2023/01/06 清澄庭園


24時間勤務アケ後に残業し、錦糸町へ飲みに行った後の清澄庭園
ぐるっとパスで入園。




東京都指定名勝 清澄庭園
 泉水、 築山、 枯山水を主体にした 「回遊式林泉庭園」 です。 この造園手法は、 江戸時代の大名庭園に用いられたものですが、 明治時代の造園にも受けつがれ、 清澄庭園によって近代的な完成をみたといわれています。
 この地の一部は江戸の豪商・ 紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と言い伝えられています。享保年間(1716~1735)には、 下総国関宿藩主・久世大和守の下屋敷となり、 その頃にある程度庭園が形づくられたようです。
 明治11 (1878)年、岩崎彌太郎が、 荒廃していたこの邸地を買い取り、社員の慰安や貴賓を招待する場所として庭園造成を計画、 明治 13 (1880) 年に 「深川親睦園」として一応の竣工をみました。 彌太郎の亡きあとも造園工事は進められ、 隅田川の水を引いた大泉水を造り、周囲には全国から取り寄せた名石を配して、 明治時代を代表する庭園が完成しました。
 清澄庭園は、 大正12(1923) 年関東大震災で大きな被害を受けましたが、 この時図らずも災害時の避難場所としての役割を果たし、多数の人命を救いました。 岩崎家では、こうした庭園の持つ防災機能を重視し、 翌大正13(1924) 年破損の少なかった東側半分(現庭園部分) を公園用地として東京市に寄付し、市ではこれを整備して昭和7 (1932) 年7月に公開しました。
 また、 昭和 52 (1977) 年には、庭園の西側に隣接する敷地を開放公園として追加開園しました。 なお、清澄庭園は、昭和54(1979) 年3月31日に東京都の名勝に指定されています。



 江戸時代、ここは下総国関宿藩主久世家の下屋敷でしたが、明治11年三菱財閥岩崎弥太郎氏が買収し、 岩崎別邸として造園されました。 大正12年の震災のあと比較的被害の少なかった東半分の庭園を公園として東京市に寄付しました。
 全国各地から約60種におよぶ奇岩珍石が集められ、広大な池水を囲んだ大小の島々の配置や涼亭と池のみぎわの美しさは、都内屈指の名園として知られています。
 昭和54年には、都の名勝第1号に指定されています。





◆正門






◆大正記念館






高松宮記念植樹





◆多重塔(十一重)

高さ 約2.7m(九尺) 石質 奈良御影
 この多重塔は、園内の石材の中ではかなりの年代もので、出来も良く、最も貴重なものである。
 初重軸部に、四方仏が刻まれている。





◆中の島

手前の池は「芦辺の浜」となっている。





◆九重の塔





◆石仏群

庚申塔
高さ 89.5cm
石質 安山岩(小松石)
時代 寬文十年在銘(1670)

②法印慶光供養塔 (阿弥陀佛)
高さ 141cm
石質 安山岩(小松石)
時代 延宝七年在銘(1679)

庚申塔
高さ67.5cm
石質 安山岩(小松石)
時代 文化十二年在銘(1815)

馬頭観音供養塔
高さ 44cm
石質 安山岩(小松石)
時代 安永三年在銘(1774)





◆富士山・春日灯籠





◆鶴島





◆花菖蒲田





◆「古池の句」碑由来



 当庭園より北北西四百メートル程の所に深川芭蕉庵跡(江東区常盤一丁目三番・都指定旧跡)があります。松尾芭蕉は、延宝八年(1680)から元禄七年(1694)まで、門人の杉山杉風の生簀の番屋を改築して、芭蕉庵として住んでいました。
 かの有名な「古池の句」は、この芭蕉庵で貞享三年(1685)の春、詠まれています。
 この碑は、昭和九年に其角堂九代目の晋永湖という神田生まれの俳人が建てたものですが、芭蕉庵の改修の際、その敷地が狭いので、特に東京市長にお願をしてこの地に移したものです。従って、この場所が芭蕉庵と直接ゆかりがあると言うことではありません。
 なお、当庭園の南東側、海辺橋緑地に採荼庵跡がありますが、芭蕉は元禄二年(1689) に 「奥の細道」の旅をここから出発しました。






◆石舞台





◆涼亭






◆春日灯籠





◆清澄園記

本園はもと岩崎男爵の別墅なりしを大正十三年六月東京市に公園としてせられたるものなり。
江戸地圖を案ずるに寛延二年前にありては松平大炊の名見ゆるも以後は久世大和守の下屋敷となり明治維新後は久しく荒癈に歸せしを明治十一年に岩崎彌太郎君始めて付近一帯と併購して別邸を構え庭園を拓き殊に奇巌珍石を全國より移し来たりて其景観を添へ名けて深川親睦園と云ひ故旧内外紳士を会してその清娯を倶にし又社員平日の勤労を慰むるの處せられたり十八年君溘逝の後彌之助君は今兄の志を紹きさらに園地を修造し館舎を新築て樹石泉水の配置より壮橋幽煙の景致に至るまで瀟洒清雅の趣を画されたれば明治時代に営造されし代表的大庭園となり往古にも比するもの尠き名園として其名内外に高きに至れり
斯くて大正九年に及び岩崎家は市民行樂の地少なきを思ひ爲めに清澄庭園の名に於て其の東南隅約三千坪を公開せられたるが幾もなく十二年の大震大火にこの名園の建築物と老樹佳水とを併せて殆ど烏有に歸せしめたるも幸に全園の布置結構に於ては大變化を來たさざりしかば久彌君は比較的破損の尠かりし東半部一萬五千五百四十一坪を公園として永久に保存すべく本市に寄附せられたり 本市は直に復舊の工を起し二年を經て竣工せしが昭和三年大正天皇の葬場殿の御下賜ありたるを以て其の材料を用ゐて舊館址に建坪七十一坪の集會場を建設したり卽ち今の大正記念館是なり本園の市有に歸せしは全く男爵家が市民に對する好情の發露にして吾等市民は各自業務の餘暇此處に來りて心身を泉石花木の間に娯ましめ以てその健康を保持し徐に本園の由來する所を思はば亦必ず感謝の情を發し油然として愛園の念を生ずるものあらん爰に是を記して後の人に告ぐ






◆磯渡り





◆石橋

左側は「長瀞峡」





◆石橋

手前側が「長瀞峡」





◆松島





◆山燈籠





◆大磯渡り





◆船付石





◆磯渡り





◆飾り







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休園日
年末・年始(12月29日~翌年1月1日まで)
とありましたが、行かれる方は事前にHPなどチェックしてから行ってくださいネ!