2019/07/20 01 東京都環境科学研究所 一般公開

24時間勤務アケで、一人で東京都環境科学研究所 一般公開に行ってきた。






PM2.5は2011年からデータを取り始めた。
それまではPM10以下のもののデータを取っていた。




体にどのくらい悪影響があるのかは実はわからないとのこと。
粒子を見てもどこから来たものなのかわからないとのこと。





地下水は帯水層からくみ上げるが、地盤沈下が起るのは難透水層(粘土など)から水分が絞り出されるから。
帯水層はほとんど変わらないとのこと。




子供向けの一般公開だね。
他は工作とか体験とかだったので、少しブラブラして帰った。
普段も申し込みすれば見学ができるみたいなのでそちらを申し込めば大人向けの話が聞けるかな??

2019/07/18 02 久我山散歩 05 西高井戸松庵稲荷神社/西高井戸児童遊園/西荻南口 仲通街/花の童子/西荻窪駅

やっと西荻窪周辺までやってきた。
雨が降ったりやんだり・・・・。



◆西高井戸松庵稲荷神社




 この神社は旧松庵村の鎮守で祭神は受持命(うけもちのみこと)です。
 松庵村は万治年間(1658~1660)に松庵という医者が開いたと伝えられ、安養寺(武蔵野市)の供養塔にある萩野松庵がその人ともいわれています。
境内入口には元禄三年(1690)、元禄六年(1693)銘の庚申塔があり、元禄三年のものには、「武州野方領松庵新田」と刻まれています。このことから元禄三年以前にはすでに新田開発の村のとして開かれていたものと考えられます。
 この神社は明治維新の際に廃寺となった円光寺(天台宗江戸八丁堀湊町普門院末)の境内にあったもので「新編武蔵風土記稿」の松庵稲荷の項には「上屋二間ニ二間半内ニ小祠ヲ置社前ニ鳥居ヲ立村内ノ鎮守ニシテ例祭ハ期日ヲ定メズ」と記されています。
 昭和九年に、隣村中高井戸村の鎮守稲荷神社を合祀以後、西高井戸松庵稲荷神社と称し、同十年には社殿を改築し、今日にいたっています。
 社前の五日市街道は江戸時代には「青梅街道脇道」とも呼ばれ、炭をはじめとする生活物資の輸送に大きな役割をはたしてきました。
 なお、神社の北側裏手に円光寺歴住の墓地があり、元禄九年をはじめとする没年が記されているのが見られます。
 祭日は九月十五日です。



境内社





◆西高井戸児童遊園

こちらで一休み。
蚊に食われまくって痒かったのでボディーシートで拭く。
虫刺されを塗るより効くのだ!



西荻南口 仲通街




◆花の童子

こちらは西荻窪駅すぐ前。









西荻窪駅

ゴールのJR中央線西荻窪駅


今回も与謝野公園を見つけるなどの発見があった。
散歩はいいね!

