2021/07/25 小菅・綾瀬散歩 08 加平ポンプ所/みどり歩道橋/青井堀親水水路/都営青井三丁目第2アパート/青井みどり公園/青井兵和通り商店街/青井駅

どんどん西へ進んで「みどり歩道橋」で綾瀬川を渡る。
環七北通りを東へ進み平方東京線という南北に走る道路をTXの青井駅まで北上。



◆東京都下水局加平ポンプ所










◆みどり歩道橋

下は綾瀬川
上は首都高速6号三郷線。












◆竜井堀親水水路



竜井堀の由来と特徴
 竜井堀(たついぼり)は、足立区の東よりに位置し、 六町四丁目11番から弘道二丁T目30番まで綾頼川に平行に沿って北から南に流れ約2.0kmありました。
 昔、足立区に田んぽや畑が教多く見かけられたころ、この田畑のための農業用水を確保するため、 四方の川がらたくさんの用水路が作られました。 竜井堀もその一つでした。
 この水路のおもしろい特徴は、 青井小学校の校舎や体育館の屋根に降った雨水を利用していることです。
 そのまま下水道に流されていた雨水を一旦貯留してから浄化し、 循環させています。








◆都営青井三丁目第2アパート










◆青井みどり公園










◆青井兵和通り商店街

商店街♪
アド街にも出たことがあるんだね。
青井兵和通り商店街朝市|2017年9月30日|出没!アド街ック天国:テレビ東京

この前も来ているがちょうど商店街の反対側だった。
2021/07/23 足立区中央本町散歩 04 稱讃寺教会/大平湯/東栗原町歩道橋/青井愛宕神社/青井二丁目第二児童遊園/青井兵和通り商店街 - ovanの社会科見学












青井駅

つくばエクスプレス青井駅










続く。

2021/07/25 小菅・綾瀬散歩 07 綾瀬駅高架/東綾瀬公園/東京武道館/綾瀬五丁目商店街/めぐみ湯/東綾瀬公園/秩父宮記念スポーツ博物館・図書館(仮事務所)

どんどん北上して綾瀬駅常磐線をくぐる。
さらに北上し、東綾瀬公園からは西へ進む。




綾瀬駅高架

こちらをくぐって線路の反対側へ。










◆東綾瀬公園









東京武道館

東京武道館(とうきょうぶどうかん)は、東京都足立区綾瀬3-20-1の都立東綾瀬公園内にある武道館。武道以外の運動競技場としても利用される。指定管理者制度に則って、公益財団法人東京都スポーツ文化事業団(旧 東京都生涯学習文化財団)が運営する。 』
東京武道館 - Wikipedia









◆綾瀬五丁目商店街

商店街♪











◆めぐみ湯

銭湯♪










◆東綾瀬公園









秩父宮記念スポーツ博物館・図書館(仮事務所)

建て替わる前の国立競技場にあった博物館。
ここで収蔵品などを保管しているんだろうね。
移転する前に一度だけ訪れたことがある。
2013/09/09 秩父宮記念スポーツ博物館 - ovanの社会科見学











続く。

2021/07/25 小菅・綾瀬散歩 06 小菅の風太郎/レンゴー葛飾工場/白鷺公園/蓮昌寺板絵類・古隅田川を巡る歴史/白鷺橋/一の瀬商店会/袋橋公園/古隅田川遺構

綾瀬川通りを白鷺公園まで北上後わき道に入って北西へ進む。




◆小菅の風太



 江戸時代、ここには水戸佐倉道という街道が通っていました。 さる藩の大名行例がこの辺りで突然一陣の風が吹かれ街道沿に植えられだもろこしが澱様の乗る馬に絡んだために、
絶様が溶馬してしまいました。 殿様はもろこしに八つ当たりする次第。畑の持ち主の源殿は許しを請いましたが聞き入れられず、哀れ手討ちとなってしまいました。何年か後、あ
の殿様一行が同じ場所でまたも突風に吹かれました。すると、 どこからともなく「風よ吹くな!殿様に殺されるよー」という怨めしげな声が聞こえ、一行は怯えて逃げ出したそう
です。 その後も風が吹くと 「風よ吹くな!殿様に殺されるよー」 という声がどこからと郷こえたそうです。


橋(名前わからず)




