三基いずれも柳窪四丁目一四番の路傍(T字路)から2016年に移設しました。
右 庚申塔
正面に日月を右手に剣を持つ青面金剛像とその足下に三猿が彫られています。 無数のくぼみのうち顔と下腹部などは、眼病や安産を願う民間信仰を考えることができます。 明和元年(1764年)の造立。
中央 石橋供養塔
黒目川に架けられた石橋の永久安全を祈願して、 明和六年(1679年)に柳久保村の念仏講中によって造られたことが、両側面に記録されています。 正面上部に彫られているのは、観音立像です。
左 地蔵菩薩石像
年号部分がはがれていて正確にはわかりませんが、 江戸時代後期のものと考えられます。 側面に「造主柳久保村惣施主」と彫られており、村人の総意で造られたことが分かります。
当基碑は長福寺先住各尊霊の碑で法縁 由緒等は詳らかではないが古くより柳窪五丁目五二八番地に安置されてきた。
このほど恩田柳窪土地区画整理組合事業により遷座を余儀なくされ ゆかり深い当寺域に奉安し 永えに供養の香華をたむけ仏果増進をすすめるとともに地元住民の心平安と幸福をあわせ記念するものなり。
◆神楽殿
◆玉垣完成記念碑
ここ柳窪の里に人々が移り住み、居を構え、地域の安泰と家内安全を願って造営されたであろう天神社を、代々心の拠小所として大切にお守りして参りましたが、時代の推移と共に境内の再整備が望まれ、氏子会役員をはじめ天神社を崇敬し関わりを持つ人々が、共にこの平和な柳窪に育てられた感謝の証として玉垣を奉納し、併せて境内の整備を行うべくご賛同を得て平成八年八月工事に着手、以後順調な推移により見事完成させる事が出来ました。
ここに玉垣の完成に当り碑を建立し、その事業を記念すると共に天神社の御神徳を戴き、柳窪の未来永劫の発展と後世に生きる子孫の繁栄を心から祈念するものであります。
江戸・東京の農業 柳久保小麦
麦は米とともに重要な主食作物であると同時に、味噌などの原料でもあり、かつて冬の東京の畑は一面が麦畑でした。
小麦の品種「柳久保」 は、嘉永4年(1851)、 現在の東久留米市柳窪の奥住又右衛門が、旅先から持ち帰った一穂の麦から生まれたと言われます。
優良な小麦だったので評判になり、「又右衛門種」、あるいは「柳久保小麦」と呼ばれ、東京各地や神奈川県など近隣県の農家でも栽培されました。
この麦からは良質の粉ができ、うどん用として大変人気がありました。 また、麦の草丈が長いので、 麦藁は農家のわら屋根」にも利用された重要な品種でした。
こうして、この麦は長い間栽培が続けられていましたが、昭和17年でその姿消えてしまいました。
現在、柳久保のタネは農林水産省生物資源研究所に保管されています。
柳窪梅林の碑
「柳窪里梅林之記」が刻まれていることから柳窪梅林の碑とよばれています。
この碑文は、江戸時代の安政四年(1857)に六所宮神主(府中の大国魂神社宮司)であった猿渡盛章(さわたりもりあきら)が書いたもので、古い祠の傍らにあった「天神松」という老木が枯れるのを惜しんで、村人と梅林の植樹を
したことが記されています。そのなかには、「来梅ノ荘の里」や「来梅川」という名が記されており、現在の地名を考えるうえで貴重な資料となっています。
裏面には「ちとせとて まつはかぎりのあるものを はるにあらば はなはみてまし」という菅原道真が詠んだと伝えられる歌が梅沢敬典という書家の手によって書かれています。
この緑地は、黒目川の源流域を中心に、 社寺林や屋敷林が寄り集まった樹林地です。 主にケヤギ、シラカシ、ムクノキ、イヌシデなどから構成される雑木林で、市街地の中に残された貴重な自然地です。 東京都は、この自然を将来にわたって保全していくため、 この地域を緑地保全地域に指定しています。
天神橋の橋名の由来は、大神にお参りに行くとき川を渡る橋という意味で名付けられたと言われています。
当初は都内でもめずらしいご縁でしたが、石桁など老朽化が著しいため、平成4年度整備工事で、途中昭和7年の拡幅工事で見えにくくなっていた石橋のイメージを新たに桁を構築しました。 また、当時の石桁はベンチに加工しての周辺に移設しました。
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