2019/07/18 02 久我山散歩 04 荻窪川南共栄会 商店街/与謝野公園/ケア24 南荻窪/神明天祖神社/大宮前公園/天狗湯

やっぱり西荻窪駅に向かって北に進む。




荻窪川南共栄会 商店街






◆与謝野公園



 かつてこの地には与謝野寛(鉄幹)晶子夫妻が、晩年を過ごした家がありました。二人は明治から昭和初期にかけて、短歌、評論、古典文学研究、詩などの分野で活躍しました。
 ※明治三十八年に鉄幹の雅号を廃し、この年より本名の寛を名のりました。
 敷地に向かって左方にある門を入るとサクラ、アカシアなどがあり、砂利の通路が玄関へと続きました。
 玄関には、アケビの棚があり、庭には、センダンやイイギリの大木、タイサンボク、カ工デ、紅白のウメ、ロウバイ、カキ、クリなとたくきんの樹木があり、青葉の季節には、外から家が見えないほどでした。ブドウ棚の下には池があり、その少し北よりには、大きな藤棚もあり、夏になると、二階の窓からは、地面が見えないほどでした。晶子は、自然のままに育てた庭木の姿を好ましく思っていたからです。秋には、ドウダンツツジの垣根が美しく紅葉し、冬には、椿の一種、ワビスケの花が咲きました。敷地内には、遙青書屋(ようせいしょおく)、采花荘(さいかそう)、冬柏亭(とうはくてい)の三つの建物があり、昭和十年に寛、昭和十七年に晶子が死去した後も数施内には遙青書屋が、昭和五十五年頃まで残っていました。その後昭和五十七年に、土地の一部を除き、杉並区立「南荻窪中央公圏」として開園しました。
 平成十九年十一月には念願でありました晶子の「歌の作りやう」の碑が地元の荻窪川南共栄会商店街により建てられました。さらに隣地の空き地を取得し、与謝野夫妻ゆかりの地として再整備してほしいという強いご要望があり、長ききにわたる構想と地域の皆様の熱い思いを受けてこの度名称変更をし、晶子没後七十年の節目の年にに「与謝野公園」として生まれ変わりました。当時の建物や庭を再現したものではありませんが、与謝野邸の庭を訪問するような趣向として、入口には門柱を立て玄関へと続く連路を造りました。庭には夫妻が好んだ樹木を植栽し二人が詠んだ歌碑などを建立しました。これら様々なものから住時の雰囲気を味わっていただけることと思います。ゆっくりと与謝野邸への思いをはせてください。
 
 公園整備にあたりましては、地域の皆様や与謝野夫妻のご親族、関係者の皆様のご理解とご協力のもと、実現することができました。歌碑作成にあたりましては、松平盟子さん(歌人)、萩原茂さん平出洸さん各氏に何万種ともいわれる二人の歌から、時代を追って恋、夫婦、子供、家のことなど、終焉の地としてふさわしい歌を、選んでいただきました。ここに、厚く感謝申し上げます。




 大正十二年の関東大震災を機に、大正十三年に与謝野夫妻はこの地(東京府豊多摩郡井荻村字下荻窪)を借り、まもなく、その一部に洋風の家「采花荘」を建て、長男と次男を住まわせました。
 昭和二年には、与兼野一家は、晶子が自ら図面を書き、西村伊作設計による洋館に転居します。寛が、晴れた日には二階から秩父連山、富士山、箱根山脈までが遠望できるということで、「逢青(ようせい)書屋」と名づけました。この家はクリーム色の壁に赤い屋根、窓のよろい戸が録色の鮮やかな二階建ての大きな洋館でした。一階は、広々とした廊下、応接間、書斎、客間用のペヲンダと夫妻の部屋、ニ階には、日本座敷が二間、階上階下に子供たちがそれぞれの好みで和風洋風の部屋を持っていたようでず。そして屋上には、「鶯?台(おうけんだい)」と呼ばれる物見台がありました。鶯(うぐいす)のさえずりを聞いたり、遠くの山々を眺め見るという意味もありました。
 昭和四年には、晶子五十歳の賀のお祝いに第子たちから五坪ほどの一棟が贈られ、夫妻は「冬柏亭(とうはくてい)」と名づけました。冬柏亭は六畳と三畳の二間からなり書斎や茶室として使用されました。「冬柏」とは、夫妻の好きだった「椿」を意味しています。現在、この「冬柏亭」は京都の鞍馬寺に移築され、唯一現存している建物です。





































歌碑がたくさんあった・・・。




◆ケア24 南荻窪

杉並区の施設。



◆神明天祖神社




 当社は旧上荻窪村字原に鎮座し、祭神は天照大御神です。
 荻窪村が中世に村をつくっていたことは文書や板碑によって知られ、正保年間(1644~1647)に上・下荻窪村に分かれたといわれています。
 当社の創建は詳ではありませんが、天正十二年(1584)の検地の際には、すでの小祠があったと伝えられており、それ以前と思われます。その後、この地域は徳川御三家の一つである紀州徳川家の領地となり、家臣の水刀谷氏が社殿を興したといわれています。
 江戸時代の当社は神明社と呼ばれ、付近一帯が神明と呼ばれるのは、この社名に由来するものです。また、かつて字伊勢前といわれたのも、当社の祭神が伊勢神宮と同一であることによるものです。
 当社の東側一帯は、昔周囲に桜の木を植えた馬場があり、桜の馬場と呼ばれ、昭和初年まで名残りの桜の木があったといわれています。
 明治維新後、当社は荻窪八幡神社の境外攝社となり、明治十五年には社殿を修築しています。ついで近年に至り、社殿・神楽殿・手水舎などの改修築、社号標・燈篭・鳥居の奉納、参道の整備がおこなわれ、今日の境内の景観をうるに至りました。



