2022/12/10 小石川後楽園


小石川後楽園(こいしかわこうらくえん)は、東京都文京区後楽一丁目にある都立庭園。江戸時代初期に水戸徳川家の江戸上屋敷内につくられた築山泉水回遊式の日本庭園(大名庭園)である。国の特別史跡及び特別名勝に指定されている。 』
小石川後楽園 - Wikipedia







特別名勝小石川後楽園
 江戸時代初期、寛永六年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の屋敷の後園として造ったもので、二代目藩主の光圀の代に完成した庭園です。光圀は造園に際し、明の儒者である朱舜水(しゅしゅんすい)の意見をとり入れ、中国の教え「(士はまさに)天下の憂に先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から後楽園と名づけました。
 庭園は池を中心にした「回遊式泉水庭園」になっており、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国趣味豊かなものになっています。そして、これらによって湖・山・川・田園などの景観が巧みに表現されています。
 この地は元々小石川台地の先端にあり、神田上水の分流を引き入れ造園されました。また光圀の儒学思想の下に造園されており、明るく開放的な六義園と好対照をなしています。
 なお、後楽園は昭和二十七年三月、国の文化財保護法により特別史跡及び特別名勝に指定されています。特別史跡特別名勝の二重指定を受けているのは、都立公園では浜離宮とここの二つだけです。全国でも京都の鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院の五ヶ所だけです。




江戸城外堀石垣を再利用した石積



 小石川後楽園西側築地塀の石垣の一部は、 江戸城鍛冶橋門北側外堀跡(千代田区丸の内一丁目) から出土した石垣の石材を使い、 本園のつくられた江戸時代初期 (17世紀初頭)の「打ち込み接(は)ぎ」と呼ばれる石積の技法にて
再現しました。 (右上図参照)
 石材には、備中(びっちゅう) (岡山県) 成羽(なりわ)藩主山崎家の⑩をはじめ、 石垣を築いた大名を表す「刻印」 や石割の際の 「矢穴(やあな)」 が残っています。
※注 この石垣は築地塀沿いに90mほど進むとご覧になれます。
石垣基部、歩道縁石に設置されたプレートが目印です。



特別史跡·特別名勝 小石川後樂園
 小石川後楽園は、旧水戸徳川家の江戸上屋敷の後園で、 林泉美に富む廻遊式築山泉水庭園である。
 江戸時代初め、 徳川御三家の一つであった水戸家の祖 徳川頼房は、寛永6年(1629年) に将軍家から与えられたこの邸地に廻遊式庭園を築造した。 水戸家二代藩主光圀も本園の築庭には力を注ぎ、 当時隣国明の遺臣で我が国に亡命していた朱舜水(しゅしゅんすい)の意見を用い、今見る様な中国趣味豊かな手法を加味した。
 因みに後楽園の名は、 光圀が朱舜水に命じて選んだもので、 宋の范仲淹(はんちゅうえん)の 「岳陽楼記(がくようろうき)」 中 「士当先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」 からとったものである。 その後もたびたびの改修や震災・戦災で創築時代の壮観さこそ失われたものの、逐次手が加えられるなど幾多の時代の変遷を経て現在に至っている。
 本園は、土の香ただよう奥深い山地と樹林に包まれた静寂な水面の中に、 日本と中国各地の名所を写し、自然の美と人工の妙とを兼ねそなえた庭園芸術の粋を見せている。 また、園内は数々の園亭祠堂があり、梅、桜、藤、 花菖蒲など四季折々の花が豊富な都会では貴重な緑として訪れるものに憩いの場を提供している。
 なお本園は、 大正12(1923) 年3月、国の史跡名勝に、 また、 昭和27 (1952) 年3月、文化財保護法により、特別史跡及び特別名勝に指定された。


小石川後楽園の創設者たち

初代・徳川頼房 (1603~1661)
 徳川家康の十一男「御三家」の一つ水戸徳川家の初代。 慶長11年 (1606) 弱冠3歳にして常陸いて同14年(3609) 駿府に移った兄のの後任として常陸水戸25万石を領した。 ここに 「水戸徳川家」が誕生する。
 小石川後楽園の創立は寛政5年(1829)将軍家より小石川に邸地を75625(約250,000㎡²)賜り、水戸藩上屋敷・小石川部落成、を移したことから始まる。
徳大寺左兵衛に作庭を命じ、3代将軍家光とともに作庭の指示を行った。
 水戸徳川家は大名の中でも数少ない定府(江戸いのこと)であったため、常に江戸に在って将軍をしていたため、後の世に「天下の副将軍」と称される事になる。
徳川光像・狩野常之信筆 (財)水府明徳会所蔵