隅田川緑道案内図









レンゴー葛飾工場

レンゴー株式会社(英文社名 Rengo Co., Ltd.)は、大阪府大阪市北区中之島二丁目に本社を置く板紙・段ボールを中心とする紙製の包装資材を製造・販売する企業である。板紙や段ボールの業界では最大手である。 』
レンゴー - Wikipedia









◆白鷺公園










◆蓮昌寺板絵類・古隅田川を巡る歴史

両方とも鳩の糞が酷い・・・・・。



 蓮昌寺には区指定文化財の木版彩色画(絵馬)が保存されています。 記されている紀年か
ら、文久2年(1862)~昭和14年(1939)までの間に寄進されたことがわかります。
描かれている絵は、儒教関係の図が多く、そのほか. 収響図能楽翁の図などがあり、蓮昌寺を中心とする信仰の形態を示す資料として貴重です。
 蓮昌寺は、正安2年(1300) 創建と伝えられています。



 東京低地は、関東諸地域の河川が集まり東京湾に注ぐ全国的にも屈指の河川集中地帯です。これらの河川によって上流から土砂の堆積作用が促され、海だったところを埋めていきます。
 特に利根川は東京低地の形成に重要な役割を果しています。利根川が現在のように鬼怒川と合流し、その後千葉県銚子で太平洋に注ぐようになったのは、江戸時代初期に行われた改修のためです。
 利根川は古くは足立・葛飾両区の間を流れる古隅田川、江戸川、中川が、その支流となり東京湾へ注いでいました。足立区と葛飾区が直線的ではなくて、なぜくねくねと曲がりくねっているのかと疑問をもたれる方も多いと思います。
 実は古隅田川の流路が区境となっているからです。足立区と葛飾区の境は、歴史的に見ると古くは武蔵・下総国の境であり、それが現在まで受け継がれているのです。
 古隅田川は足立区千住付近で入間川と合流し、現在の隅田川沿岸地域でデルタ状に分流しており、この付近に寺島・牛島などの島の付く地名が多いのは、その名残です。
 現在のように古隅田川の川幅が狭くなってしまったのは、上流での流路の変化や利根川の改修工事によって次第に水量が減ってしまったせいです。今では、古代において古隅田川が国境をなした大河であったことをしのぶことはできませんが、安政江戸地震1855年)が襲った際、亀有など古隅田川沿岸地域では液状化によって家屋、堰に被害が出たという記録が残っています。その原因は古隅田川が埋まってできた比較的新しい土地が形成されているためだそうです。
 地震災害は困ったものですが、見方を変えれば古隅田川が大河であったことを裏つけているのです。









◆白鷺橋

下は古隅田川











◆一の瀬商店会

商店街♪











◆袋橋公園









◆古隅田川遺構





現地には説明版など何もなかった。
google mapのマークの場所は上の写真の所辺り。
google mapのマークは「接続できません」のエラーメッセージが出るので、そのうち消えるかもしれない・・・。









続く。

2021/07/25 小菅・綾瀬散歩 05 小菅西児童遊園/水戸橋跡地/新水戸橋/小菅神社/小菅水再生センター東側施設/陸前橋

新水戸橋で綾瀬川の東側へ。
小菅水再生センター東側施設の後は綾瀬川通りを北上。



◆小菅西児童遊園







◆水戸橋跡地

【水戸橋·橋台の石組·綾瀬川
 ここに積まれた石組は、江戸.明治時代から桁橋の水戸橋を支えてきた橋台を受け継いだものです。この構造は、皇居 (旧江戸城) 内濠に架かる木造橋でである平川橋に名残を見ることができます。
 水戸橋が本格的な橋として架橋された年は定かではありませんが、 江戸初期の寛永年間(1624~1644) と考えられています。
 水戸橋が架かる綾瀬川の開削については、「西方村旧記付図」 (越谷市立図書館蔵)に、寛永年間に内匠橋付近(足立区)から小菅(葛飾区)を経て、隅田川合流地点まで堀替えた記録があります。

【橋名:みとはしの由来】
 地元に伝わる話によると、その昔、水戸黄門(光圏)一行が旅の途中、 小菅村に出没する妖怪を退治しました。その妖怪は、親をならず者に殺され、敵を討とうとした狸でした。子理が退治されそうになった時、近くのお地蔵様が身代わりとなりました。
 その事実を知った光圏は、後の世まで平穏となるようにと自ら筆をとり、傍らの橋の親柱に「水戸橋」と書き記したと伝わっています。
 また、水戸橋下流正覚寺には、身代わりとなったといわれているお地蔵様が安置してあり、お堂前の水舎には元禄十年(1697)の銘があります。