御嶽神社



楽殿







◆大宮前公園




◆天狗湯

銭湯♪




続く。

2019/07/18 02 久我山散歩 03 民間信仰石塔/高井戸警察署/大宮前春日神社/慈宏寺/宮前公園/庚申塔

まだまだ北に進む。



民間信仰石塔




 ここに建立されている石塔は、延宝六年(1678)・元禄九年(1696)銘の庚申塔です。
 庚申信仰は、「長生きするためには、60日に1回めぐってくる庚申(かのえさる)の夜は身を慎しみ、諸善を行い、徹夜をすべきである」という中国の道教説から始まったようです。それが日本に伝わってからは、中世以降仏教や神道の信仰と習合して庶民の間にひろまりました。江戸時代には、本尊を青面金剛とし、不見(みざる)、不聞(きかざる)、不言(いわざる)の三猿が彫られるようになり、ここに見られるような庚申塔の建立が盛んになりました。
 この辺りは、かつては大宮前新田といわれ、江戸時代の寛文年間に、砂川道(五日市街道)沿いの新田村として開村しました。そして、この場所は大宮前新田の地番の振り出しで、当時から慈宏寺の寺有地となっています。
 ここの庚申塔は、開村後地域の人々が悪疫退散、村内安全等を祈願して建立されたものと思われます。延宝六年の石塔には13名、元禄九年の石塔には31名の建立者の氏名が刻まれています。
 なお、ここからは昔、富士山が見えたので富士見浦と呼ばれました。塔わきの藤の木は「庚申の藤」と呼ばれ、昭和5年から43年まで、都天然記念物に指定されていた樹齢約300年の古木で、庚申塔建立と同じ頃植えられたものと伝えられています。
私たちもこのような文化財を、一層大切に守りつづけたいものです。





◆高井戸警察署



正面は反対側のようだ。



◆大宮前春日神




 この神社は、「新編武蔵風土記稿」多摩郡大宮前新田の条に春日神社とあって、「除地・二段五畝六歩・小名本村にあり、神体は木の坐像長五寸許・太神宮八幡を相殿とす。木の坐像各長五寸許、覆屋一間半四方、内に小祠を置、当村の鎮守にして、例祭は十月廿二日に修す、慈宏寺持」とあるように旧大宮前新田の鎮守で、大宮前開村の万治年間(1658?1660)に、農民井口八郎右衛門の勧請によって創建されたと伝えられています。
 祭神は、武甕槌命経津主命天児屋根命・比売命の四柱です。
 本社は、明治五年十一月に村社となり、拝殿は明治十年、本殿は明治二十一年の建築です。
 境内末社第六天神社、御嶽神社・稲荷神社があります。
 境内の石燈籠二基は文久二年(1682)十月の造立です。
石造りの大神鹿一双は明治二十七年四月に、小鹿一双は明治三十三年四月に、それぞれ氏子の奉納といわれています。
 社殿前の「大宮前鎮守」の石碑は、この地域の地名変更に伴って”大宮前”の地名を保存する意図で造立されたと言われています。
 本社では、元下高井戸八幡神社宮司斎藤近大夫の指導によると伝えられる”早間の大宮前ばやし”が、今も郷土芸能として例祭日に奉納されます。



三峰神社



第六天社/豊國稲荷神社



板絵着色雷神図




 本絵馬は、文久元年(1861)に旧大宮前新田名主・井口氏より奉納されたもので、絵師は狩野洞月詮信です。図柄は北野天神絵馬を模し、左上に荒れ狂う雷神・右下には清涼殿風の建物と人物を描いています。雷神の描き方や右上の松の大樹は典型的な狩野派の手法を表しています。この絵馬は雨乞いないしは厄除の祈願として奉納されたものと思われます。幕末における狩野派の青年記作品としてだけでなく、数少ないこの地域の庶民信仰を示す資料として大変貴重なものです。



