2021/06/13 02 江古田散歩 07 西武池袋線踏切/江古田銀座/武蔵野稲荷神社/林稲荷神社/新江古田駅/東中野駅

細い路地を南西へ進み都営大江戸線新江古田駅でゴール。


西武池袋線踏切









◆江古田銀座

商店街♪







◆武蔵野稲荷神社

こちらは写真撮影ができなかった。







◆林稲荷神社



 このお社は林稲荷神社とよばれています。このあたりは江戸から明治時代にかけて中荒井村北於林と云われていました。「於林」とは「御林」すなわち、江戸時代幕府要人が鷹狩や狩猟のために使用した林のことです。これが林稲荷神社の由来です。江古田川(旧中荒井川)の南の中野区江古田3丁目にあった旧国立中野療養所の所も御林野であり、その東側にある東福寺には、将軍や御三卿(清水、一橋、田安家)の殿様が狩に来たときに休息所とした御膳所がありました。
 神社の創建について、昭和15年に旧中荒井1丁目町会(現在の豊玉第1町会)の方が著した林稲荷神社縁起には、およそ次のように記されております。
「ある年干ばつがあり、農作物が収穫できなくなったため、少なからぬ村民たちが食料を買うためのお金を得ようと、お林の木を伐って売り始めました。これを見て困ったのは、お上からこの林の管理を任せられていた村人仁左衛門です。同じ村人のやることであるし、木を伐って売らねばならない事情も理解できるからです。すっかり困り果てて悩んでいたところ、ある晩、夢枕に稲荷大明神(宇気母知命)が二匹の白狐をつれて現れ、「この干ばつに苦しむのはこの地に良い水源が無いことである。この丘の崖下を浚い、数町北にある窪地を掘れば水が沢山得られるであろう」と告げられ、汗をびっしょりかいて夢から覚めました。これは不思議なことと思い、朝になってお林の中を探し回ったら、狐の棲家と思われる穴がみつかり、その部分だけ少し開いた穴の前の土地は、掃き清められたように平で、そこには2、3匹の狐の足跡がありました。あれは正夢であったか、と驚いて、このことを百姓頭三郎左衛門に話し、村民7名と共に神のお告げのあった場所に井戸を掘りました。すると清水がこんこんと湧き出し、田畑が潤って農作物の収穫が得られるようになり、木を伐る必要がなくなりました。村民たちが稲荷大明神に感謝の気持ちをこめて創建したのがこの社の起源であります。」
 このことがあったのは、寛文年間(1661-73)の頃であったと言い伝えられていたそうですが、仁左衛門家が、その本家の平左衛門家から分家したのは、これより時代が下がるので、この出来事は寛文より少し後のことと考えられます。
 林稲荷神社と村民とを深く結び付ける関係は、その後再び明治の世になって現れます。江戸幕府大政奉還して瓦解し、お林が時の政府から林稲荷神社のある所を含めて、名主の岩堀伝内に払い下げられ、社殿が壊されることになりました。人々が社の無くなることを憂いていたところ、子孫の矢島三郎左衛門や矢島仁左衛門は、屋敷の周りで、悲しげに鳴く狐の声を耳にします。それを聞いて二人は、これは稲荷社の保存を狐が訴えているのだ、と思いました。そこで、昔干ばつの時、稲荷大明神のお告げで助けられたことを思い出して、村民たちと相談し、二人を含め25人の者が境内社地を買い戻し、社も新しく造り替えてお祀りすることにしました。時に明治12年(1879)のことであります。
 以来、明治、大正、昭和と、林稲荷神社は旧中荒井村住民を中心に維持管理されてきました。しかし、土地の区画整理(昭和10-15)があって住民の家々と社が、交通量の多い目白通り(十三間道路)で分断されてしまったことや、第二次世界大戦(昭和16-20)とその後の混乱期などのあおりを受けて、古くから社と縁のあった一部の子孫がこの地を離れてしまったことなどのため、林稲荷神社はだんだんと人々から忘れ去られてしまいました。社殿や鳥居などは朽ち果て、境内も荒れ果てたままの状態がずっと続いておりました。
最近になって、旧中荒井村東部地区(現在の豊玉上1丁目、豊玉北1、2丁目)の住民の人達は、稲荷社の土地の歴史に根付いた由緒を知り、ここに林稲荷神社復興世話人を組織して、この度、59年ぶりに境内を整備し、鳥居や社殿、庚申堂、水屋、狐塚などを新たに造り、社を末永くお祀りしていくことになりました。


林稲荷神社の庚申塔



林稲荷神社
 本社の創建は「縁起」によると、「この地は江戸時代から将軍家の直轄地であり、御林と呼ばれる地であった。ある年、干ばつが続いて、村人が御林の樹木を売って生活の資としてしまった。その管理をしていた百姓仁左衛門が困っていたところ夢枕に祭神が現れ、湧き水の場所を知らせた。村人7人で掘ったところ清水が湧き出て生活が安定した。そこで当社を創建したという。創建は寛文年間(1661~73)の頃と考えられる」とある。昭和14年区画整理により社地を拡げ、石段などを整備。現在の社殿、鳥居などは平成十一年に改築されたものである。