2代・徳川光圀 (1600~1682)
水戸徳川家の初代頼房の三男として、寛永5年(1628) 水戸に生まれた。 6歳のときに世子となって江戸に出、9歳で元服して光、のちに光と名乗った。特に「水戸黄門」として有名だが、隠居した時に賜った「権中納言」を唐風に「黄門」と称したことから、人々に「黄門様」と親しまれた。
 寛文元年(1661) 父頼房の死によって水戸藩主の座につき、以後30年にわたって藩政を指導した。主に儒学を学んで人格を形成。 個学による教養を基礎として領内の民政に意をそそぎ、江戸時代を代表する名君の一人に数えられた。
 光圀の時代に当園は大いに整備され、朱舜水と共に中国趣味豊かな庭園を完成させたが、 家光と頼の志を継ぎ、 一木一石を動かすことなく作庭をしたとされる。

朱舜水(しゅしゅんすい) (1600~1682)
 中国 明時代の国学者。明が滅亡の危機に瀕したときに、日本に亡命し、長崎に渡った。 寛文5年(1665)、光団により水戸藩に招かれ東上し、 死去までの18年間光団の師として水戸藩中屋敷駒込邸 (現在の東京大学農学部内)に入り、生涯をその地で過ごした。 朱舜水は個学や礼法を伝えたほか、新しい造園技法や農業技術改良など、各方面にわたって光団に強い影響を与えた。当園への関わりは深く、 当園の名を「岳楼」から引用し 「後楽園」と名付け、光園が中国趣味豊かな景色を園内に取り入れる際には円月橋や西湖などの設計を意見したとされる。 83歳で死去。 没後は水戸徳川家歴代墓所である龍山 (国指定史跡 茨城県常陸太田市) の光団の墓のに葬られた。






小石川後楽園サービスセンター






◆庭園内の風景







◆大泉水






西行堂跡





 藩祖頼房(よりふさ)の時代に、御鞍打師「小野荘兵衛」作の西行法師の木像を安置したことから西行堂と名づけられた。
ここにある西行の歌碑は、九代斉昭の「駐歩泉」の碑にちなみ同夫人が建てたものである。なおこの堂は戦災により焼失した。






◆駐歩泉の碑



駐歩泉碑記
 後楽園の門を入って左の小山に流水があり傍に草亭を設けて西行法師の像を祀ってある。 新古今和歌集の歌の雰囲気がよく出ているので、斉昭公はこの流水を「駐歩泉」と命名し三字を大書された。 尊夫人が歌詞を書かれて別に碑を立てられた。
 園地は威公(初代藩主頼房)が創め、義公(二代藩主光圀)が更に開拓された。 井ノ頭の水を引いて池沼に貯え、瀑布・渓谷、河原に流し、分流、合流、曲流、伏流となって様々の水態を見せている。 林巒洞窟、奇岩怪石、嘉木異草、樹竹叢生など建物や橋、門などの施設とともにその景色は境に随って変り歩むごとに改まる。 すべて自然の地形をもととして修景したもので、宜なるかな、人は称して「都下名園之冠(江戸の名園のひとつ)」といっている。昔、義公は朱舜水を招聘して師事し、道芸を学び、花に月に偕にここで詩を詠じ、勝地の名を興された。その遺跡が今ここにあるのだ。西行堂の場所も昔からの柳陰清泉の景勝であるのに、惜しいことに未だその名がなかった。そこで斉昭公が此のたび命名されたのである。
 斉昭公は国の政治にも、大小すべての事光圀公に倣っておられ、この流水すらもないがしろになさらない。私担は舜水には及びもつかないが公に講義する光栄を祈っており、かつ西行は私と同姓の先人でもあるので碑記を書くこととなったものである。






◆駐歩泉



九代斉昭がこの流れを、西行法師の和歌「道のべにしみづながるる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」にちなみ「駐歩泉」と命名し、自ら筆をとり碑をたてた。






