2021/10/07 堀切散歩 07 綾瀬二丁目商店会/綾瀬駅/我孫子駅/取手駅/寺原駅/取手駅/上野駅

/JR綾瀬駅でゴール。
そのあとは細君の実家に草むしりへ。
このあととんでもないことになる・・・・・・・・。





◆綾瀬二丁目商店会

商店街♪













綾瀬駅

ゴールのJR綾瀬駅








高低差もなく気温もちょうどよかったので歩きやすかった!
ここから細君の実家の草むしりに向かう。





我孫子駅

せっかく我孫子駅を通るのでちょっと降りた。


弥生軒













取手駅

常総線へ乗り換え。

















寺原駅













取手駅

このあと地震に合う・・・・。











◆2021/10/08 上野駅

一晩寝てた車両(w


朝ごはんは駅の立ち食いソバ




柏駅で足止めを食らい、家に着いたのは翌日朝9時ごろだった(汗
最大深度5強。
舎人ライナーが脱線。
揺れが大きいところが帰路だったのが痛かったね(w



2021/10/07 堀切散歩 06 堀切中央病院/華之宴/立食いそばうどん会津/上千葉香取神社/西亀有集い交流館/上千葉遺跡と普賢寺/玉の湯

川の手通りに沿って北上。
一番のお目当てだった立ち食い蕎麦屋さんへ。




◆堀切中央病院













◆華之宴

美味しそう♪













◆立食いそばうどん会津




御馳走さま♪













◆上千葉香取神社

以前来た時に鳥居を取り忘れていたので再訪。
詳細などはそちらで。
2021/09/06 亀有散歩 06 西亀有集い交流館/上千葉香取神社/堀切八丁目第3アパート/普賢寺/上千葉公園/さつき湯/一心橋 - ovanの社会科見学















◆西亀有集い交流館

葛飾区の施設。
会議室など借りられる。
https://www.city.katsushika.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/006/781/29nishikameari_tsudoi.pdf













◆上千葉遺跡と普賢寺

0/1に行ったところ。
詳細などはそちらで。
2021/09/01 堀切散歩 02 上千葉遺跡と普賢寺/随喜稲荷大明神/昌栄稲荷社/十寒稲荷/二葉商店会/九品寺/九品寺橋 - ovanの社会科見学













◆玉の湯

銭湯♪













続く。

2021/10/07 堀切散歩 05 稲荷神社/石碑/妙源寺/堀切天祖神社/京成線高架/堀切中央通り/吉野湯

京成線の高架をくぐって反対側(北側)へ。
今度はJR綾瀬駅のある北へ向かって歩く。




◆稲荷神社












◆石碑

何が刻まれているのかはわからなかった。




google mapには載っていなかった。
場所は青い現在地を示すマークのところあたり。











妙源寺



鐘楼


安積艮斎(あさかこんさい)墓

 安積良备(1791~1861は、江戸時代後期の儒学者飞す。名を重信または信といい、艮斎または見山楼と号しました。陸奧国安積郡の神主の家に生まれ、のちに江戸に出て佐藤一斎、,次いで林述斎に学び、文化十一年(1814)、神田駿河台に塾を開きました。天保七年(1836)二本松藩丹羽家の藩儒となり、同一四年、昌平黌教官に抜擢され佐藤一斎とともに育英の任に当たりました。はじめ、本所番場町妙源寺に葬られましたが、関東大震災後、現在の場所に移転されました。

※お墓まではいかなかった。


安政地震の死者を供養した石造題目塔



 安政2年(1855) 10月2日夜、直下型大地震が江戸の街を襲いました。地震の規模はマダニチュード 6.9程度で、死者は約7千~1万人にも上ると伝えられています。葛飾区の中ではとくに亀有付近が大さな披害に見舞われました。
 この石造題日塔は安政地震による死者を供養するために、歌舞伎俳優 森田勘弥の妻が発起人となって建てたものです。
 妙源中はその当時、本所番場町 (現在の墨田区東駒形)(にあり、大正12年(1923)に当地に移転してきました。この塔もその時に移ってきたものと思われますが、西新小意東光寺の石造地藏像や細田稲荷神社の石造鳥居などとともに、未曾有の災害に対処した当時の様子を今に伝えています。


