らがいた。当初梅園として営まれたが、その後、園主や文人たちの構想で詩歌にゆかり深い草本類を多数栽培した。園内には多数の野草が植えられ、とくに秋の七草その他、秋の草花の美しさで知られた。また、池泉、園路、建物、30余基の石碑などを巧みに配した地割でも有名であった。
その後も民営の公園としての長い歴史を経たが、明治以降、周辺地域の近代化や度重なる洪水などの被害を受け、明治末年頃よりその影響で草木に枯死するものがあり、一時は園地も荒廃したが、のちに東京市に譲渡されて1939年(昭和14年)には公営の公園として出発した。 』
向島百花園 - Wikipedia




 江戸の町人文化が花開いた文化・文政(1804~1830年), 骨董商を営んでいた佐原は、交友のあった江戸の文人墨客の協力を得て、 当園を創設しました。
 開園当初には多くの梅が植えられ、 その後、詩経万葉集など中国 日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、 四季を通じて花が咲く草庭となりました。 百花園とは、一説では 「四季百花の乱れ咲く園」 という意味でつけられたとされます。
 昭和 13 (1938) 年、 東京市に寄付され、翌年公開が開始されました。 昭和 20 (1945)年の空襲では甚大な被害を受けましたが、昭和 24 (1949)年に復旧しました。 昭和 53(1978)年10月に、国の名勝及び史跡の指定を受けました。
 向島百花園は、庶民的で文人趣味豊かな庭として、江戸時代より今日まで受け継がれてきた花園です。




隅田川七福神

 文化元年(一八〇四) 向島百花園が開園してからここに集まる文人墨客たちが、園主佐原鞠塢が福禄寿を祭っているのを知り、この隅田川の東岸にも七福神がそろわないものかと考え、七福神にそれぞれ縁故をもつ神社仏間を探し出した。そして、初春七草の間に寿福を祝い、 家門繁栄、家業隆盛を願う初参りの行事を創始したのが、隅田川七福神のはじまりである。七福神の「七」という数は、陽を表わす奇数であって、古くから、めでたい数字とされている。七難即滅、七福即生、万姓安楽という語句は七福神の語源ともいわれ、寿命、有福、人望、清廉、愛敬、威光、大量の七つの神々を象徴するもので、心新たな年頭にあたって参拝し、その年の至福を祈念するならわしが七福神初詣でのいわれである。




◆多賀神社





◆御成座敷





◆フジ棚





◆萩のトンネル





◆池






◆百花園の風景







売店





◆庭門





◆菊の展示








文人たちの足跡

これより下は「い」から「や」までの句碑の写真を
パンフレットに詳細が載っているものは転載した。



◆「い」東京市

向島百花園由来の碑




◆「ろ」福禄寿尊




◆「は」芭蕉「春もやや」の句碑

春もやや けしき ととのう 月と梅
はせを

 天保7年(1836) に、 旭連という俳諧同好者の集まりが建てています。
 松尾芭蕉の句で、冬が過ぎ、柔らかく霞んだ月と淡い梅がほころんで、ようやく春らしい気配が感じられるようになったことを詠んでいます。 月と梅を描いた絵に添えられた画賛句で、元禄6年(1693) 作とされ、全国各地にも建碑されています。新梅屋敷として始まった百花園を一幅の絵に見立てれば、四季折々の風情ある情景を誇る園の入口にふさわしいものです。




◆「に」益菅句碑

鳥の名を  
 都となりぬ
   梅やしき

 文化11年 (1814) の開園 10周年で建てられています。 旬の作者は千樹庵益賀です。碑文は酒井抱一が書いています。
 二人は俳諧の同門であることから、抱一が名付けた百花園の別名「都鳥庵」との関連も考えられる句です。 また、 上方に由来し、後に江戸端唄となった唄の「鳥の名の都に名所があるわいな」 を借用したのではないかとも言われています。
 句には、「ここ新梅屋敷(百花園) が、 どうか江戸の名所になりますように」との強い願いが込められているように感じられます。




◆「ほ」墨蛇梅荘記碑(すみだばいそうのきひ)