楽殿


鳥居





◆慈宏寺




 井口山慈宏寺は日蓮宗です。寛文十三年(1673)に創建、開山は南大泉妙福寺の慈宏院日賢上人、開基は大宮前新田開墾の名主井口杢右衛門、檀家は新田開発に力をそそいだ人々が主体となりました。
 当山安置の「荒布(あらめ)の祖師」について、江戸名所図会にはつぎのように書かれています。
 弘長元年(1261)日蓮上人が伊豆の伊東に流される時、日朗上人は「是非おともに」と願いましたが許されず、鎌倉に留まり日蓮聖人の無事を日夜懇願しました。ある日、浜に荒布を巻きつけた流木を見つめて持ち帰り、日蓮聖人の影像を二体彫り上げました。
 一体は座像で、目黒区の法華寺に安置され、後に堀之内妙法寺に移されました。もう一体は旅姿の立像で、当山の「荒布の祖師」です。
 創建当時の伽藍は明治十一年に焼失、現在の堂宇は昭和四十七年に建立されました。釈迦如来などの仏像と「荒布の祖師」は昔のままです。
 なお、当寺には明治八年高井戸学校の前身である郊西学校がおかれました。





木造馬頭観音立像
 本像は、通常の馬頭観音のような忿怒相ではなく穏やかな顔立ちで、図上に馬頭と小さな化仏十一面を配し、左右十三づつの腕をもちます。馬頭観音十一面千手観音が合体したような作例は珍しく、研究資料としても価値が高いものです。
 また、本像は明治初年に廃寺となった松庵村の円光寺の本尊であったといわれ、明治十一(1878)年に慈宏寺の火災で、旧円光寺の本堂を移築した際に本像も慈宏寺に移されたと伝えられています。廃寺となった円光寺の資料としても貴重です。


木造日蓮上人立像
 「荒布(あらめ)の祖師」と呼ばれる慈宏寺の本尊で、着衣姿を掘り出したものです。袈裟の表現が素晴らしく、金泥・緑青・朱などの極彩色で唐草丈や花火が描かれています。坐像が多い日蓮の本尊の中で、立像として〇〇〇かし、肖像彫刻としても秀逸です。
 「荒布の祖師」のいわれは、鎌倉幕府によって日蓮が伊豆へ流刑とされた時、随行を許されなかった弟子の日朗(にちろう)が師を偲んで荒布の巻き付いた流木に掘ったという伝説に寄ります。


〇のところは木が覆っていて読めなかった・・・。



大宮前「當村開起慈宏寺 大檀那」供養塔
 棟寺内の井口家墓地にあります。安山岩製の笠付角柱型石塔で、村の開発と慈宏寺の開創に尽力した先駆者四名の供養のため元禄~享保年間(十八世紀初期)に造立されたものです。造立者は二代目名主・井口八良左衛門です。
 大宮前新田は、初代名主・杢右衛門が父や周辺の有力農民らと幕府領の原野の開拓を請け負い、寛文十二年(1672)に完成させました。その地割は今も五日市街道沿いに残されています。
 本塔は江戸前期の新田開発の由緒を示す資料として貴重です。




「珍木」多羅葉





珊瑚樹





◆宮前公園




庚申塔




続く。

2019/07/18 02 久我山散歩 02 遊び場113番/人見街道/富士見並北公園/富士見丘商店会/杉並区高井戸の屋敷林・廃村/オーデリック

東に西に・・・・。
ゆっくり北上(w
まっすぐ行けば西荻窪は近いんだけどね。。。



◆遊び場113番

この番号は、もしや杉並区に少なくとも112の同じような広場があるということ?
と、杉並区に僕より長く住んでいる人に聞いてみたら、どうやらそうらしいとのことだった。
全部制覇するのは無理(w