竜田川




 「寝覚めの滝」辺りでは「木曽川」と称された川も、ここ「紅葉林」では「竜田川」に変わる。 紅葉の名所である奈良の竜田川にちなむ。






◆蓬莱(ほうらい)島




 中国の神仙思想を表わす島で、先端の石は当園の作庭に携わった庭師の名をつけ「徳大寺島」と呼ばれる。島には弁財天を祀った祠がある。






◆延段(のべだん)





中国風の素朴な石だたみで、切石と玉石を巧みに組み合わせたものである。






◆白雲台跡





昼なお暗い基礎の山道を過ぎて、係留を渡りここに昇ると、かつてはわずかに白雲の行き交うのが見えたという高台。






◆木曽山



もとは古木が空を覆って昼なお暗く、渓流に沿った様子が木曽路を偲ばせる。またシェロが多くあったことから棕櫚(しゅろ)山ともいう。






◆寝覚滝



内庭池水の末流が滝となって木曽路に落ちるところで、木曽路の名所「寝覚めの床」にちなんで呼ばれている。






◆唐門跡









◆陸軍造兵廠東京工廠跡 記念碑



此ノ地ハ陸軍造兵廠東京工廠ノ旧跡ナリ。其創立ノ起源ハ遠ク徳川幕府ノ関口水道町ニ於ケル大砲製造所ニ発ス。明治二年政府之ヲ収メテ群無冠ノ下ニ造兵司ト称シ、吹上上覧所ニ置キ、四年六月之ヲ旧水戸邸跡ニ移ス。本廠即チ是ナリ。五年陸軍省ノ所属トナリ、八年砲兵本廠ト改称シ、陸軍大佐大築尚志ヲ提理トス。十二年東京砲兵工廠と称シ、造兵ノ業完備スルニ至ル。十九年五月十五日明治天皇行幸アリ、親シク各工場ヲ巡閲シ給ウ。爾来業績年放逐フテ進展シ、日進日露日独ノ三大戦役ニ参画シテ克ク兵器製造ノ大任ヲ完ウス。大正十二年陸軍造兵廠令ノ制成リ、本廠ノ組織ヲ改メ、小銃・砲具・精器ノ三製造所ヲ以テ東京工廠ヲ設立セラル。此年関東大震災ニ遭ヒ、工場ノ大半ヲ焼失シ、従業員二十四名之ニ死ス。六年満州事変起リ兵器整備ノ急ヲ告ゲ、八年遂ニ小倉市ニ移転シ、東京工廠長陸軍中将高橋貞夫ヲ長トシ、十一月小倉工廠ヲ開クニ至レリ。嗚呼春風秋雨六十余年、幾多ノ研鑽ト努力トヲ尽シテ常ニ精鋭ナル兵器ヲ製シ、累次ノ征戦ニ偉効ヲ奉ジテ我ガ武威ヲ燿シ、以テ国運ノ進展ニ資ス。本廠ノ功亦大ナルト謂ベシ。今ヤ当年大工場ノ壮観求ムルニ由ナシト雖、其業績ハ後楽園ノ翠緑ト共ニ長ヘニ不朽ナルベシ。聊カ事歴ヲ叙シテ記念ト為ス






◆富士見堂







藤田東湖(ふじたとうこ)先生遺跡






小石川後楽園 東門






◆内庭





本園は「唐門」により、内庭と後楽園とに分けられる。内庭は水戸判定の書院の庭であって、江戸時代には「うちの御庭」などと呼ばれていた。






◆鳴門







竹生島







◆瘞鷂(えいよう)碑



七代治紀(はるとし)は将軍家から賜わった鷹を大切にしていた。鷹は治紀が没した四年後に亡くなったため、 八代斉脩がこれを哀しみ碑を建てたものである。



「瘞(えい)」は墓の意、「鷂(よう)」は鷹のこと。水戸藩七代藩主治紀(はるとし)が寵愛した鷹が死んだので、 八代藩主斉脩(なりのぶ)が碑を建てたもの。碑の内容は「先公が幕府から一羽の鷹を賜り、ことのほか可愛がった。しかし、藩主が亡くなると飼っていたすべての鳥、獣などを山林に放した。鷹だけは幕府から下賜されたものであり、かつ先公が可愛がったものなので、特に留めて飼い続けたが、ついに4年後に死んでしまった。野に捨てるには忍びなく、園中に埋めて一石に表し、その由を記すこととした。文政二年冬十月(1819)斉脩」というものである。