【水戸佐倉道)
 前方に延びる道は、東海道など五街道に付属する水戸佐倉道です。この街道は、日本橋を出発点とする日光街道千住宿(足立区千住)から分かれ、常陸国水戸徳川家の城下をつなぐ道でした。途中、 新宿(葛飾区新宿)では、下総国佐倉へ向かう佐倉街道に分かれました。
 これらの街道は、 土浦藩佐倉藩等が参勤交代に使う重要な道でした。享保十年(1725)八代将軍徳川吉宗が、大規模な狩りを小金原(千葉県松戸市)で行った際、水戸橋で下船して水戸佐倉道を通行した記録が残されています。







◆新水戸橋

下は綾瀬川









◆小菅神社


祖霊社


天満宮


田中稲荷神社


祓所


楽殿


鳥居


参道入口






◆東京都下水局東部第二下水事務所小菅水再生センター東側施設

綾瀬川をはさんで両方にまたがる施設なんだね。







◆陸前橋

下は古隅田川
『古隅田川(ふるすみだがわ)は、埼玉県さいたま市春日部市を流れる河川、および東京都足立区と葛飾区を流れる河川の名称。』
古隅田川 - Wikipedia









続く。

2021/07/25 小菅・綾瀬散歩 04 旧綾瀬川流路/綾瀬排水機場/荒川放水路橋梁/中の橋/ミヨシ油脂/正覚寺/小菅ジャンクション

綾瀬川と荒川の間をウロウロしたあと綾瀬川に沿って北上。




◆旧綾瀬川流路

水門があるということは、いちおう綾瀬川とつながっているということかな?



遠くに見える鉄橋は京成線綾瀬川橋梁。









国土交通省綾瀬排水機場



国土交通省の施設があったり東京都の施設があったりよほどの場所なんだね。









東武伊勢崎線荒川放水路橋梁

遠くに東武線の橋梁が見えた。









◆中の橋

下は綾瀬川





反対側にはいかず、写真撮って引き返す。









◆ミヨシ油脂株式会社

聞いたことがある名前だと思ったらやっぱり東証一部上場企業だね。

『ミヨシ油脂株式会社(ミヨシゆし)は、食用油脂、工業用油脂製造を行う会社。 』
ミヨシ油脂 - Wikipedia









◆正覚(しょうかく)寺

この角度でしか撮れなかった・・・。


薬師堂


大師堂


県立小学校の跡

 明治2年(1869)小菅県庁において設立した、学校発布以前の公立学校として、都下教育史上貴重な遺跡で、当寺はその校舎の一部にあてられた場所です。


正覚寺とげぬき地蔵と日本最初の公立学校

 真言宗正覚寺は、常照山阿弥陀院と号し、本尊阿弥陀如来は慈覚大師の作といい、厨子の銘に「本尊慈覚大師作、法印甚求、宝永三年三月入仏厨子宝光、正徳四甲午正月法印甚宥」とある。 草創年代は定かではないが、 開山和尚安心の亡くなったのが文禄元年(1592)だから、 おそらく室町末期の創立と推定される。
 この寺には「とげぬき地蔵」という古い石地蔵が、堂内に安置されている。この地蔵は、以前に旧水戸街道の北側にあったものを、 大正四年荒川放水路の開さく工事で当寺に移されたものである。
「とげぬき」は罪抜からきたもので、 当時付近の小菅監獄から罪を終えての帰途、この石像に願をかけると罪が抜けるというので、 いつしか「とがぬき」が「とげぬき」になったのだという。
 このお地蔵様にはもう一つ「きられ地蔵」の伝説がある。元禄のころ夜になると、この地蔵の付近に美女が現れ旅人を悩ますとの噂がたち、これを参勤交代でこの道になじみの水戸黄門こと徳川光圏が、一刀のもとに地蔵の首を切り捨てたが、首はそれ以来行方不明となり、 正覚寺で新しい首をつけたが、のちに寺の近くで掘り出されたので、 寺では別の箱にお首を納めて供養している。いくら剣術の達人でも、果たして石の地蔵の首がコロリと落ちるほど切れたかどうか疑わしい。 しかし地蔵堂の水舎に元禄年間の銘があり、水戸黄門となんらかの関連があったとも思われる。
 また、 正覚寺にはもう一つ珍しい史実がある。
明治二年(1869年 )この地に小菅県庁が置かれた。県庁では新政府の出した府県学校取調局の令に基づき、早速同年七月庁舎に近い正覚寺本堂内に「小菅仮学校」という公立の学校を設けた。おそらくこれがわが国最初の公立学校であろう。 始めは県庁の役人を対象としたが、希望者には管内の一般町村民の入学もゆるし、文明開化の新しい教育につとめたが、 民間側の入学者は稀だったという。 この仮学校はお隣の千住宿の慈眼寺にも分校を設けたが、 明治四年十一月廃藩置県で県庁とともに廃校となり、明治六年四月学制発布で青砥学校(区立亀青小学校)や勝鹿学校(区立新宿小学校)が設立されたので、 生徒の大半が
両校に転属された。
 次にのせる「聴聞規則」は本邦初等教育史上貴重な資料であるが、その内容は旧態依然とした封建制そのものであったことが、うかがい知れる。