 文化 11 年 (1814) に建てられています。碑文の作者亀田鵬齋は高名な儒学者で、百花園の初代園主佐原鞠塢とは深い交流があったことを示しています。
 「江戸第一の奇観の地、ある月夜、酔夢に現れた天女から梅を愛する者として梅花顛(ばいかてん)の名を与えられ、仙人の美酒をお楽しみであったところに、 鞠場の咳で目が覚めました。 その鞠場に夢の中の話をし、最後にポツリ。 本当に梅花顛の名にふさわしいのは、私ではなく、鞠塢さん、貴方ですよ。」




◆「へ」雲山先生看梅詩碑

 文政10年 (1827) に建てられています。
 碑文の作者宮澤雲山は、市河寛斎に学んだ江戸時代後期の漢詩人です。
 雲山が御成座敷から観梅し、「園が氷雪に埋まる時に誰が信じようか、梅の花がただ芳しく香るのを」と、待ち望んだ春を迎える喜びとともに、辺り一面に梅花の香り漂う百花園の春の景色を高らかに綴った漢詩です。
 碑文を書いたのは浅草蔵前の札差で、詩文や俳諧をよくした守村抱儀 (号: 鷗嶼) です。




◆「と」茶筅塚と柘植(つげ)黙翁句碑

おりたらん
  草の錦や
   花やしき




◆「ち」芭蕉「こんにゃく」の句碑

こんにゃくのさしみも些し
        うめの花
はせを

 芭蕉の句です。 建碑は文化11年 (1814) で、 芭蕉没後120年にも当たります。 この年に建てられた碑は3基ありますが、全て梅が題材です。 梅は、 新梅屋敷として産声を上げた百花園にとっては原点の木です。
 この句は、芭蕉が亡くなる前年の元禄6年(1693) の作とされ、ようやく梅が咲き初めた早春、 亡くなった知人へ、梅一枝を添えた刺身蒟蒻をお供えしますという追善の句です。 芭蕉自身、 蒟蒻は大好物だったそうです。




◆「り」山上臣憶良(やまのうえのおみのおくら) 秋の七草の歌碑

  山上臣憶良秋の七草の歌碑
秋の野に 咲きたる花を 指折り
  かき数うれば 七種の花
芽の花 乎花葛花 嬰麦の花
  姫部志 また藤袴 朝顔の花

 文政4年(1821) の建碑です。 山上憶良万葉集の中で詠った歌です。
「秋の野に咲きたる花を指(および)折り かき数うれば七種(ななくさ) の花」。
「芽 (はぎ) の花乎花 (おばな) 葛(くず) 花 嬰麦 (なでしこ) の花 姫部志 (おみなえし) また藤袴(ふじばかま) 朝貌(あさがお) の花」。
「あさがお」はキキョウのこととされています。
 商家の番頭で、書も狂歌も巧みであった中井敬義 (董堂) の絶筆となった作品を、 門人たちが石碑にしたものです。




◆「ぬ」大窪詩仏画竹碑

 文政5年(1822) の建碑です。詩仏は百花園の庭門に「春夏秋冬花不断」、「東西南北客争来」の聯を掲げた江戸後期の漢詩人であり、 書画もよくした人で、 竹画を得意としました。 お酒好きで遊歴を好み、大らかな人柄で多くの交友をもっていました。碑には漢詩人佐羽淡齋の賛、碑陰には儒者朝川善庵の撰文を書家巻菱湖が書いた「詩佛老人碑竹記」 があります。 また、 石彫の名人鏑木雲潭が刀刻しています。
 名人揃いの見ごたえのある石碑です。




◆「る」金令舎道彦句碑

けふの月
  さてもをしまぬ 光りかな

 文政13年 (1830) に建てられています。
 句には「今日の名月を愛で、秋の稔に感謝しているが、 それにしても、まあ煌々として惜しげもなく我らに光を注いでくれることよ」との気持ちが込められています。
 碑にある美知彦は、仙台出身の俳人鈴木道彦で、初代園主の佐原鞠塢と同郷であり、鞠塢の俳諧の師でもあって、園内の碑 「こにやくの」を書いてもいます。 碑陰には、道彦の弟子で建碑者である野月の句 「世の中に梅のさきけり すみた川」があります。




◆「を」其角堂永機句碑

朧夜(おぼろや)やたれを
    あるじの
     墨沱川(すみだがわ)