◆異形灯籠






◆船着







◆九八屋(くはちや)






江戸時代の風流な酒亭の様子を表した。命名は飲むに昼は九分 夜は八分にすべし」と酒飲みならず万事控えるのを良しとする、との教訓による。






遠州灯籠






◆赤門(旧水戸藩江戸上屋敷中仕切門)







◆錦春稲荷神社







◆稲田

右奥にあるのは藤棚。




 二代光圀が跡継ぎである綱條の夫人に農民の苦労を教えようと作った田圃で、現在は毎年文京区内の小学生が田植え、稲刈りを行っている。






◆不老水(ふろうのみず)



いかなる干ばつにも水が枯れず、またいかなる洪水にもあふれ出すことがなかったことから、不老水と呼ばれる。






神田上水



小橋の奥に梅林。
現地には案内がなかったのでわからなかったが、右奥に「琴画亭跡」があるとのこと。
google mapで調べたら「閉業」とあったので、今はもう残っていないのであろう。






藤田東湖の記念碑



左手前にある碑文と記念碑裏の碑文がともに判読不能だったので、文字化をあきらめた。

調べると、もとからあった場所が工事のためにコチラに引っ越してきたとのこと。
元あった場所には案内板が設置されている。

その場所に訪れたことがあった。
2018/04/30 本郷散歩 02 藤田東湖護母致命の処/対馬藩宗家の江戸中屋敷跡/宝生能楽堂/水道橋稲荷/金刀比羅宮東京分社/高松藩松平家上屋敷跡 - ovanの社会科見学




 幕末の勤皇家 藤田東湖(1806〜55)は、水戸の藩士で、藩主徳川斉昭(なりあき)の信任も、きわめてあつかった。
 弘化元年(1844)藩政改革に尽力したが、逆にそれが幕府の疑惑をまねき、斉昭は謹慎に、東湖は蟄居(ちっきょ)の身となった。後に許され、斉昭は藩政に復帰し、東湖は江戸詰を命ぜられ、小石川の水戸上屋敷に住み、側用人(そばようにん)となった。
 安政2年(1855)大地震がおこり、藩邸が倒壊した。東湖は母を助けて外に出たが、母がその時、火鉢の火が危ないと、再び屋内に引きかえした。東湖は母を救い出そうと家にもどった時、鴨居が落ちてきた。東湖は老母を下に囲い、肩で鴨居を支え、かろうじて母を庭に出した。しかし、東湖は力つき、その下敷きとなって圧死した。
 その場所は白山通りで、そこに記念碑があったが、拡幅工事のため道の中になってしまった。そこでその碑は、後楽園庭園内に移された。






◆小町塚



塚石が常陸の小野の産地であることから、光圀が戯れに「小野小町」とかけて小町塚と呼んだといわれる。






八卦堂(はっけどう)跡



 二代光圀七歳のとき、将軍家光に謁見したおり「文昌星(ぶんしょうせい)」像を頂戴した。後に光圀は文学を好むようになり、文昌星を思い起こし八卦堂を造りその像を安置したという。なおこの堂は大正十二年の関東大震災で焼失した。






愛宕

坂上



坂下。



京都愛宕山の坂にならって造られたもので、四十七段の石段からなっている。 俗に傾斜の急な坂を男坂、緩い坂を女坂という。






◆円月橋




 朱舜水(しゅしゅんすい)の設計と指導により駒橋嘉兵衛が造ったとされる中国様式の石橋。橋が水面に映る形が満月になることから名付けられた。後に八代将軍徳川吉宗江戸城吹上の庭に模作を命じ、果たせなかったとの逸話がある。
 石造アーチ橋として国内最古のうちのひとつ。






◆白糸の滝



 六代治保(はるもり)のときに造られた。その様子が千条の白糸が垂れているように見えることから、この名がつけられた。






◆丸屋




 茅葺で栗の木の柱を使い、田舎の侘びた茶屋の佇まいを表している。「丸」の字を染め抜いた暖簾を下げていた。






◆一つ松



 琵琶湖をした大泉水に対し、近江大津の「唐崎の一つ松」を写したと伝わる。何度か植え替えられているが、二代光が大切にしたといわれる。  






◆蓮池

枯れているね・・・・。 






◆小廬山(しょうろざん)