林稲荷神社の庚申塔
鳥居脇の祠に納まる中央の角柱型石造物は、寛文3年(1663)に建てられた庚申塔です。三猿や鶏の浮き彫りは精巧に表現されています。区内では古いもので、江戸初期の庚申塔の典型を示しています。










新江古田駅

ゴールの都営大江戸線新江古田駅




久々に長距離を歩いた。
中に電車を挟むと体を休めることができて良いね!
これで、このエリアでの散歩で残してしまったスポットは全部回れたと思う。



東中野で乗り換えて高円寺へ帰る。



東中野駅

2021/06/13 02 江古田散歩 06 江古田駅きたぐち商店会/江古田浅間神社/音大通り/駅前通り/江古田市場通り/江古田ゆうゆうロード

西武池袋線江古田駅北側エリアを散策。
やはり以前来たことがある、
2020/12/29 練馬桜台散歩 03 江古田浅間神社/浅間通り/江古田市場通り/江古田市場跡/浅間湯/江古田ゆうゆうロード/庚申塔 - ovanの社会科見学




江古田駅きたぐち商店会

商店街♪










◆江古田浅間神社

以前訪れたことがある。
今回はお参りだけ。










◆音大通り

商店街♪










駅前通

商店街♪









◆江古田市場通り

商店街♪









◆江古田ゆうゆうロード

商店街♪









続く。

2021/06/13 02 江古田散歩 05 タイ食堂ひょうたん江古田店/江古田駅/西武池袋線踏切/日大通り/日大芸術学部/古戦場碑

西武池袋線ちょい南側の細い路地を線路沿いに北西へ進む。
西武線江古田駅から線路を渡り反対側を北西へ進む。
このあたりも以前散歩したところと少しかぶる。
2020/12/29 練馬桜台散歩 02 小竹児童遊園/小祠/佐々木家住宅主屋/日本大学芸術学部/日大通り商店会/江古田駅/江古田駅北口商店会 - ovanの社会科見学





◆タイ食堂ひょうたん江古田店

めっちゃ気になったお店。
今度誰かといってみたい。








江古田駅

西武池袋線江古田駅









西武池袋線踏切



すぐ横に江古田駅のホームが見えた。










◆日大通り

商店街♪
上記の踏切から向こうが日大通り?
このあたりの商店街は複雑でよくわからない。









日本大学芸術学部








◆古戦場碑

この奥にありそうなんだが、完全に私有地っぽいので入るのを諦めた。



google mapのマークは上の写真の奥になる。
WEBで調べても情報が出てこない。
ご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください。
ぺこ <(_ _)>








続く。

2021/06/13 02 江古田散歩 04 江古田不動堂/江古田湯/穴守稲荷神社/練馬総合病院/旭丘文化通り商店街/旭丘なかよし緑地

細い路地を北東へ向かう。



◆江古田不動堂


石塔群 



山門
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◆江古田湯

銭湯♪










穴守稲荷神社










◆練馬総合病院









◆旭丘文化通り商店街

商店街♪











◆旭丘なかよし緑地









続く。

2021/06/13 02 江古田散歩 03 西武池袋線踏切/南長崎6丁目児童遊園/世子観世音/金井塚/江原公園/須賀稲荷神社

南西へ向かって西武池袋線の踏切を渡る。
金井塚から西へ向かい須賀稲荷神社から北へ向かう。



西武池袋線踏切












南長崎6丁目児童遊園









◆世子観世音











◆金井塚



google mapのマークの位置は上の写真の所辺り。
説明板などは見当たらなかった。

『 金井塚(中野区江原町1-9〜11付近)=現在は宅地。
かつて直径3メートル、高さ1.5メートルほどの塚であったとされる。』
江古田・沼袋原の戦い - Wikipedia


この「facebook」のページはかなり参考にした。
ここから西のエリアは「塚」がたくさんあり、記事にした。









◆江原公園









◆須賀稲荷神社



 はるか昔から、中野区江原町3丁目17番地(現・こぐま公園のある所)に二つの小さな祠があり、それぞれ牛頭天王(ゴズテンノウ)と宇迦之御魂神(ウガノミタマノカミ)が祀られておりました。
その祠の西側では清水がこんこんと湧きでて、細い流れをなしていたことから、土地の人々が五穀の豊穣と疫病除けを祈願して祠を祀ったものだと伝えられています。悪疫の流行を防ぐ神として「じゅくじゅく天王様」と庶民から親しまれ、多くの信仰を集めてきました。
牛頭天王は悪疫を防ぐ神の素戔嗚尊スサノオノミコト)と同一され、また社名の「須賀」とは、天照大神の弟である素戔嗚尊が出雲の国の斐伊川の上流でヤマタノオロチを退治した時に「吾れ此の地に来たりて心須賀、須賀し」と述べ、宮居を創立したという故事にもどつき名づけられた名称です。
「宇迦之御魂」は稲魂(イナダマ)の意で、「稲荷」の語源である稲成(イネナリ)、つまり、稲の育つ様を言い表した言葉から来たとされています。
 江原町は昭和30年代になって、人口増と東京オリンピック開催を契機に道路整備が進捗し、目白通りの交通量が激増し、天王様の境内での祭礼、町の諸行事の開催は危険な為、困惑しておりました。
地元有志の努力により現在地に二神を合祀して移転し、昭和42年2月13日に宗教法人須賀稲荷神社を創立、昭和47年1月に諸建物の建設を起工、同年6月25日に神社、社務所(公民館併設)、神楽殿が完成しました。その後江原町公民館運営委員会や町会、若睦が管理運営を行ってきましたが平成17年5月29日「須賀稲荷神社氏子会」が発足され現在に至っています。


