2023/01/22 下野谷遺跡公園(下野谷遺跡)


『下野谷遺跡は武蔵野台地を東西に流れる石神井川の右岸に面した双環状集落である。古くから遺跡の存在は知られていたが、1970年代の本格発掘調査とその後の調査により大規模な縄文時代集落であることが判明し、西東京市教育委員会により2007年(平成19年)に一部が公有地化され、下野谷遺跡公園として整備されるに至った。
公園内には竪穴住居の骨格復元・出土状況の復元・土層の堆積状態を表す土層模型があり、また公園中央部には子供の遊びの場として「原っぱ広場」が整備されている。縄文時代の集落の学習を目的にクリやクルミの木も植えられている。 』
下野谷遺跡公園 - Wikipedia


武蔵野台地を東西に流れる石神井川の右岸に面した双環状集落である。この近辺では戦前から縄文土器片などが多く見つかるため古くから遺跡として知られ、1950年(昭和25年)に考古学者の吉田格によって「坂上遺跡」の名で紹介された[2]。その後、1973年(昭和48年)から本格的な調査が開始され、1975年(昭和50年)には旧字名から現在の名称に変更されている。1990年代以降、史跡として保護が図られ、2007年(平成19年)度の公有地化ののち、2009年(平成21年)度から2011年(平成23年)度にかけて遺跡規模を把握するための発掘調査が実施され、関東南部では最大級の大規模な環状集落であることが判明した。
西側の環状集落(西集落)は、直径150メートルを測り、竪穴住居107軒、土坑墓群166基のほか、倉庫と推定される掘立柱建物群などで構成されており、縄文中期の典型的な集落形態を示しているとされている。
西集落の谷を挟んだ東側に、もう一つの環状集落が存在する(東集落)。こちらは東西300メートル・南北180メートルの規模を持ち、西集落とほぼ同時期的に存続したと考えられており、「双環状集落」と呼ばれる拠点的な集落の特徴を持っていた。また、集落の形態に加え、出土した土器から推定できる集落の継続期間の長さ(1,000年以上)から石神井川流域の拠点となる集落であったと考えられる[3][2]。石神井川に面する日当たりの良好な高台から低地にかけて広がっていたとされ、水と緑に囲まれた土地は採集や狩猟には好適な生活の場であったと想定される[2]。出土した縄文土器は縄文中期の勝坂式土器や加曽利E式土器が最も多いため、甲信越南東北の影響を受けているとされる[2]。この集落跡は南関東最大級の縄文集落跡であり、首都圏にある遺跡が開発されずに残されている例は極めて珍しいとされる。
2015年(平成27年)3月10日に国の史跡に指定され[1][3]、2022年(令和4年)3月15日には国史跡範囲の追加指定が行われた。 』
下野谷遺跡 - Wikipedia





◆下野谷遺跡と周辺の地形





国史跡 下野谷遺跡 躍動の舞台 下野谷遺跡の昔と今

下野谷遺跡とは
 武蔵野台地のほぼ中央、石神井川の南岸の高台にある、3万年近く前の旧石器時代から近代に至る長い歴史が刻まれた遺跡です。

下野谷遺跡の発見
 戦前から土器が見つかっていましたが、正式な発掘調査は1973年から行われました。その後の調査・研究の結果、今から5,000年から4,000年前の縄文時代中期には、石神井川流域の拠点となるような大集落が1,000年間にもわたり、存在していたことがわかりました。

下野谷遺跡の範囲と2つの集落 「双環状集落」
 下野谷遺跡は、石神井川を北に望む高台と低地に立地し、縄文時代中期には、台地のほぼ中央にある浅い谷を挟んで、東西に2つの集落がありました。 東西の集落はいずれも規模が大きく、 縄文時代の典型的な集落(環状集落) の構造をしています。 こういった複数の集落が隣接する集落は「双環状集落」と呼ばれ、地域の拠点と考えられています。

下野谷遺跡の東西集落
 東西集落は、いずれも歴史的価値の高い集落遺跡です。しかし、東集落は近年の開発に伴う発掘調査が多く行われ遺跡の一部が失われています。 西集落は東集落の豊富な資料を基に、 今後も保存と研究が両立できる貴重な遺跡です。

国史跡 下野谷遺跡
 縄文時代中期の集落遺跡の規模としては、南関東最大で、特に西集落は、都市部において約25,000㎡の集落全域が保存されている非常に貴重な遺跡として、 平成27年3月10日に国史跡に指定されました。





◆縄文里山の暮らし 未来につなぐ下野谷遺跡と縄文の心

四季のめぐみ
 縄文時代になると、 日本列島には春夏秋冬の四季が生れます。 この四季のめぐみと、海に囲まれ、平地と山岳地帯がつながる複雑な地形が、 豊かで変化に富んだ自然環境を生み出し、世界でも類を見ない安定した狩猟・採集・漁撈による文化が華開いたといわれています。