中国の景勝地「廬山」にちなみ、京都東山の清水寺一帯は「小廬山」と呼ばれている。 当園ではこの一帯を京都東山に見立てていることから、「小廬山」と名付けられている。






◆涵徳亭(かんとくてい)




小石川後楽園の創築期(十七世紀)に造られた建物。当時は茅葺の茶室にガラスの障子を使っていたため「硝子(ビードロ)ノ茶屋」と呼ばれていた。現在の建物は四代目で、昭和六十一年(一九八六年)に再建した。






渡月橋(とげつきょう)



 ここから北西の一帯は京都の名勝地に見立てられている。この小さな土橋は嵐山の大堰川にかかる「渡月橋」を表す。






◆西湖の堤



 中国の名勝地杭州「西湖」にかかる堰堤を漢した堤。本園以後に造られた大名庭園の一西湖の堤」の先駆け






大堰川(おおいがわ)



 大堰川の名は京都嵐山を想起して名付けられた。
 三代将軍徳川家光の好みで作られたとされる。かつては神田上水の水を引き入れていた。両岸には蛇籠を伏せ、深山激流の趣をつくっている。






◆屏風岩(びょうぶいわ)



 屏風のようにまっすぐに屹立しているため、この名が付いた。三代将軍家光が訪れた際に、岩の近くの松に手巾をかけ、河原の石に腰を下ろして休んだといわれる。






◆清水観音堂跡




 京都清水寺を写した観音堂があったが、大正十二年の関東大震災で焼失した。






音羽(おとわ)の滝

赤い通天橋の奥にあるとおもうのだが・・・。



ここでいいのかな?



 京都・清水寺の「音羽の滝」にならって名付けられた。かつては水車で神田上水の水を汲み上げ、流していたという。






◆通天橋




 紅葉の名所である京都東山の東福寺「通天橋」にならい、大堰川にかけられた朱塗りの橋。この橋から眺めるイロハモミジの新緑と秋の紅葉が美しい。






◆得仁堂



水戸光圀ゆかりの得仁(とくじん)堂と木像 「伯夷(はくじい)・叔齊(しょくせい)」
 小石川後楽園の造営を完成させた水戸二代藩主徳川光圀 (1628~1700) は、 得仁堂を創設し、泰伯(たいはく)伯夷・叔齊像を安置しました。 光圀が堂をつくり三像を祀ったことには、その徳を慕い、手本としていた光圀の強い思いが示されています。
 三像のうち伯夷・叔齊像は、現存しています。
 「伯夷・叔齊」とは、 中国古代・股代の小国の王子兄弟の名前です。 二人は、跡継ぎになることを互いに譲り合い、国を去ったといわれています。 これに対し国民は、 「聖の清なるもの」と誉め称えました。 兄弟は善政を行っていると評判の文王を慕い周の国へ行きましたが、 時の王は亡くなり、子の武王が継いでいました。 武王が父の葬儀も済まないうちに殷の君主を征伐しようとすることを知り、父子の道、君臣の道に背くと諌めたが聞き入れられませんでした。 そこで二人は、「周に仕えて俸禄を受けるのは恥」として山にこもり、ワラビで命をつないでいましたが、 ついに餓死したといわれています。
 光圀は、6歳の時に兄をさしおいて世継ぎと定められ、苦しみ続けた自らの身の上と重ね、18歳で「伯夷・叔齊」の物語を読み非常に感銘を受けました。 光圀は 「仁を行い得た人たち」を祀る仁堂を建立し、 伯夷叔齊の木像を納め参詣したと言われています。



 二代光圀による、園内で最古の建物。光圀が『史記』を読み感銘を受けた「伯夷と叔斉」の木像が安置されていた。堂の名は、論語の「仁を求めて仁を得たり」による。






小石川後楽園 東門

1周した後、また同じところを歩いて東門から出た。






たまに見える白いドームは東京ドーム。
桑田佳祐さんのLIVEかなんかでもあったのかな?
ずっと曲が聞こえていた。





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小石川後楽園|公園へ行こう!



場所はコチラ↓



休園日
年末・年始(12月29日~翌年1月1日まで)
※イベント開催期間及びGWなどで休園日開園や時間延長が行われる場合もあります。
と、ありましたが、行かれる方は事前にHPなどでチェックしてから行ってくださいネ!