人見街道

上記の「遊び場113番」からちょっと路地に入ったところに下の看板があった。
人見街道は写真に写っている道路。
狭いのに車がひっきりなしに通っていてかなり危ない。




 この前の道は、 人見街道です。浜田山駅北側の、井の頭通りの分岐を起点に高井戸東・高井戸西・久我山を通って府中若松町新小金井街道に接する約12キロの都道です。うち区内延長は約3.3キロです。路線名は府中の人見村にちなむもので、昭和59年4月に正式な通称名となりました。その際旧来の人見街道 (上高井戸の甲州街道から分かれ区南西部の区境辺を走っていた)の道筋変更がはかられ、区内を含む上の部分が新しく人見街道に組み込まれたのです。これが久我山街道と呼ばれていた道です。
 この道は、区内の古道の一つで、武蔵国府府中(今の府中市)から大宮(今の埼玉県)に行く大宮街道、下総の国府(今の市川市)へ通ずる下総街道の道筋であったと言われ、近世以前は東西を結ぶ重要な道路であったと考えられています。江戸時代に入って甲州街道 ができると、 脇街道的な性格を強め府中道などと呼ばれました。近くの久我山5-9の辻にある石塔には「これよりみぎいのかしらみち」とあり、井の頭への道として利用されていたこともわかります。
 その後、昭和初年に久我山駅辺の直線化や拡幅などの改修が行われ今日に至っています。道筋には、都の天然記念物横倉邸のケヤキ並木を始め、古刹松林寺、大熊稲荷神社、二基の庚申塔などの文化財が点在し、その歴史を証言しています。




◆富士見丘北公園



◆富士見丘商店会



◆杉並区高井戸の屋敷林・廃村




特に説明板などは無かった。
奥に写っている林はかなり広そう。
おそらくここで場所は合ってると思う。




◆オーデリック株式会社

照明器具などを製造しているメーカー。
こちらが本社のようだ。
社名をどこかで聞いたことがあると思ったら、ジャスダックに上場していた!




続く。

2019/07/18 02 久我山散歩 01 久我山駅/富士見ヶ丘2号踏切/久我山橋/富士見ヶ丘1号踏切/地蔵尊/道標付庚申塔

三鷹を散歩した後は吉祥寺から井の頭線久我山まで移動。
久我山から西荻窪まで散歩する。



かなりジグザグ・・・。




久我山駅

スタートの京王井の頭線久我山駅
奥に写っているのは下記の富士見ヶ丘2号踏切。



富士見ヶ丘2号踏切

久我山駅のすぐそば。






久我山









富士見ヶ丘1号踏切




先程の2号踏切とその奥の久我山駅が見える。
ものすごく近い。




地蔵尊

上記、富士見ヶ丘1号踏切のすぐ脇にあった。





◆道標付庚申塔




 この庚申塔 は、 道標付庚申塔 として、区内で最も古く、享保七年(1722)に造立されたものです。
 庚申信仰は「長生きするためには、庚申の夜は身を慎しみ、諸善を行い、徹夜をすべきである」という中国の道教説から始ったようです。それが日本に伝わってからは、中世以降仏教や神道の信仰と習合して、庶民の間にひろまりました。
 江戸時代 には、ここに見られるような 青面金剛 を本尊として邪気を踏まえ、不見(みざる)・不聞(きかざる)・不言(いわざる)の 三猿 、二鶏等が彫られるようになり、石塔を造立し、悪疫退散、村内安全等の祈願を行うことが盛んになりました。
 この庚申塔は、 道標 として側面に、「これよりみぎいのかしら三(み)ち」・「これよりひだりふちう三(み)ち」と刻まれ、かっては、井の頭弁財天信仰者の道しるべとなっていたように思われます。
 また、この庚申塔は、当初からこの分岐点に造立され、願主名も列記されており、近世における久我山の歴史や交通路を知るうえで、一つの重要な資料といえます。
 以上のことから、この庚申塔は、杉並区有形文化財として登録されました。
 今後とも、このような文化財を一層大切に守りつづけたいものです。





続く。

2019/07/18 井の頭自然文化園

山本有三邸の後は井の頭自然文化園へ。
ぐるっとパスの時のお決まりのコースだね。







ゾウのはな子はもう居ないのに、やっぱり象小屋のあったところに行っちゃうね・・。
まだそのままにしてあった。














そういえば、彫刻園に行くのをまた忘れてしまった・・・・。
次回は行ってみようと思う。



前回来たときの日記はコチラ↓
2017/02/05 part1 井の頭自然文化園 - ovanの社会科見学



井の頭自然文化園のHPはコチラ↓
http://www.tokyo-zoo.net/zoo/ino/



場所は吉祥寺駅から徒歩10分
休園日は月曜日ですが、行かれる方は事前にHPでチェックしてから行ってくださいネ!