当県仮学校当分小菅村正覚寺ニ相定候事
一 六の日 定休 四月十九日 会議に付昼後休
二 七ノ日 未ノ刻ヨリ小学講釈
  諸役人出席下民といえども聴を許す但し朝索読質問勝手次第
三 八ノ日 未刻ヨリ牧民志告心鑑
  庁内之諸役人必ズ出席すべし其他有志輩聴聞勝手たるべし 但し朝前同断
四 九ノ日 未ノ刻ヨリ孟子輪議
  庁内之諸役人壮年之ものハ必ズ出席すべし老幼之輩ハ勝手次第 但し朝前同断
五 十ノ日_ 未ノ刻ヨリ千住四丁目慈眼寺小学講話 
  |御用村用等ニ而小菅表へ出合居候村人小前ども必ず出席すべし
  若し怠り候もの来れは郷宿向き取調之上、 正覚寺ニ止宿いたさせ教諭を加う其他四方之民人老幼とも出席聴聞する事を欲す
  知事判事之內取締として時々出席すべし其他諸史聴聞勝手たるべし但し朝前同断


小菅正覚寺念仏結衆地蔵像



 この地蔵像は、念仏結衆を願 う兵左衛門と 同行衆によって建立されたものです。
 光背の向かって右には「寛文元天 (1661) 辛丑霜月 廿八 日六親菩提施主敬白」,左には「念佛結衆本願兵左衛門同行廿一人」と刻まれ、供養を行う集団を「念仏結衆」 と記しています。
 17世紀中頃以降は、 「同行集団」とあらわすこ とが多くなるのですが、この地蔵像には「結衆」 と 「同行」 が併記されています。


山門









小菅ジャンクション

こちらをくぐって反対側へ。










続く。

2021/07/25 小菅・綾瀬散歩 03 旧小菅御殿石灯籠/小菅御殿と江戸町会所の籾倉/小菅稲荷神社/松原児童遊園/小菅銭座跡/草津湯/小菅水再生センター

東京拘置所南側エリアをさらに南下。
綾瀬川と荒川の間をウロウロする。




◆旧小菅御殿石灯籠



 現在の東京拘置所一帯は、江戸時代前期に幕府直轄地を支配する関東郡代・伊奈忠治の下屋敷が置かれ、 将軍鷹狩りや鹿狩りの際の休憩所である御膳所となりました。 その
後、元文元年(1736) 7月、伊奈氏屋敷内に小管御殿(千住御殿)が建てられました。
 寬政4年(1792)小管御殿は伊奈忠尊の失脚とともに廃止され、跡地は幕府所有地の小管御囲地となりました。御囲地の一部は、江戶町会所の初蔵や銭座となり、明治時代に入ると、小管県庁・小管煉瓦製造所・小管監獄が置かれました。
 旧小管御殿石燈籠は、全高210cmの御影石製で、円柱の上方に縱角形の火袋と日月形をくりぬき、四角形の笠をおき宝珠を頂いています。 もとは刻銘があったと思われますが、削られていて由緒は明確ではありません。 旧御殿内にあったとされるこの石燈龍は、昭和59年(1984)に手水鉢。庭石とともに現在地に移されました。