◆「わ」初代河竹新七追善しのぶ塚の碑

隅田川よ二面(ふたおもて)よと歌舞伎にも浄瑠璃にも世にももてはやさるる●●(しのぶうり)は、安永四とせ中村座の春狂言に初代中村仲蔵が勤め、前の河竹新七の作なり そが正本(しょうほん)をある人より贈られて久しゅう秘蔵せしは、名を継ぐ者の幸せと悦びしが、この度ここに埋みて、昔忍の墳(はか)と名づけてその故(ゆえ)よし記しつくるは、隅田川の流れ絶えず 伝えて二面の二つなき功績を後の世に遺さんとてのわざになんありける。

※●の文字はIMEパッドでも出てこなかった。




◆「か」二代河竹新七(かわたけしんしち)追善狂言塚の碑

二世河竹新七、俳名は基水(きすい)、晩に古河黙阿弥(ふるかわもくあみ)と改む、壮年より演劇作者となり、古稀の齢(よわい)を●(こ)えて明治二十五年の春、喜の字の祝さえなしけるに、明くる年料(としはか)らずも病のために身まかりぬ。その一生の間に書き綴りたる新作の師のむすめと計り、これを後の世に伝えんと、石を建てて狂言塚と名づけ、初代の名残りの●塚(しのぶづか)になずらえて、しのぶの文字を書きつくることしかり。

※●の文字はIMEパッドでも出てこなかった。




◆「よ」飯島光峨翁(いいじまこうがおう)之碑銘碑




◆「た」井上和紫(いのうえわし)句碑

紫の由かりや
  すみれ
   江戸生れ




◆「れ」芝金(しばきん)顕彰碑

ほととぎす今一声(いまひとこえ)のきかまほし
  月はさゆれど姿を見せず
エエぢれったい何としよう
 しんきくさいじゃないかいな




◆「そ」鶴久子(つるひさこ)歌碑

空蝉(うつせみ)の世の
 うきことは
  きこえこぬ
 いわおの中も
    秋風のふく 




◆「つ」二神石碑

くくのちの神
かやのひめの神
この二柱の神は古事記上巻にある伊邪那岐(いざなき)伊邪那美(いざなみ)二神が生んだ神話の中に出てくる神で久久龍智神(くくのちのかみ)は水の神、鹿屋野比売神(かやのひめのかみ)は野の神である

 明治24年(1891) に園内で発掘された碑で、建年は不明です。
 「くのちの神 (久久能智神)、かやのひめの神 (鹿屋野比賣神)」の二神は、古事記上巻にある伊邪那岐命伊邪那美命が生んだ神話の中に出てくる神です。 「くゝのち」は木の神の名、「かやのひめ」 は、「かや」が日本書紀では「草」と書かれていることから、草の神の名と解されます。
 建碑は、草木を愛する初代鞠塢か、 関わりのある文人墨客たちではと推測されています。




◆「ね」最中堂秋耳(もなかどうしゅうじ)句碑




◆「な」鷺流狂言師(さぎりゅうきょうげんし) 矢田蕙哉翁(やだけいさいおう)句碑




◆「ら」日本橋石柱

日本橋の変遷は、木橋、石橋、鉄橋と各あるが、石橋時代の模造品とおもう。
文字は徳川慶喜と伝える




◆「む」月岡芳年翁(つきおかよしとし)之碑




◆「う」螺舎秀民句碑

葦の芽や
  田へ來(くる)水も
    角田川(すみだがわ)




◆「ひ」杉谷雪樵芦雁(すぎたにせっしょうろがん)画碑




◆「の」七十二峰庵十湖句碑

何事も 
 かかる浮世か 
     月の雲




◆「お」雪中庵梅年句碑

黄昏(たそがれ)や 
  又(また)ひとり行く
        雪の人


◆「く」北元居士句碑

水や空
  あかり持あふ夜の秋
 北元居士の句碑で、北元の亡くなった天保9年(1838)に、旭総連という俳諧同好者の集まりによって建てられています。
 天の月と水面の月が互いに反映しあい、辺りにその澄んだ光が浸み渡ってゆく、しみじみとした秋の夜が目に浮かびます。
 この句は、もともと茨城県稲敷市阿波にある大




◆「や」寶屋月彦句碑

うつくしき
  ものは月日ぞ
     年の花






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