2022/11/27 放生寺




放生寺は寛永十八年(1641)威盛院権大僧都法印良昌上人が高田八幡(穴八幡宮)の造営に尽力され、その別当寺として開創されたお寺です。
良昌上人は、高野山奥の院、安芸宮島さらには諸国を修行していた折の寛永十六年二月霊夢の中に老翁現れ、「将軍家の若君が辛巳の年の夏頃御降誕あり、汝祈念せよ。」と告げられ、直ちに堂宇に籠もって大願成就を厳修、慶安二年良昌上人より寺社の由緒を聞かれ、「威盛院光松山放生會寺」の寺号を賜り、付近一帯は放生寺門前と称されていました。爾来、将軍家の数新殊の外篤く徳川家代々の祈願寺として葵の紋を寺紋に、また江戸城登城の際には寺格として独礼登城三色(緋色、紫色、鳶色)衣の着用を許されました。
さらには、御遊猟の際に当山を御膳所に命ぜられるなど、と德川實記には放生寺と将軍家との往来が詳細に記されております。
開創当時から明治までは、神仏習合により穴八幡別当放生寺として寺と神社は同じ境内地にあり、代々の住職が社僧として寺社一山の法務を司っておりましたが、明治二年、当山十六世実行上人の代、廃仏毀釈の布告に依り、境内を分割し現今の地に本尊聖観世音菩薩が遷されました。
このように当山は、徳川家由来の観音霊場として広く知られ殊に本尊聖観世音菩薩は融通虫封観世音と称され、御府内八十八ヵ所霊場第三十番札所、江戸三十三観音第十五番札所として多くの人々の尊信を集めております。

一陽来福の由来
現在暦や易占いの礎となっている書物は「宿曜経」と云い弘法大師空海平安時代に初めて中国からわが国に伝えたものであります。
當山授与の一陽来福は冬至(陰極まって一腸を生ずる) を示す言葉「一陽来復」に因み観音経の「福聚海無量」と云う偈文より「福」の字を結んで一陽来福と名付けられました。
一家の居間に毎年定められた恵方に向けて貼り 資生招福金銀融通を祈願する霊験あらたかな観音様の御礼です。
江戶天保年間に冬至前七日間真言密教による観音法の御祈祷を修して別当放生寺が信徒に授与したのが始まりです。
爾来 今日に至るまで御修法を師資相傳継承し冬至より節分迄の間授与致しております。
一陽来福が富山由来でありますことは虫封じと共に古老諸彦の熟知される所であります。







◆一陽来福

冬至より授与いたして居ります 「一陽来福」の御札は観音経に説かれております。
「福聚海無量」(ふくじゅかいむりょう)「海の如く無量の福が聚(あつ)まる」と云う観音さまのお徳を表した偈文との言葉で冬至を意味する「一陽来復」に因み「一陽来福」と名付け天保年間より代々當山に伝わる秘法を厳修し信徒に授与したのが始まりです。
冬至より節分迄毎日授与しております。







弘法大師



弘法大師
真言宗の開祖弘法大師空海宝亀五年(774)讃岐の国善通寺にご生誕されました 幼少の頃より勉学に秀で 京の都の大学で学ぶ傍ら仏道修行にも励まれ 二十歳の時得度出家されました。三十一歳の時遣唐使として唐に渡り時の都西安青龍寺にて恵果和尚より真言密教を授かりました。
帰朝後は全国を行脚して真言の教えを広め弘仁七年(816)には高野山真言密教の根本道場として開かれ師弟養成の修行の地と致しました。
そして承和二年(835)

虚空つき 衆生つき
涅槃つきなば我が願いもつきなん

とのご誓願をたをたてら これご入定され今も尚諸国を巡り苦しんでいる人をお救いして居られると言われております。
尚 大師像の周りの敷石の下には四国八十八ヶ所各札所のお砂を敷き お砂踏み霊場となっております。
一番から「南無大師遍照金剛」とお唱えれながら巡られますとお四国霊場巡拝の御利益を授かります。
この大師像は檀信徒の方々の奉納写経に依って昭和六十一年二月に建立され ました。






