2023/01/31 ひばりヶ丘・三鷹散歩 03 保谷なかよし公園/西浦北向地蔵尊/石製尾張藩鷹場標杭/西浦回向地蔵尊/櫓?/瀧島稲荷神社

前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/01/31/140000




保谷なかよし公園





◆西浦北向地蔵尊



 この地蔵菩薩が造立された享保期は、鷹場が復活し、上保谷新田を含む武蔵野新田の開発が始まろうとする八代将軍吉宗の時代です。基段の銘文によれば本願・講元が野口武右衛門、「一緒之同行廿四人」、つまり二十四人が結衆した念仏講中によって、講の主尊であるこの地蔵尊を造立しました。 蓮座中央の蓮弁に地蔵の梵字種子「」 (カ)が彫られていて格調を示しています。講中享保以来、いく世代を超えていまも継承されていて、一集落単位の信仰結衆の伝統を続けるものとして希少です。銘文にある講元の野口武右衛門は野口家の先祖にあたります。
 現在は毎年七月二十四日盆の縁日に講が開かれますが、講中は同時に大山講をも兼ねているところから、この日盆山と呼ばれる大山詣に代参人を送っています。






◆石製尾張藩鷹場標杭



 江戸時代の多摩・新座・入間郡、百八十五か村に、尾張藩徳川家の鷹場が設けられ、上保谷村はその東南の隅に位置していました。享保二年(1717)以後、鷹場をかこんで境界線に八十三本の石杭が立てられ、そのうち上保谷村の村境には、九本の御定杭がありました。幕末に鷹場は廃止され、多くの杭が廃棄されましたが、上保谷村では五本が保存されました。正面の銘文と記録により、小字「柳沢」・「下野谷」・「坂上」に立っていたものであることがわかります。このようなまとまった保存は、新座郡溝沼村(埼玉県志木市)の四本と上保谷村のみです。尾張藩の鷹場は、武蔵野の村むらの生産と生活に大きく影響し、農民にさまざまな負担が課せられました。この御定杭は、鷹場の歴史を表す遺物として貴重なものです。






◆西浦回向地蔵尊



 上保谷村西浦の念仏講中24人が享保4年(1719年)に建立したものです。 田無宿から飯盛女が北へ向かって逃げ、 このあたりで捕らえられて折檻されたり、首を縊ったりしたので供養のため建立したとの伝承があり、 俗称 「北向地蔵」と呼ばれています。 講中は現在まで継承されており、毎年7月24日に西浦の大山講と共に祀っています。 集落の信仰の伝統を続けるものとして珍しい存在です。






◆櫓?

現地にはこの施設に関する情報源は見つからなかった。
火の見櫓のなれの果てかと思う。



google mapでは赤丸印のところあたり。





◆瀧島稲荷神社



梅が咲いていた。





続く。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/01/31/150000