2023/02/19 清瀬中央公園(平和の塔・石田波郷句碑・清瀬病院跡地)






◆平和の党



澄川喜一氏制作
「平和の塔」
澄川喜一氏の経歴
・昭和 6年 島根県に生まれる
昭和36年 清瀬市に転入
・昭和49年 清瀬市立中央公園の 「平和の塔」 を制作
・昭和56年 東京芸術大学教授。
・平成 2年 キヨセ ケヤキ ロードギャラリーの彫刻 「そりのあるかたち'90」 を制作
・平成 7年 東京芸術大学学長
・平成10年 紫綬褒章受賞
・平成11年 紺綬褒章受賞
・平成15年 東京芸術大学名誉教授
・平成18年 東京スカイツリーのデザイン監修
・平成20年 文化功労者
・平成22年 清瀬けやきホールの壁面レリーフ清瀬の流れ」 「日月」を制作
平成24年 清瀬市名誉市民



 すぎし第二次世界大戦の歌を見てから2日経過したん戦争は再び起してはならない?と 私達は深く心に刻み戦死された市民 戦災 引揚などで亡くなられた市民の霊を今ここに祀ります
 真の平和と社会の繁栄が永遠に続くことを市民一人一人が願いをこめてこの平和の塔を建設しました。この塔は市の平和のシンルとして、まだ市民の心のよりどころとしていつまでも平和を守りぬいていきます






石田波郷句碑



夕竹惜命の文字隠れなし
遠く病めば銀河は長し清瀬
石田波郷

 石田波郷は、昭和二十三年肺結核のため初めて清瀬の療養所に入院し、その後入退院を繰り返し、その間に町立清瀬中学校の校歌を作詞され、昭和四十四年十一月清瀬の療養所で亡くなられた昭和俳壇を代表する俳人の一人です。
 波郷が長い療養生活を清瀬で送ったことから、俳句の仲間、波郷俳句の愛好者、あるいは交流のあった清瀬の人達などの間で、かなり以前よりこの清瀬に波郷の句碑を建立したいとの声が、幾度となく持ちあがりました。 しかし、諸々の事情から句碑建立はかなわず、長い時間が経過しました。
 今年2013年(平成二十五年)は、波郷生誕一〇〇年、没後四十五年にあたり、是非清瀬に波郷の句碑を建立したいという気運が盛り上がりました。その結果、四百名を越すにある人達の協力により、波郷と縁の深いこの清瀬に、その業績を末永くとどめ、多くの人が波郷を記憶するための「自分達の句碑」の建立がかないました。
 また、この句碑が文化の香り高いまちづくりを目指す清瀬市への一助となればと願うものです。



 石田波郷 (本名 哲大) は、 大正2年愛媛県松山市に生まれる。
 水原秋櫻子門の五十崎古郷に師事し、 波郷の号を与えられる。
 昭和7年秋櫻子を頼り上京。同12年、 24才にして俳誌「鶴」を創刊、主宰する。
 昭和18年応召、戦地にて肺結核に罹患。 同23年清瀬の療養所に入所。
 句会などを通じ、 療養所内の患者の方々、地域住民の方々と交流を深める。
 昭和25年句集 「惜命」 を刊行。 療養俳句の金字塔と高く評される。
 昭和 31 年随筆集 「清瀬村」 を刊行。 同年清瀬町立清瀬中学校の校歌を作詞。
 昭和44年11月21日 清瀬東京病院にて永眠、享年56歳。






清瀬病院跡地




 結核死に至る病であつたころ、当時無医村だつた清瀬のここに、東京府結核療養所として、 府立清瀬病院を作りました。 それはやがて国公私立15の療養所や研究所となり、全国からの入院患者は多いときには5000人を越えるほどになりました。 清瀬結核治療のメツカといわれました。
 現在、結核は不治の病ではなくなりましたが、 世界の結核学者で清瀬の名を知らない人は少いでしょう。
 ここは、そういう歴史の出発地点です。



 清瀬における結核治療の歴史は、昭和六(1931)年に「東京府清瀬病院」が開院したことに始まります。
 発端は、昭和二年の東京府議会で府立結核療養所清瀬設置が可決されたことでしたが、当時の清瀬村議会はこれに反対の陳情書を提出。 一旦、この計画は中止となりましたが、翌年再び清瀬への設置が決定されると、これに対して村議会はさらなる反対の議決と、それに同意する地元住民の陳情書を提出し、当地への結核療養所の設置に反対の意思を示しました。
 しかし、当時の小島長太郎村長は、無医村であった清瀬村の医療の充実を図るため、療養所の設置を了承。 昭和六年十月に「東京府清瀬病院」が開設。
 当時の清瀬病院は、赤松の雑木林に囲まれたおよそ一万一、〇〇〇坪の敷地に一〇〇床の病床を持つ療養所でしたが、利用者の増加により次第に八〇〇床を超す大療養所となりました。
 周辺には、昭和八年にヨゼフ・フロジャック神父による「療養農園(現在のベトレヘムの園病院)」が開園。さらに同十四年「傷痍軍人東京療養所」と「結核予防会結核研究所」が設立。
 その後、東京府清瀬病院は昭和二十年に傷痍軍人東京療養所と共に厚生省へ移管となり、「国立療養所清瀬病院」へと改称。 昭和三十七年一月には傷痍軍人東京療養所へ統合し「国立療養所東京病院」と名称をかえ、 二、〇〇〇床を超える大病院となりました。
 当時、十五もの結核関連の病院が建ち、約五、〇〇〇人に及ぶ人々が療養生活を送ったとされ、見舞客が増加。駅周辺も活性化し、清瀬の名は全国的にも知られるようになりました。
 ところが昭和四十五年一月、同病院の第十四病棟西側から出火。 古い木造病棟五棟を全半焼する火災が発生。このことで二月に昭和六年から引き継がれた清瀬病棟の閉鎖が決まり、療養中の患者は「東療病棟(傷痍軍人東京療養所の場所)」に建てられた新病棟に移され、清瀬病院の歴史に幕が下りました。
 作家の吉行淳之介が昭和二十九年「雨」で芥川賞を受賞したのは、清瀬病院で手術を受けて、療養中のときでした。
 清瀬病院跡地は、清瀬市指定有形文化財「外気舎記念館」と共に、国民的疾患であった結核治療の歴史を物語っています。周辺地域には現在でも結核研究所や日本BCG研究所が所在し、世界規模で結核の撲滅に貢献しています。







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