2024/03/13 出羽ノ雪酒造資料館




















銚子と徳利
銚子は酒を杯に注ぐ用具で、古くは注ぎ口のある鍋形の容器につるをつけたものでありました。
室町時代になると、つるの代りに長柄をけたものも出て参りました。
前者はつるを手で提げるので提子(ひさげ)、後者は長柄を持って注ぐので、長柄銚子と申しました。
これらの多くは銅製、または木製漆塗りで、陶磁器製のものはあまりありませんでした。
それが後世になると、酒瓶類も皆、銚子と呼ぶようになりました。
徳利は、一般に口が細く、胴がふくらんだ丈の高い陶製の瓶のことをいいます。
古くは、酒のほか酢や正油も入れました。江戸時代になり、酒を温めて飲む、かん酒の風習が起こりまして、はじめはかんなべなどで酒を直接火にかけて温めましたが、後にこれを間接に湯で温めるようになりました。徳利のなかには、直接火にかけてかんをする為、底部を広く平らにしたもの、炭火や熱い灰の中に差し込んでかんする為、差し込む先端部をとがらせたもの、その他、さまざま面白い趣向をこらしたものもございます。




退営記念杯
兵役を済ませて帰郷するとき、知人に挨拶のため配りました。
陸軍は連隊旗、海軍は碇、歩兵、工兵、騎兵、輜重兵、近衛兵、鉄道連隊、看護卒。
それぞれの特性がよく表わされております。
年代順に杯の大きさが小さくなってゆくのも、興味があります。

山形県庄内の農民」
庄内地方は古くから農業技術の研究、研究結果の普及の点について全国でも格別の土地とされて参りました。
水稲の品種改良についていえば現在の東北、北陸地方の代表品種ササニシキ コシヒカリ キヨニシキ トヨニシキ レイメイ 美山錦 これら全て庄内の民間育種家が創選
した育成種の血をうけているのであります。
その情熱の発揮は、品種改良の面だけではなく、乾田馬耕の普及、杭掛(くいがけ)乾燥法、 坪当たり幡種(はしゅ)量、 幡種期の改善、 肥料の分施法等、 技術革新にかける進取の気風、前向きの態度は他に類を見ないものがありました。




「稲の道」
つい近年まで、アジア栽培稲は、インドの低湿地に起源し、そこから世界各地に伝播したとされておりました。 それは、インディカ型であり、 ジャポニカ型は後でそれから派生したと信じられておりました。
しかしながら、京都大学東南アジア研究センター所長渡部忠世教授は調査研究の結果、アジア大陸の稲の伝播の道をさぐると、すべての道はアッサム・雲南の山岳地帯へと回帰すると結論づけられました。
アッサムに参りますと、複雑な地形の上に、約8,000といわれる多様な在来品種が栽培され、水稲陸稲も、インディカジャポニカも、標高差のある立地を選んで共存し、また野生稲群落の分布も広くゆきわたっているのであります。
雲南もまた同様であり、この両地域を結ぶ絆となるのがブラマプトラ川であります。 メコン川、イラワジ川、紅河、揚子江、すべて源は雲南の山地であります。 雲南から東への伝播は、揚子江の流れに沿ってであり、やがて今から2000年余前弥生時代に、日本にたどり着いたものと考えられるのであります。
最初に日本に入ったのは、おそらくモチ稲であった可能性が大であり、これが我国での祭祀にかかわる食事、正月の餅など、晴の行事に関する食素材がもっぱらモチ米であることと深く関連するのではないかと教授は申しておられます。
雲南高原に源を発して、メコン川チャオプラヤ川、イラワジ川をたどった「メコン系列、即ち円い米、大部分がモチ稲 「ジャポニカ型」と、ベンガル湾沿いにインド大陸そしてインド大陸からベンガル湾を渡ってインドシナ半島へと伝わった 「ベンガル系列」即ち粉の形の細長い、ウルチ稲の「インディカ型」、稲にはこの二種類があるのは皆様すでにご承知の通りであります。
ラオス、タイの北部と東北部、ビルマのシャン州とカチン州の一部、アッサム東部、雲南省 広西チワン族自治区の一部では今でもモチ稲だけが栽培されこれを主食としております。
インドシナ半島にインディカ稲が分布したのは十世紀以降のことである事実も、日本の稲作の歴史を考える上で念頭においておく必要がありそうであります。




まぼろしの名酒米(メイサカマイ)」と「庄内の育種農民」
阿部亀治が創選した 「亀の尾」 は、 大正14年には194,914 町歩、 東北六県 粳(ウルチ)稲(イネ)作付(サク ツケ)反別(タンベツ)の35.1%を占め、本邦三大品種の一つに数えられました。
「亀の尾」は酒造米としても非常にすぐれておりました。
工藤吉郎兵衛はこの血を導入して、 さらに「酒の華」 「京の華」「国の華」の三品種を育成しました。
今、酒造米として重用されている 「たかね錦」 「改良信交」 「五百万石」「フクノハナ」 主食米として好評な「ササニシキ」 「コシヒカリ」は、皆「亀の尾」の血をひいております。
山形県庄内地方」 では、この他、佐藤弥太右衛門、 桧山幸吉 須藤吉之助 阿部勘次郎、渡辺寛蔵等々、多数の農民が人工交配までとり入れて品種改良にとりくみ、 その育成種が広く栽培されました。
このようなところは、全国でも全くその例がありません。

阿部亀治翁
明治元年3月9日生れ、昭和3年1月2日没 (61才)東田川郡大和村(現余目町大字小出新田字苧畑割29番地)
明治26年9月29日水稲品種「亀の尾」を創選。
全部湿田組織であった明治20年当時の慣行農法からの脱却をこころざし、卆先して先進地の乾田方式を導入、馬耕方式の普及奨励、 耕地整理事業等に尽力しました。

工藤吉郎兵衛翁
万延元年12月28日生れ、 昭和20年11月18日没 (86才)西田川郡京田村(現 鶴岡市大字中野京田乙51番地)水稲品種 「福坊主」「京錦」「日の丸」 酒米「酒の華」「国の華」など、皆で3千種といわれる多数の品種を創選。文字通り庄内民間育種家の第一人者。
「日の丸」にはイタリア稲の血が流れており、我が国でもっとも早い外国稲導入実用品種であります。




石敢當

そとにあった祠
祠の隣に「内務省指定 史跡 石敢當」という石碑が建っていた。




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伝統美酒出羽ノ雪-酒造資料館/DEWANOYUKI Museum




定休日
正月三が日
とありますが、行かれる方は事前にHPなどを確認してから行ってくださいネ!




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