◆法生寺の水掛け地蔵と大震災死亡群霊塔(りょうとう)



放生寺の水掛け地蔵と大震火災死亡群霊塔
大震火災死亡群霊塔は、 大正12年(1923) 9月1日に発生した関東大震災の死亡者を弔うため、震災の翌年に建てられた。
二体の水掛け地蔵は、 震災後に高野山から移されたものと伝えられる。 区内では希少な大震災の遺物として貴重である。



地蔵菩薩
お地蔵さまはそのお名前が示すとおり、大地のように踏まれても怒ることなく、屈することもなく、大きな慈悲心で全てのものを育み救ってゆこうとする無尽蔵の力を持った菩薩さまであります。
左手に蓮華宝珠、右手には錫杖を持つ僧形で、お地蔵さまの御誓願は生と死の両界のおいて危ない処や淋しい処また子供のように、弱い者に対して力を貸してゆこうとするものであります。
鎌倉時代 民間信仰にとり入れられ賽の河原では童子の救済者として和讃にまで唱えられ子育地蔵、子安地蔵の名で古くから信仰されております。
尚 地獄の仏ともいわれ悪業の限りをつくした者でも心から改心すればお救い下さると言われております
真言 オン カカカビサンマエイソワカ







神変大菩薩



神变大菩薩
神変大菩薩は元の名は役の小角または役の行者と申され、 今より千三百年程前に大和国葛上郡掖上(わきがみ) 村の高加茂家にお生まれになりました。御一代記に依れば大和の葛城山を根拠に吉野金峰山 大峰山富士山等合わせて九十余峰を開き神仏習合に基づいた修行をされ、修験道の開祖と仰がれた方で法力の霊験不思議なこと古今を絶すると称されております
寛政十一年(1799) 光格天皇より神変大菩薩諡号(しごう)を賜りました。
山野を駆けめぐって修行されたことに因み、特に足腰の弱い方をお救い下さると言われており、富山では「ぞうり」の懐中御守「祈願の絵馬」を本堂にて授与しております。
お陰を頂かれた方々も多くおられます。足腰の弱い方は月々にお詣りになり、お蔭をお授かり下さい。







放生会



放生会とは元々は殺生を戒める宗教儀式でありました。
富山では全ての生きとし生けるものに対して命の貴さと慈悲の心を願い放生会を厳修しております。
私達は多くの生きもののお蔭で生命が養われています現代はそれらの生きものに感謝する気持ちが薄れ それらが当然であるかのように思いがちですが これらの生きものがなくては私達は生きてはいけません。
経典の中に「六道の衆生は皆是れ我が父母なり」とあるように全ての生きものは、私達と同じ生命を生きています。放生会とは全ての生きとし生けるものに感謝し 私達の為に貴い命を与えてくれた禽獣魚介類の霊を供養する法会です。
この行事を通じて生命の貴さ大切さを思い 生きものに対する優しい心が育つことを願い、境内にある放生池に稚魚を放ち(後に秋川に放流) 放生碑に塔婆を供えて御供養いたします。
當山に於いては開創以来この放生会を修しており徳川三代将軍家光公より 光松山威盛院放生會寺の寺号を賜ったことが「江戸名所図会」及び「新武蔵風土記」に記載されております。
毎年十月体育の日に厳修される放生会の浄行に御参加下さい。

馬頭觀音菩薩
観世音菩薩化身の内唯一の忿怒像でもあり怒りが強い程内には人を救うお力(慈悲の心も大きく、また馬は大食いであるということから、人々の悩みや苦しみ(煩悩)を喰べ尽くすと言われております。
畜生道を救うことから放生会を厳修する当山ではお祀りを致しております。
真言 オン アミリトドハンパウンパッタ ソワカ














◆板碑?







◆言の葉の碑







◆山門