東條一堂の墓



 東條一堂は江戸時代後期の儒学者で、安永7年(1778)上総国埴生郡八幡原村(現在の千薬県茂原市)に生まれました。9歳の時に医者を開業した父に従って江戸へ出、16歳で志を立てて京都に上り皆川洪園に入門、22歳で江戸に戾りました。文化2年(1805)本郷駒込に塾を開設、同13年湯島、文政4年(1821)には神田お玉が池に移しました。塾には、身分の隔てなく学ぶものが相次ぎ、幕末期の老中阿部正弘も内治外交の施策について教えを受けました。安政4年(1857)7月13日80歲で没し、本所の妙源寺に葬られました。妙源寺は、もとは墨田区東駒形にありましたが、大正12年(1923)の関東大震災で罹災し当地に移転、この墓も同時に移されました。
 昭和32 年(1957)には一堂の業績が刻まれた百年記念の碑が建立され、昭和41年(1966)には遺著刊行の碑も建てられました。


山門











◆堀切天祖神社


豊受稲荷




堀切八幡神社


天満宮


祓所


境内社


楽殿


鳥居











◆京成線高架

こちらをくぐって線路の反対側(北側)へ。













◆堀切中央通り

商店街♪













◆吉野湯

銭湯♪












続く。

2021/10/07 堀切散歩 04 隆照寺/祠/堀切菖蒲園/堀切菖蒲園通り/極楽寺/妙徳稲荷/堀切二丁目公園

まだ堀切菖蒲園南側エリアを散策。




◆隆照寺

入りづらかったので外からお参り。










◆祠










堀切菖蒲園

以前菖蒲の時期に来たことがあるのだが、「はてな」に日記が残ってない・・・。
mixiに残っていた。
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 東京の東部低地に位置する葛飾区一帯は、江戸試合に葛西三万石ともいわれる水田地帯で、稲作のほかに野菜類や花卉(草花)の栽培が盛んな地域でした。寛政6年(1794)の地誌『四神地名録』に「いろいろの草花かぎりもなき事」という記載がみられます。
堀切の花菖蒲伝来については、室町時代の地頭久保寺胤夫が家臣の宮田将監に命じて、奥州郡山の安積沼から持ち込んだのが起源という伝承があります。16世紀後半の『小田原衆所領役帳』に「窪寺」という名は見られますが、詳細は不明です。
 記録に残る花菖蒲栽培の始まりは小高園の祖となる伊左衛門です。伊左衛門は父子二代にわたり、享和・文化年間(1801~1818)頃から各地の花菖蒲を収集したほか、花菖蒲愛好家で知られる旗本の松平左金吾定朝(菖翁)や、万年録三郎からも品種を入手し繁殖に努めました。
 天保年間(1830~1844)になると、小高家の花菖蒲は諸大名や旗本の間え評判となります。嘉永元年(1848)には十二代将軍家慶と子の家定が鷹狩の際に立ち寄ったほか、尾張藩徳川斉荘からは「日本一菖蒲」の画賛が贈られました。
 また、初代広重などの絵師が堀切の花菖蒲を描いていることや、弘化3年(1846)に、「草花より穀物の栽培に専念すること、見物客に飲食物の提供をしない」という誓約書を代官所へ転出していることから、文人・墨客や江戸の庶民も堀切に押し寄せていたことがうかがえます。
 明治維新を迎えると、幕末に日本で最初の観光花菖蒲園として開園した小高園・武蔵園に加えて、吉野園・堀切園・観花園が明治時代後期までに相次いで開園します。さらに昭和初期にかけて、四ツ木園・菖香園・(山岸)菖蒲園が開園、花菖蒲栽培農家も多数存在しました。昭和5年(1930)の日本花菖蒲協会設立時には、堀切の花菖蒲園関係者が会員の一割を占めていました。
 しかし、都市化の進行に伴う水質汚染第二次世界大戦下の影響が、花菖蒲園に及ぶようになります。昭和10年代にかけて武蔵園・吉野園などが閉園、戦争が激化すると、食糧難解消のために花菖蒲田は水田となっていきました。昭和17年(1942)の小高園の閉園により、堀切の花菖蒲栽培は一旦途絶えました。
 終戦後、唯一復興した花菖蒲園が堀切園です。疎開させていた花菖蒲の株を植え戻し、昭和28年(1953)に有限会社堀切菖蒲園と名を改め営業を再開しました。その後、昭和34年(1959)に都が買収、翌年に都立堀切菖蒲園が誕生しました。当初は有料でしたが、昭和47年(1972)からは無料化されます。
 そして昭和50年(1975)4月に葛飾区に移管、昭和52年(1977)には、葛飾区指定名勝に指定され、今日に至ります。現在、園内では役二百種六千株に及ぶ花菖蒲が栽培されており、その中には菖翁由来の菖翁花も含まれます。



