12月18日~12月24日(玉川上水・立川、茗荷谷・後楽園)


写真
森永乳業東京多摩工場@桜上水
立川熊野神社@立川
拓殖大学茗荷谷

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12月18日(月)晴

休み♪
ビデオ・ブログ作業。
古いドラマで「リップスティック」が出てきた。
リップスティック (テレビドラマ) - Wikipedia
最終回だけまだ見てなかったんだよなあ。

2361歩
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12月19日(火)曇り

24時間勤務(当務3)

8875歩

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12月20日(水)晴

24時間勤務アケで・・・

玉川上水・立川散歩 01 玉川上水駅/玉川上水駅前/米軍大和基地の碑/玉川上水駅前商店街/佼成霊園/桜が丘西公園/桜街道駅
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/12/20/000000

玉川上水・立川散歩 02 東大和市デザインマンホール/森永乳業㈱ 東京多摩工場/桜街道公園/東大和南公園/桜が丘中央公園/イトーヨーカドー 東大和店/東大和市ロンド桜が丘フィールド
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/12/20/193000

玉川上水・立川散歩 03 「桜」前田耕成/東大和市デザインマンホール/富士見通り商栄会/丸山台公園/新海道公園/富士見湯健康セントー/火の見櫓
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/12/20/200000

玉川上水・立川散歩 04 東京ユニオンガーデン ファーストコート/BIGBOX東大和/青梅橋東公園/西武拝島線高架/中島町公園/中島町第1公園/都営中島町アパート
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/12/20/203000

玉川上水・立川散歩 05 こもれびの足湯/小平・村山・大和衛生組合/西武鉄道玉川上水車両基地/一の宮神社/水道局監視所・清流復活の碑/清願院橋・玉川上水駅/芋窪街道いまむかし(玉川上水
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/12/20/210000

玉川上水・立川散歩 06 立川柏町団地/中盛稲荷大明神/中野家住宅 主屋・蔵(登録有形文化財)/砂川七番駅/泉体育館駅/稲荷神社/稲荷神社/神社
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/12/20/213000

玉川上水・立川散歩 07 立川市消防団 第6分団/アニヴェルセル立川/芋窪街道いまむかし/泉体育館駅/芋窪街道いまむかし(幸町)/江の島南公園・水神社/立川市営栄町江の島住宅
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/12/20/220000

玉川上水・立川散歩 08 いなげや/パッケージプラザ 立川栄町店/サロンドテチーズ王国/天王社/90円自販機/高松新道記念碑/熊野神社
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/12/20/223000

玉川上水・立川散歩 09 豊川稲荷/立川湯屋敷 梅の湯/立川シネマ発祥の地/シネマ通り商店街/立川小唄の記念碑/立川市デザインマンホール/東京都民平和アピール/立川駅
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/12/20/230000

24847歩

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12月21日(木)晴

休み♪
ビデオ・ブログ作業。

2967歩

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12月22日(金)晴

24時間勤務(当務1)

7912歩

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12月23日(土)晴

24時間勤務アケで・・・

茗荷谷・後楽園散歩 01 茗荷谷駅/茗荷坂/林泉寺/拓殖大学/深光寺/丸の内線高架/宗四郎稲荷大明神/釈迦坂
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/12/20/170000

茗荷谷・後楽園散歩 02 傳明寺/藤坂/大星ビル管理㈱ 本社/徳雲寺/播磨坂/小石川高等小学校跡
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/12/23/173000

茗荷谷・後楽園散歩 03 庚申坂/旧第六天町/徳川慶喜公屋敷跡碑/今井坂(新坂)/徳川慶喜終焉の地/橋/神田上水
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/12/23/180000

茗荷谷・後楽園散歩 04 龍閑寺/旧・土の段坂/金剛寺坂/本田労働会館/永井荷風生家跡/法蔵院/真珠院
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/12/23/183000

茗荷谷・後楽園散歩 05 魚春跡/小石川寺町散歩/石川富山明倫学館/処静院跡の案内板/傳通院/福聚院
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/12/23/190000

茗荷谷・後楽園散歩 06 傳通院前通り三盛会/日本指圧専門学校/旧表町/富坂警察署/富坂/後楽園駅
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/12/23/193000

16943歩

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12月24日(日)曇り

24時間勤務(当務2)

