三十間 の検索結果:
…は明治のはじめの頃、三十間堀より出世したと云われております。当時、地元の鳶職が銀座4丁目3番地辺(現在の4丁目7番地)の空地へ安置しましたところ、道行く人々や近隣の信心篤い人達が花や団子を供え参詣するようになりましたが、やがてこの地蔵尊は開運・出世・延命・商売繁盛のあらたかな御利益があると云うので、お堂も小屋から木造になり毎年7日、18日、29日がご縁日にきまりました。ご縁日には、いろいろな露店が出て非常な賑わいを呈して参りました。 これが銀座八丁露店のはじまりと云われており…
… 桜川 (八丁堀) 三十間堀と合流した。 延長0.6km。 江戸時代には、比丘尼橋、中之橋、京橋、三年橋、白魚橋が架かる。 その開削年代は詳らかではないが、家康の江戸入り後、慶長年間(1596~1615) に行われた最初の天下普請で外堀とともに開削された水路であるとされる。 比丘尼橋と中之橋間の左岸には薪河岸、中之橋と京橋間の左岸には大根河岸、 京と白魚橋間の左岸には竹河岸、 右岸には白魚河岸があった。 京橋川は昭和38~40年に埋め立てられて、 屋上に東京高速道路株式会社の…
…銀座東八丁目歩道橋/三十間堀跡 https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2021/12/16/230000新橋散歩 03 芝口御門跡/博品館/銀座煉瓦街の碑/金春通り/銀座全線座跡/金春屋敷跡 https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2021/12/16/233000 散歩後に友人と飲み。 やっぱり飲みすぎた(w けれど、乗り過ごすことはなかった。23482歩ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 12月…
…岸通りの交差点。 ◆三十間堀跡 以前来たことがある。 三十間 の検索結果 - ovanの社会科見学 江戸時代から昭和二十七年(1952)まで、現在の中央通りと昭和通りの間には南北に長い人堀がありました。慶長十七年(1612)に完成したこの掘割は、江戸城下の埋め立て造成の過程で舟入堀として整備されました。なお、三十間堀の名は堀幅が三十間(約55m)あったことに由来します。 また、当初の三十間堀川は、京橋用から鉤(かぎ)の手状に曲がった後に南流していましたが、明治三十九年(190…
…(約108m)、奥行三十間余(約54m)の敷地があったが、明治初年に廃止となり、回向院の境内地や官有墓地、宅地などになっていった。 首切地蔵は、寛保元年(1741)に造立された石造延命地蔵菩薩である。無縁供養のため、建てられたといわれる。明治二十九年(1896)に開業した隅田川線の敷 設予定地に安置されていたため、工事に伴い移された。 明治三十年代から昭和三十年代、毎月五日、十四日、ニ十七日に地蔵の縁日が行われていた。多くの露店や見世物小屋が出るなど大変な賑わいを見せたという…
…橋で飲んで帰る。 ◆三十間堀跡 江戸時代から昭和二十七年(1952)まで、現在の中央通りと昭和通りの間には南北に長い人堀がありました。慶長十七年(1612)に完成したこの掘割は、江戸城下の埋め立て造成の過程で舟入堀として整備されました。なお、三十間堀の名は堀幅が三十間(約55m)あったことに由来します。 また、当初の三十間堀川は、京橋用から鉤(かぎ)の手状に曲がった後に南流していましたが、明治三十九年(1906)の水路工事によって京橋用から汐留川まで真っすぐ南流する堀川となり…
…百八メートル)、奥行三十間余(約五十四メートル)の敷地があったが、明治初年に廃止となり、回向院の境内地や官有墓地、宅地などになっていった。 首切地蔵は、寛保元年(1741)に造立された石造の延命地蔵菩薩である。無縁供養のため、建てられたといわれる。明治二十九年(1896)に開業した隅田川線の敷設予定地に安置されていたため、工事に伴い移された。 明治三十年代から昭和三十年代、毎月五日、十四日、ニ十七日に地蔵の縁日が行われていた。多くの露店や見世物小屋が出るなど大変な賑わいを見せ…
…る桜川、南西へ流れる三十間堀が交差していました。この交差点に近い楓川に弾正(だんじょう)橋、京橋川に白魚橋、三十間堀に真福寺橋が架かり、この三橋を三つ橋と称していました。 三つ橋は、すでに寛永九年(1632年)作成といわれる「武州豊嶋郡江戸庄図」に図示されていますが、橋名の記入はなく、橋名についても幕末までいろいろ返遷がありました。 明治末に真福寺橋、昭和三十四年(1959年)に白魚橋がいずれも河川の埋立てによって廃止され、弾正橋は昭和三十七年(1962年)、高速道路工事によ…
…百八十五間余り、南北三十間余り、総坪数五四六七坪(約一万八千?)に及んだ。そして空き地の両端の北側地点に波除碑を二基建立した。 と、書いてありました。 ◆新田橋 新田橋は、大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場五丁目から木場六丁目を結ぶ、町の人びとの暮らしを支え続けてきた小さな橋の人道橋です。 大正時代、岐阜県から上京し、木場五丁目に医院の開業をしていた新田清三郎さんが 、昭和7年、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて、近所の人たちを協力して架けられ…