 この地にはじめて花菖蒲が伝来したのはいつの頃か明らかではありませんが、一説によると、室町時代堀切村の地頭久保寺胤夫が家臣の宮田将監に命じて、奥州郡山の安積沼から花菖蒲を取り寄せて培養させたのが始まりとも、文化年間(1804~1817)堀切村の百姓伊左衛門(小高氏)が花菖蒲に興味を持ち、本所の旗本万年録三郎から「十二一重」を、花菖蒲の愛好家松平左金吾(菖翁)から「羽衣」「立田川」などの品種を乞い受け繁殖させたのが始まりとも言われています。
 堀切で最初の菖蒲園は、江戸時代末期に開園した小高園で、明治に入ると武蔵園・吉野園・堀切園・観花園などの菖蒲園が開園しています。この堀切菖蒲園は堀切園の跡です。
 堀切の花菖蒲の様子は「江戸百景」に数えられ、鈴木春信・安藤広重などの著名な浮世絵にも描かれています。また明治には「東京遊行記(明治39)「東京近郊名所図会(明治43)」などに次々と堀切の菖蒲園が紹介され、全盛期は明治中期から大正末期頃だと思われます。



渡辺千秋の歌碑



 この碑には、明治から大正初期の宮内大臣渡辺千秋が武蔵園に来遊して詠んだ和歌一首が刻まれています。

     ほりき里能さとのあやめは老まつに
          ちよをちきりてさ支さかゆら舞

 渡辺千秋(1843~1921)は天保 14 年(1843) に信州高島藩士の子として生まれました。明治期に入ると鹿児島県令などを歴任したのち、明治 25 年 (1892)内務次官となり、27年には貴族院議員に勅選され、さらに宮内大臣に任命されたのは明治 43 年 (1910)のことでした。こうして千秋は政府高官として活躍しましたが、その一方『千秋歌集』を著すなど歌人としても著名で、彼の多彩な才能がしのばれます。
 なお、この碑はもともと明治35年(1902)武蔵園主吉木磯吉によって同園内に建てられたものですが、武蔵園が廃園となり幾多の経緯を経て、平成 24 年 (2012)奥村敵氏から区へ寄贈され、現在に至っています。


菖翁花(しょうおうか)



 江戸時代後期、花菖蒲の発展に大きな功績を残したのは旗本、松平左金吾定朝(まつだいらさきんごさだとも)です。自らを「菖翁(しょうおう)」と名乗り、六十年にわたって花菖蒲の改良と新晶種の作出に情熱を傾けました。菖翁により作出された花を「菖翁花」といいます。安政三年には、菖翁花の集大成「花菖蒲花銘」が執筆され、百二十種に及ぶ品種が挙げられましたが、現在は十七種前後が現存するのみとなっています。
 堀切でまず花菖蒲を栽培し、江戸末期から花菖蒲園として名を馳せたのは、後の小高園の祖となる伊左衛門です。文政初期には、伊左衛門が菖翁から「宇宙」、「霓裳羽衣(げいしょうい)」などの品種を譲り受けて栽培し、繁殖を図りました。その後、菖翁花が小高園から堀切園や他の花菖蒲園に広まったと考えられています。
 堀切菖蒲園では、品種の保存と江戸情緒の創出に役立てるため、現在も菖翁花の名を引継ぐ、十種余りの花菖蒲の栽培管理を行っています。

(※1)小高園 武蔵園と並ぶ、堀切における花菖蒲園の祖。明治以降は花菖蒲をアメリカへ輸出する等、数多くの功績を残した。
(※2)堀切園 現在の堀切菖蒲園の前身。終戦後、足立に疎開させていた 花菖蒲を画場に戻すことで、復興を果たした。


