2020/10/30 観泉寺


戦国大名の末裔である今川氏の菩提寺である。境内にある今川氏累代の墓は、東京都の旧跡に指定されている。
ほかに枝垂桜、紅葉などの名所としても知られている。 』
観泉寺 - Wikipedia

※2022/12/03 に再訪したので2020/10/30を元に再編集しています。






 当寺は宝珠山観泉寺といい、本尊は釈迦如来で、戦国時代の名門今川氏ゆかりの寺として広く知られています。寺伝によれば、慶長二年(1597)今の下井草二丁目付近に開山鉄叟雄鷟大(てっそうゆうさく)和尚により開祖され、観音寺と称しました。
 正保二年(1645)今川十三代直房は、将軍家光の命をうけて京に上り、東照大権現宮号宣下の使者を勤めました。その功により井草村など三か村五百石の加増をうけました。それを機に当寺を菩提寺とし、現在地に移して寺名を観泉寺と改めました。信仰厚く伽藍建立に寄与した姉(観泉寺殿簾室慶公大姉)を中興とし、万昌院(現中野区)から祖父氏真(うじざね)の墓所を当寺に改葬、勧請開基しました。
 ここに眠る開基今川氏真は、今川氏が潰れた永禄三年(1560)五月十九日「桶狭間の戦」で父義元を失い、家督を継ぎますが、領国であった駿河は北条氏・武田氏が、近江は松平元康(徳川家康)が支配することになりました。今川氏没落後の氏真は、北条氏や松平氏の下に身を寄せ、文化人として多くの和歌を詠んでいます。徳川幕府が成立したのち、今川氏は幕府高家として召し抱えられ存続しました。
 境内墓所にある、氏真を含む今川氏歴代の墓は都の旧跡に指定されています。





観音堂





◆鐘楼





◆今川氏累代墓




 戦国時代、桶狭間の戦いで、織田信長に敗れた今川義元の子孫は、江戸時代には高家として幕府に仕えました。今川家は知行所として上・下井草、鷺宮、中村などを給され、幕府の儀式典礼を司り、将軍の名代として京都への使者や、日光、伊勢などの代参を勤めました。
 義元から三代目となる直房はこの観泉寺を今川家の菩提所とし、今川氏の始祖国氏や義元など今川一族の供養を行うようになりました。墓碑が残るのは義元の子氏眞以降の当主や一族出身の女性や子供などなど多岐にわたっています。
 また、観泉寺は今川氏の所領支配の中心でもあり、年貢の徴収や裁判の拠点となっていました。
 この周辺の今川という地名も今川家と観泉寺とのかかわりに因むものです。





◆石塔・地蔵など











◆山門



2022/12/03 撮影。





◆境外の景色

2022/12/03 撮影。



2022/12/03 撮影。