楽殿


先客










続く。

2021/06/13 02 江古田散歩 02 ロード大谷口/千川駅/千早四丁目公園/不動明王様/千川第二歩道橋/くんせい屋/千川歩道橋

細い路地を通って南西へ進む。




◆ロード大谷口

商店街♪











千川駅

東京メトロ千川駅









◆千早四丁目公園









不動明王









◆千川第二歩道橋

下は都道鮫洲大山線。











くんせい

よっぽど入ろうと思ったが、今回はパス。
今度誰かと来ようっと♪









◆千川歩道橋

下は都道鮫洲大山線。












続く。

2021/06/13 02 江古田散歩 01 大山駅/ハッピーロード商店街/山中通り商店街/田崎病院/千川上水と水神様/板橋交通公園/千川二丁目児童遊園

東武東上線からハッピーロード商店街を西へ進む。
川越街道を渡って細い路地に入り西へ進む。
こちらも前に来たところとかぶる場所が多い。
2021/02/11 中板橋散歩 10 大山福地蔵尊/ハッピーロード大山/庚申塔/日本大学医学部付属板橋病院/大谷口氷川神社/庚申塔 - ovanの社会科見学
2021/02/18 大山散歩 07 大山駅(南口)/ハッピーロード大山/にゃんまる地蔵/大山歩道橋/田崎病院/幸町商店会 - ovanの社会科見学
2021/04/22 千住散歩 04 安養院/千住本町住区センター/横山家住宅/千住絵馬屋・吉田家/ハッピーロード商店会/大黒湯/いろは通り - ovanの社会科見学




大山駅

東武東上線大山駅










◆ハッピーロード商店街

商店街♪
ここはいつも賑やかだねぇ。


富士そば



ラーメン食べた。









◆山中通り商店街

商店街♪
ハッピーロードから分岐していた商店街だった。



「山」が抜けている・・・。









◆田崎病院









千川上水と水神様



 千川上水は、この案内板の前の道の下を流れています。
 この上水は、元禄九年(1696)、小石川御殿(文京区白山)や湯島聖堂などの将軍御成の場所に給水する目的で造られました。
 その流路は、現在の西東京市新町の境橋で玉川上水から分水し、練馬区千川通り沿いに流れ、板橋区内を通り、中山道に沿って西巣鴨へと達しています。そこからは、木樋という木製の水道管で、江戸の御府内へと給水されていました。
 しかし、宝永四年(1707)以降は、練馬や板橋地域の農業用水として主に利用されるようになり、流域の新田開発に大きく貢献しました。また、板橋宿内に所在する加賀藩下屋敷平尾邸内の池泉回遊式庭園にあった大池の水源ともなっていました。
 明治期には、板橋町に設けられた精米・精穀のための水車の動力源や、板橋火薬製造所の工場用水として利用されていました。明治十三年(1880)には千川水道会社が設けられ、東京市内の飲料水として再度利用されました。
 その後、水質の悪化や近代水道の発達により明治四十年(1907)に飲料水としての利用が停止されました。昭和戦後期以降は、暗渠化が進みました。



判別できない文字が多すぎるため文字化を断念。









◆板橋交通公園






 この案内板の前の道は、千川(せんかわ)上水の上に作られ ています。
 千川上水は、元禄九年(1696)、小石川御殿 (文京区白山)や湯島聖堂などの将軍御成(おなり)の場所に飲料水を供給するために作られました。
 その流路は、現在の保谷市新町の境橋で王川上水から分水し、練馬区千川通り沿いに流れ、板橋区を通り、中山道に沿って西巣鴨へ達するものです。そこからは、木樋(もくひ)という木製の水道管で、 先の御殿などへ給水されていました。
 しかし、宝永四年(170)以降は、練馬や板 橋地域の農業用水として主に利用されるようになり、流域の新田開発に大きく貢献しました。明治 時代には、東京市内の飲料水として再度使用された時期があります。また水車の動力源としてもこの水は活用されました。 その後、水質の悪化や近代水道の発達により、 明治四十年(190)に飲料水としての使用が停止され、昭和以降、暗渠(あんきょ)化が進みました。
 平成元年(1989)からは、都の清流復活事業により、旧流路に水が流されています。









◆千川二丁目児童遊園









続く。