7681歩

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SONY reader

休み。

2023/12/23 富坂


坂上



 「とび坂は小石川水戸宰相光圀卿の御屋敷のうしろ、えさし町より春日殿町へ下る坂、 元は此処に恋多して女童の手に持たる肴をも舞下りてとる故とび坂と云」と「紫一本』にある。 鳶が多くいたので、 鳶坂、 転じて富坂となった。
 また、春日町交差点の谷(二ヶ谷) をはさんで、東西に坂がまたがって飛んでいるため飛坂ともいわれた。 そして、 伝通院の方を西富坂、 本郷の方を東富坂ともいう。都内に多くある坂名の一つである。
 この近く礫川小学校裏にあった 「いろは館」 に島木赤彦が下宿し、 “アララギ”の編集にあたっていた。
「富坂の冬木の上の星月夜 いたくふけたりわれのかへりは」
島木赤彦(本名 久保田俊彦 1876~1926)






文京シビックセンター






◆坂途中








◆旧町名案内

小石川町(昭和39年までの町名)
 京都請時尚跡道興雅后(きょうとしょうごいんもんぜきどうこうじゅごう)が、『廻国雑記(かいこくざっき)』(文明18年 1486)に次のことを書いている。
 「ここ(上野忍岡) を過ぎて小石川と言へる所にまかりて、義方を思ひ深めて小石河 いつをせにとかこひ渡るらん」
 また、 『江戸砂子」 (享保17年 1732) に、「小石多き小川が幾流もある故なりわけて伝通院の後の流 ねこまた橋の川筋小石川の濫なり」 とある。
 むかし、 芋川 (小石川)、 江戸川 (神田川)や周囲の高台から流れた細流が、 現在の後楽園一帯で合流していた。 これらの川は砂や小石が多かったので、 この辺を小石川村と呼んだ。 明治5年、 小石川町とした。






◆坂下






場所はコチラ

2023/12/23 傳通院


『伝通院(でんづういん)は、東京都文京区小石川三丁目の高台にある浄土宗の寺。正式名称は、無量山 伝通院 寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)。または小石川伝通院とも。徳川将軍家菩提寺。江戸三十三箇所観音札所の第十二番札所。 』
伝通院 - Wikipedia




◆傳通院のあゆみ

 当山は今から約六百年程前の応永二十二年(1415年)、 浄土宗第七祖了誉聖冏上人が開山したお寺です。 当時は小石川極楽水の小さな草庵で無量山寿経寺という名で開創されました。
 それから二百年後慶長七年(1602年)八月二十九日、 徳川家康公の生母於大の方が逝去され、この寿経寺を菩提寺と定めました。 於大の方法名「傳通院殿」 から 「傳通院」 と呼ばれるようになり、 徳川家の庇護のもと、大伽藍が整えられました。

永井荷風は、パリのノートルダム寺院に、この寺の美しさを重ねた。
いのちの継承 開山六百年の歴史を受け継ぐ
名刹菩提寺にする誇り








◆説明版

浪士隊結成の 処静院跡の石柱 
 この石柱は、伝通院 の塔頭の一つで伝通院前の福聚院 北側にあった処静院 の前に建っていたものである。
 石柱の文字は、修行と戒律のきびしさを伝えている。
 処静院は、その後、廃寺となった。
 文久三年(1863)二月四日、幕末の治安維持を目的とした組織-”浪士隊”の結成大会が処静院で行なわれた。
 山岡鉄舟、鵜殿鳩翁、伝通院に眠る清河八郎 を中心に総勢二五〇人、その後、浪士隊を離れて、新撰組 として名をはせた近藤勇土方歳三沖田総司 などが平隊員として加わっていた。
 一行は文久三年二月八日、京都へと発った。年号が明治と改まる五年前のことであった。

幕末の傑僧瑞上人
幕末の傑物と称せられている端瑞は幼時 細谷房蔵と弥む 天保元年十月出羽の国(山形県)に生まれた
幼時より秀才の誉れ高く伝通院山内処静院住職福田行識のもとに学んだその才は見る見る内外に評価され三十有歳にして士々の間においても認められる所となり 高橋泥舟山岡鉄舟 のふき理解者であった
彼は公武合体論を主張し水戸烈公の支持を取りつけ 大いに政治的動をなした しかしながらこれは誤解を生む原因ともなり 慶応三年十月十八日深夜 彼は高橋泥舟宅の帰り広井求馬 松岡丙九郎なる人物らに三百坂で刺殺された時に三十八歳と記されている

