2022/12/24 武蔵野八幡宮


『789年(延暦8年)に創建された。坂上田村麻呂宇佐神宮の分霊を勧請した。これが当社の起源である。元々は江戸水道橋付近に位置していたが、明暦の大火で焼失したため、周辺住民ともに現在地に移転した。吉祥寺村開村と同時に、吉祥寺村の鎮守となった。
境内には、「神田御上水井之頭辨財天」と彫られた井の頭弁財天行きの道標が残されている。 』
武蔵野八幡宮 - Wikipedia





江戸・東京の農業 吉祥寺ウド

 武蔵野八幡宮周辺は旧武州多摩郡吉祥寺村として、江戸時代より畑作農業が盛んな所でした。 五日市街道に面していたので、江戸との交流も多く、野菜や薪の供給地でもありました。
 ウドは数少ないわが国原産の野菜のひとつで、古代から自生のものが利用されていました。
 記録によれば、この地で栽培されるようになったのは、江戸時代後期の天保年間(1830~44) とされています。
 元来、強健で適応性の広いウドは、 武蔵野にもよく適し、特に冬から春にかけては野菜が不足していたことから、この時期に生産されたウドは独特の歯ざわりと香りで、江戸庶民に歓迎されました。
 明治、大正、昭和と栽培は益々盛んになり、 吉祥寺ウドとして広く知られました。 しかし、その陰には篤農家による創意と努力により、他に例を見ない純白に育てる、 「穴蔵軟化法」 等、 技術開発のたゆまぬ研究がありました。
 都市化により栽培面積は減少してきましたが、特産吉祥寺ウドは、その後 「東京うど」として全国に知られるようになりました。





厳島神社/稲荷神社/須賀神社/疱瘡神





神田上水 井之頭弁財展 道標



この道標(みちしるべ)は井の頭弁天様へお参りする人のために建てられたもので台座を含めると約二メートルありみちしるべとしては大きいものです。
正面には 「神田 御上水 井之頭辨財天」と彫られており左側面には「天明五歳乙巳三月吉日」「これよりみち」とあります。
(注、天明五年は西暦1785年) もとはここ八幡宮の対角にあったのですが大正時代に道路拡幅のため井之頭通りと吉祥寺通りの交差する旧大踏切際に、さらに昭和四十四年武蔵野郷土館(現在江戸東京たてもの園へと移設を繰り返し平成二十年九月八日当初の場所に程近いここ武蔵野八幡宮の地に戻すことができました。





◆鳥居




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