句碑



花びらに 雲をささへて
        朝  菖蒲

梥雄(まつお)










堀切菖蒲園通り

商店街♪
今回こちらは通らなかった。










極楽寺


薬師堂


大師堂


女人橋関係石材一括



 近世における講義団による造立物は、江戸時代中期には同行集団によるものから女人集団による造立が多くなりますが、一般的には十九夜塔や道標を兼ねた供養等が多く、石標を造立する例は比較的珍しいものです。
 この橋のたもとには、竹を四方に囲み幣束を垂らしたものが設けられ、出産で亡くなった妊婦の供養のために、たくさんの人に水をかけてもらったようです。千人に水をかけてもらえれば供養できると信じられてきました。
 近年、出産による妊婦の死が減り、このような儀礼も消滅しつつありますが、近年中世の元文2年(1737)11月に「女人講中」の手によって女人橋が架設されていることは、当時の産育儀礼を知る上で貴重な資料です。
この橋は、現在の堀切二丁目21番21号と同一丁目15番6号の間に架設されていたと言われています。


首塚 他


疣鳥り地蔵


山門










◆妙徳稲荷

中へ入ることができなかったので外からお参り。










◆堀切二丁目公園











続く。

2021/10/07 堀切散歩 03 満願地蔵尊/堀切菖蒲園駅/天祖神社斎館/ラッキー通り/堀切天祖神社斎館/堀切七福神/魚道橋/堀切小橋通り栄和会

堀切菖蒲園到着後は駅南側エリアを散策する。
こちらも以前の日記にかなり被る部分がある。
2018-09-20から1日間の記事一覧 - ovanの社会科見学





◆満願地蔵尊












堀切菖蒲園駅



京成線堀切菖蒲園駅











◆堀切天祖神社斎館

祖霊社とあった。














◆菖蒲七福神



当地鎮守天祖神社の摂社として大正12年鎮座された毛無池弁天社は、その御神徳に依り永年弁天講を中心として氏子の皆様から尊崇されてまいりましたが、此度、学業、子孫繁栄、蓄財の神様に加えて、商売繁盛、防災の恵比須・金運招来、家運隆盛の大黒天・福徳長寿の福禄寿・富貴、財宝授与の毘沙門天・長寿延命の寿老人・未来予知、家内円満の布袋尊をあらたにお迎えし菖蒲七福神として新しく建立されました。
七福神は、その昔、遠くインド中国などの諸神諸仏と我が国の神を併せまつり私達のもろもろの願いを全て成就してくださる霊験あらたかな神仏として多くの人々に信仰されて参りました。かつて私共の祖先がこの町の発展と氏子の繁栄を祈った弁財天を中心として七福神を一堂におまつりされるこの勝負七福神が、更に大きな御神神徳を私達にもたらし町の活性化と氏子の皆様の御多幸が約束されますよう御祈願申し上げ、皆様にご参拝をおすすめしてここに■■の碑を建てます。

■は判読できなかった。











◆ラッキー通り

商店街♪














◆魚道橋

暗渠なんだろうけど、名前がわからない。














◆堀切小橋通り栄和

商店街♪













続く。

2021/10/07 堀切散歩 02 川の手通り高架/牛田児童遊園/堀切橋/堀切橋児童遊園/京成線高架/堀切一番街/クローバー商店街

まだまだ東へ向かって歩く。
この辺りは前の日記にほとんどかぶっている。
2021/09/01 堀切散歩 05 堀切橋児童遊園/堀切橋手前/堀切小橋/堀切橋/足立共済病院/牛田児童遊園 - ovanの社会科見学





◆川の手通り高架

こちらをくぐって道路の反対側(東側)へ。













◆牛田児童遊園












◆堀切橋

まず東武伊勢崎線の線路上。



東武伊勢崎線堀切駅のホーム側。




荒川の上。



綾瀬川上。



綾瀬川上。



綾瀬川上。



反対側から。
上は首都高速中央環状線












◆堀切橋児童遊園













◆京成線高架

こちらはくぐらずに写真だけ撮った。












◆堀切一番街

商店街♪














◆クローバー商店街

商店街♪













続く。