新選組の前身 新徴組発会の処静院跡
幕末の歴史に1頁を残した新選組の前身新徴組は、江戸市中から応募した浪士隊として清河八郎山岡鉄舟らの呼びかけで、 芹沢鴨近藤勇土方歳三らが参加し、文久3年2月4日伝通院山内処静院で発会したと記録されている。
処静院は、その後火災に遭い消失したが、 この碑建立の一帯が処静院で大黒天に隣接していた。
幕末時、処静院住職琳瑞和尚は、 清河八郎らを支援したとして佐幕派浪士と見られた武士らに暗殺されたが、今なお伝通院内に墓碑が建立され供養されている。
このたび本会の事業として、この記念碑を建立し、永く歴史の時点を残すことにいたしました。








◆小石川寺町散歩

文字が読み取れず、文字化を断念。









◆石塔








◆句碑



春いまださわがしからぬ空のいろに
 辛夷の花は白く咲きたり
德壽

 橋本德壽は明治二十七年(1894) 神奈川県横浜市にに生まれた。短歌は初め土岐哀果に学んだが、後に万葉集に傾倒し古泉千樫を師と仰いだ。昭和二年(1927)短歌結社「青垣会」を結成するに当たり、その原動力となって活躍した。千樫亡き後は、青垣会を六十年間にわたり牽引すると共に、宮中歌会始の選者、 明治記念綜合歌会の選者を務める等、大正から平成までの長きにわたり、歌壇に大きな足跡を遺した。
 歌碑に刻まれた歌は、歌集 「桃園」に収められており、春の到来を実感した喜びが、清楚な辛夷の花の開花にことよせて格調高く詠まれている。なお、橋本徳壽は我が国屈指の木造船技師でもあり、日本全国に赴き技術指導にあたった。平成元年(1989)死去。








◆石仏








◆指塚



指もてもろもろの病を癒やし人びとに慶びと救いを与え先きに逝かれし指聖の御名をとどめその御霊に跡継ぎし者等の誠を捧げその功徳を永えに讃えんとてこの塚を建つ








◆宝篋印塔








◆鐘楼








◆傳通院繊月会館



境内の墓地参拝図
一、 於大の方 (徳川家康公の生母)
   法名 傳通院殿蓉譽光岳智香大禪定尼
二、 千姫 (二代目秀忠長女)
   天樹院殿栄譽源法松山大禪定尼
三、 亀松君(三代家光次男)
   法名 月渓院殿華屋尊英大童子
四、 孝子 (三代家光正室)
   法名 本理院殿照譽円光徹心大禪定尼
五、 於奈津 (家康公側室)
   法名 清雲院殿心譽光質大禪定尼
六、 歷代上人墓
七、 了誉聖冏上人 (净土宗第七祖·傳通院開山)
   法名 西蓮社了譽上人纈月禪師聖冏大和尚
八、 清河八郎 (幕末勤王の志士)
   法名 清秀院殿忠正明義居士
九、 佐藤春夫 (詩人·作家)
   法名 凌霄院殿詞譽紀精春日大居士
十、 高畠達四郎 (洋画家)
   法名 玄相院殿達譽和雅悟道大居士
十一、睪 宣嘉 (都指定旧跡)
   幕末七卿落方の- 人
十二、橋本明治  (日本画家)
   法名 宝藏院殿精譽淨勲明治大居士
十三、柴田鍊三郎  (作家)
   法名 蒼岳院殿雋譽円月鍊哲大居士
十四、簡野道明 (漢学者)
   法名 源徳院簡雲虚舟居士
十五、古泉千樫 (歌人)
   法名 朔密院千樫道惠居士
十六 杉浦重剛 (評論家 教育家)
   法名 温德院剛譽清廉天台道士
十七、藤井紋太夫 (水戸家重臣)
   法名 光含院孤峯心了居士
十八、宣教師ジョセフ岡本三衛門神父供養碑








◆傳通院観音堂 総合案内所



傳通院の墓所
 当山は、応永二十二年(1415)、浄土宗第七祖了譽聖間上人が開山されました。当時は小石川極楽水(小石川四丁目)の小さな草庵で、無量寿経寺という名で開創されました。
 それから約二百年後の慶長七年(1602) 八月二十九日、徳川家康公の生母於大の方が七十五歳、伏見城で逝去。その法名を「傳通院殿」と号し、この寿経寺を菩提寺としたことから「傳通院」と呼ばれるようになり、以来千姫(天樹院殿―二代将軍徳川秀忠公・於江の方の長女)や孝子の方(三代将軍徳川家光公の正室)於奈津の方、初姫など多くの徳川家の子女達が埋葬されるようになりました。
 当山には開創六百年におよぶ長い歴史の側面を物語る著名な方々のお墓が現存しております。