こちらの方はだいぶ文字が削れてしまっていて判読することができず、文字化を断念。







◆小菅御殿と江戸町会所の籾倉

 東京拘置所の広大な土地は、寛永年間 (1624~1643年)徳川家光が時の関東群代伊奈半十郎忠治に下屋敷建設の敷地として与えた土地(十万八千余坪)で、当時はヨシやアシが茂り、古隅田川のほとりには鶴や鴨が戯れていました。十数代にわたり代官職にあった伊奈氏が寛政四年(1792年)に失脚するまでの間、八代将軍吉宗公の命により遊猟時の御善所としての「小菅御殿」が造営された場所でもありました。
 寛政六年(1794年)に取り壊された小菅御殿の広大な跡地の一部に、天保三年(1833年)十二月江戸町会所の籾倉が建てられました。その目的は、大飢催や大水、火災などの不時の災害に備えたもので、老中松平越中守定信の建議によるものでした。
 深川新大橋の東請詰に五棟、神田向柳に十二棟、ここ小菅村に六十二棟江戸筋違橋に四棟の倉庫を建て、毎年七分積金と幕府の補助金とで買い入れた囲籾が貯蔵されていました。小菅に建てられた理由は、江戸市街と違い、火災の心配が少ないこと、綾瀬川の水運に便がよかったこと、もちろん官有地であることも条件の一つであったろうといわれています。
 小菅社倉の建物は敷地が三万七百坪、この建築に要した費用は三万八千両、まもなく明治維新となり、この土地はすべて明治政府に引き継がれました。








◆小菅稲荷神社



文字化を断念です・・・。








◆松原児童遊園







◆小菅銭座跡

 小菅銭座は寛政6年(1859)8月江戸金座の直轄で、幕末の財政窮乏と銅相場高騰のため、前例のない鉄小銭を鋳造する場所として設置されました。小菅銭座の中心部は江戸時代初期には伊奈氏の下屋敷、江戸時代中期には鷹狩のための御殿から幕府の所有地・小菅御囲地となり、江戸時代後期には災害に備えての小菅籾蔵と変遷をたどった一角で、現在の西小菅小学校付近にあったとされます。
 万延元年(1840)12月には、前例のない鐚銭といわれる粗悪鐚銭である四文銭を小菅で鋳造しました。最盛期の慶応年間の鋳造職人は232人を数えましたが、慶応3年(1807)にその役割を終えました。
 今その頃の様子を示すものはほとんど残ってはいませんが、昭和25年(1950)5月までは銭座長屋といわれた建物が残っていました。かつて水路があった場所には銭座橋の橋跡が残り、貨幣史関係の史跡として今に伝えています。








草津

銭湯♪








◆東京都下水局東部第二下水事務所小菅水再生センター















続く。

2021/07/25 小菅・綾瀬散歩 02 拘置所脇のお堀/五反野親水緑道/新古川橋/古隅田川(足立・葛飾区)総合案内/小菅銭座跡/小菅御殿跡/小菅万葉公園

拘置所西側を南下する。
意味がないのになぜか緊張する(w



拘置所脇のお堀

お堀があるのはやっぱり脱走防止用かな?







五反野親水緑道


オブジェ

こちらについてはWEBで調べても出てこなかった。
ご存じの方がいらっしゃったら教えてください。
ぺこ <(_ _)>







◆新古川橋

下は上記、拘置所脇のお堀。










◆古隅田川(足立・葛飾区)総合案内

く概要>
 古隅田川はかつて利根川の流末の一つで、豊かな水量をもつ大河でありましたが、中川の藩源事業等により水量を失い、やせていったものと考えられています。 近代に至っては、 雑排水路として利用されてきました。
 現在は下水道の整備によって、 排水路としての使命を終え、荒川と中川を結ぶプロムナードとして期待されています。
 また、古隅田川は古来、下総国武蔵国の境界であるとともに、人と人との出会いの場でもありました。
 そこで、古隅田川に水と緑の景観を再生するため、 「出会いの川、古隅田川」 をテーマに、失われた生物を呼び戻し、 潤いのある人と人との交流と安らぎの場を創出したものです。

<位置>
 当施設は中川から綾瀬川、そして荒川を結ぶ範囲の足立区と葛飾区の区境にほぼ重なっており、古隅田川は中川と綾瀬川を結び、裏門服は荒川と綾瀬川川を結んでいます。
 また、古隅田川に隣接して5つ公園があり、河添公園, 下河原公園は足立区に、袋橋公園、自鷺公園、小管万葉公園は葛飾区に位置しています。

<延長>
隅田川 約5.450m
裏門堰  約1,100m








◆小菅銭座跡








◆小菅御殿跡








◆小菅万葉公園

上記、小菅御殿跡、小菅銭座跡は、この公園内に説明版があった。








続く。