縄文里山の誕生
 その中で、 人々は周囲の豊かな自然のめぐみを十分に活用する知恵を身に着け、ムラの周りの環境を自らの手で生活に適したものに変えていきました。 「縄文里山」の誕生です。

ムラの生活と縄文ネットワーク
 「縄文里山」 の中で、 家族を中軸としながら、 流域のムラ、さらには遠方の山岳地帯や島しょ部のムラとも交流を広げ、 縄文人の生活は豊かになり、 文化は広がっていきました。また、現代的な 「戦争」 はなかったと考えられています。

史跡下野谷遺跡の整備
 このような自然と共生する暮らしの知恵や人と人とのつながりの豊かさから、 現代の私たちは多くのことを学ぶことが出来ます。
 史跡下野谷遺跡では、縄文時代の典型的な集落を、 周辺の環境、それを支える考え方も含めた 「縄文里山」として保存し、復元を目指した整備を行います。

未来につなぐ下野谷遺跡
 整備は多くの人の手で継続して行い、 常に成長する史跡をめざします。
 また、貴重な文化資源を未来に引き継ぐとともに、広く世界に発信していきます。
「縄文から未来へ したのやから世界へ」 「みんなでつくる、つなげる都市部の縄文空間」この2つをコンセプトとして、 下野谷遺跡は、縄文の知恵を未来に、 世界につなげます。





◆華開く縄文文化 下野谷遺跡と縄文文化

拠点集落の誕生
 下野谷遺跡に大集落が作られていた縄文時代中期は、安定した気候のもとで縄文文化が大きく華開いた縄文時代の最盛期といわれています。
 遺跡数が爆発的に増加し、河川沿いに数多くの遺跡が分布しその中に拠点となるような集落が現れます。 下野谷遺跡は石神井川流域の遺跡群の拠点となる集落です。

出土遺物から見た下野谷遺跡
縄文土器
下野谷遺跡からは、中期中葉から後期初頭までにわたる土器が、型式の連続が途切れることなく大量に出土していて、 約1,000年間にわたり集落として使用されていたことを示しています。

主体となる土器
勝坂1式~加曽利E4式・連弧文系(分布の中心 関東)阿玉台式 (分布の中心 東関東) ・曽利式 (分布の中心 甲信越)中には、曽利式と連弧文系土器という主な分布地域が異なる型式が折衷した形態のものもあり、広域から人や物、 情報が集まってきていたことがわかります。

石器・石製品
弓矢の先につける石鏃などの原材料となる黒曜石も、分析の結果、神津島八ヶ岳といった遠く離れた複数の産地のものがあることがわかっています。 また、大量に出土する打製石斧は土堀具として使用されたと考えられ、木の伐採に使われたと考えられる磨製石斧や、ドングリなどの堅果類を磨り潰す石皿の存在とともに、 植物資源の利用が活発であったことを示唆しています。

植物の利用
市民協働で進めている土器に残る痕跡を調べる圧痕分析では、エゴマやダイズの原生種であるツルマメ、 ヤブツルアズキ、ミズキなどが見つかっており、これらの分析を通して、植物の利用形態が管理から栽培へと移行していく過程が追える可能性があります。土器の付着物から、 漆を利用していたこともわかりました。





◆森と川の大集落 縄文時代のしたのやムラ

集落の立地
 縄文の森と石神井川の水が支えた、 南関東最大級の縄文集落です。 集落が造られた台地の北側には、 低地が広がり、 その中をいく筋もの川が流れていました。 湧水と沼地のような部分があり、水が豊かで日あたりの良い高台に東西の集落が営まれていました。 川は魚をとるだけではなく、ドングリなどの水さらし (アク抜き) や丸木舟での移動にも使われました。

集落の形
 墓と考えられる土坑群のある広場を囲み竪穴住居が建てられ、その境には掘立柱建物が配される、 縄文時代に典型的な 「環状集落」 と呼ばれる形態です。
集落の規模: 西集落 150m×150m 東集落200m×300m

集落を構成する構造物
住居
竪穴住居。 半地下式。 集落の周辺のクリの木等を柱として、 中央に炉があります。 上屋構造は、 草ぶき、 土ぶきなど諸説あります。 円形のものが多く、直径4~5mが標準で、 大型のものもあります。 住居を廃絶したあとの凹地から大量の土器がみつかることもあります。

倉庫
 掘立柱建物。 床の掘り込みがなく、太い柱穴だけが見つかる方形の建物で、高床式だった可能性もあります。


土坑 (どこう)。 楕円形の穴で、 長径が1m以上のものも多く、中に土器が逆さまに安置されているものや耳飾り等がみつかるものもあります。 骨などの有機物は、消失してしまっています。





◆整備の進行状況

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