史蹟めぐり、ご見学者の皆様へのお願い
お参りなされる方は、必ず観音堂にお立ち寄り頂き、お声掛け下さい。
観音堂にて、お線香、おしきび等をお買い求め下さい。
一、まずは本堂にご参拝下さい。
二、「参拝のしおり」は観音堂にご用意しています。
三、徳川家ゆかりの方々のほか歴代墓のお墓にもお参りしましょう。
四、境内での飲食は慎んで下さい。飲食は観音堂総合案内所内でお願いしております。

お帰りの際は観音堂までお声をお掛け下さい。








◆於大墓



於大の墓 区指定史跡)
 享禄元年 慶長七年(1528~1602)。徳川家康の生母。三河(愛知県)刈屋の城主・水野忠政の娘。天文十年(1541) 岡崎城主・松平広忠と結婚、翌年に家康を生む
 後に離婚して阿古屋城主・久松俊勝に再婚するも人質として織田方や今川方を転々とするわが子家康を慰め、音信を断たなかったという。
 法名、伝通院殿蓉光岳智香大禅定尼にちなみ、この寺の通り名を「伝通院」とした。



徳川家康の母 於大の方の生涯
 於大の方は享禄元年(1528)、愛知県知多郡東浦町緒川城四代目城主水野忠政の娘として生を受けました。 於大の方が六歳の時、父忠政は三河刈谷に城を築き、家臣と共に移ったと伝えられています。 天文十年(1541)、当時今川方であった岡崎城松平広忠に嫁ぎ、竹千代(家康)が生まれました。
 その後、父忠政の死後、家督を継いだ兄信元は織田方に付いた為、於大の方は離縁され、刈谷へ戻って来ました。その後、坂部城主、久松俊勝に再嫁し三男四女をもうけました。
 夫俊勝が天正十五年に亡くなり、翌年尼となり、後に伝通院の号を授かりました。
 慶長七年(1602)於大の方は、天下をとった家康の招きで訪れていた京都伏見城で七十五歳の生涯を閉じました。
 戦国の世を生きた於大の方は、争いの無い平和な世を願い続け、その波乱の生涯が、時を越え今に語り継がれています。
 於大の方の故郷東浦には緒川城址と、 水野家四代の墓が菩提寺である乾坤院に残っています。
 一度是非足を運んでみては如何でしょうか。








千姫




千姫の墓 (区指定史跡)
 慶長二年 寛文六年(1597~1666)。二代将軍秀忠の娘。
慶長八年(1603)幼少の身で豊臣秀頼に嫁し、大坂城にはいる。
 元和元年(1615)城を出て翌年桑名城主・本多忠政の子、忠刻と再婚するも死別とともに天樹院と号して江戸に帰り竹橋に住む。








◆沢宣嘉の墓



 天保六年 明治六年1835~1873) 公卿”政治家三条実美らとともに尊攘派公卿として活躍するも文久三年八月十八日の政変による尊獄派失脚ののち「七卿落」の一人として長州藩に逃亡。
 のち、明治政府のもとで参与、九州鎮撫総督、外国事務総督、長崎府知事、外務卿を歴任して明治初期の外交を担当した。








◆孝子の墓




 慶長七年〜延宝二年(1602~1674) 孝子は三代将軍徳川家光正室。前関白鷹司信房の娘。 元和九年(一六二三)京都から江戸に下り江戸城西の丸に入る 寛永二年1625)家光と結婚するが、公家出身で武家の生活になじめないまま七十三歳で没す。








清河八郎




 天保元年~文久三年(1830~1863)、幕末勤王の志士。羽前(山形県)清川村斉藤治兵衛の長男。嘉永四年(1851)江戸に出て千葉周作に剣を、安積艮斎に儒学を学び、その後、昌平坂学問所に入り文武を学ぶ。はじめ眞木保臣(まきやすおみ)・平野国臣(ひらのくにおみ)らの尊王攘夷運動に参画したが、寺田屋事件に失望して、文久三年幕府の浪士隊(のちの新撰組) 結成に参加したが、近藤勇土方歳三佐幕派と対立し、江戸に戻され、その後暗殺された。 (隣りは貞女阿連(おれん)の墓)








佐藤春夫



 明治25年~昭和39年(1892~1964)。
大正・昭和期の詩人・小説家。和歌山県の生まれ。明治43年(1910)上京し、与謝野寛の新詩社に入り、永井荷風をしたって慶應義塾大学に学ぶ。 はじめ叙情詩人として出発したが、のちに耽美主義の影響を受けて大正8年(1919)小説「田園の憂欝(ゆううつ)」を発表し好評を博し小説家として独自の地位を確立した。
 古典的な詩人としては、大正以降の第一人者である。芸術院会員となり、文化勲章を受什、区内関口三丁目の自宅没Lㄤ。文京区歌の作詞者でもある。








◆サイコロのかたちをした墓石

サイコロが好きだったのだろうか・・・。








◆山門








場所はコチラ

2023/12/23 真珠院


『1647年(正保4年)、松本藩藩主水野忠清の開基である。元々は伝通院塔頭という位置づけであったが、明治になり伝通院から独立した寺院となった。
1923年(大正12年)の関東大震災では、ほとんど被害が無かったが、1945年(昭和20年)の東京大空襲では、全焼した。 』






 この寺に、 於大の方の生家 水野家の墓所がある。 於大の方の甥にあたる当時松本城主であった水野隼人正忠清を開基として、正保4年(1647)に建立された寺である。寺号は、忠清の法名・真珠院殿による。 道一つはさんだ伝通院に於大の方も静かに眠る。
 於大の方は、三河国刈屋の城主 水野忠政の娘で、14歳の時、 岡崎の松平広忠に嫁いだ。翌年家康が生まれたが、仲むつまじかった結婚生活はわずか3年、幼い家康を残して離婚させられた。時は戦国の世、政略によるものであった。
 於大の方は、かげながら家康の成長を見守り励まし続けたという。慶長7年(1602) 於大の方は京都で亡くなった。家康は遺骸を江戸まで運ばせ菩提寺として伝通院を建立し手厚く弔った。






◆回文「宝船」

この和歌は最初から読んでも逆から読んでも同じ音になる回文歌です。
七福神と宝船の絵とこの回文歌を枕の下に置いて寝ると良い初夢が見られると言われています。






◆沼津藩主水野家墓所






◆山門






場所はコチラ

2023/12/23 旧・土の段坂


坂下。




◆旧町名案内板

旧金富町 (昭和39年までの町名)
 明治2年、 小石川釜杉水道町の一部、 小石川富坂新町 小日向金剛寺門前町 多福院門前町の4町を合併した。
 町名は、 金剛寺の金と富坂新町の富の頭文字をとって金富町とした。 明治5年、 さらに付近の土地を加えた。
 金剛寺坂上に、俗に鶯谷というところがあった。 ここに江戸時代狂歌で有名な大田蜀山人 (南畝)が住んでいた。 また、小説家永井荷風明治12年、旧金富町45番地(現・春日2-20-25あたり) に生れ、 少年時代を過ごし、このあたりから伝通院周辺は、 荷風の心のふるさとであった。 小学校は黒田小学校(現五中の地)を卒業した。
 この町に遊びくらして三年居き
  寺の墓やぶ深くなりたり (釈 超空(しゃくちょうくう))







◆坂途中






◆丸の内殿跨線橋

橋の名前が分からなかったのでご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください。
ぺこ <(_ _)>








◆坂途中

急に狭い階段になる。






坂上






場所はコチラ

2023/12/23 徳雲寺


『1630年(寛永7年)、一翁碩觜によって開山された。当初は「解脱寺」という名称だったが、その後「白鷗山江南寺」に改称し、更に現行の「妙峰山徳雲寺」に再改称した。
江戸時代は、境内に椎の大木があったが、明治以降に枯死し、現存していない。 』
徳雲寺 (文京区) - Wikipedia



◆稲荷社





◆弁財天





◆山門





◆参道入り口





場所はコチラ

2023/12/23 傳明寺


仁山嶺恕(1625年(寛永2年)没)が開山、鏡翁傳明(1649年(慶安2年)没)が開基となり創建した。
通称「藤寺」と呼ばれる。これは『東京名所図絵』に記載されている寺伝によれば、慶安3年(1650年)に徳川家光が牛込高田付近へ鷹狩りに行った際、帰路にこの寺へ立ち寄り、庭一面に藤があるを見て「これこそ藤寺なり」と呼んだことによるという。
かつては「観音水」とよばれる湧水があったが、現在は枯渇している。また別に井戸があり、現在は文京区指定の防災井戸となっている。 』
伝明寺 (文京区) - Wikipedia




◆祠






◆井戸






◆石仏・石塔






◆山門






場所はコチラ