2024/03/13 大山公園





◆正面口





フキノトウ

正面口近くで見つけたフキノトウ
久しぶりに見た気がする。





◆三吉社鳥居





◆大山(加嘉山)公園八景「南櫻が丘」



専念寺かねの
 聲(こえ)さえかすむなり
さくらが丘乃(の)
 花の真盛(まさか)り
石川梧堂(継述)

『石川 総朋(いしかわ ふさとも)は、江戸時代後期の旗本。総氏系石川家(保久石川家)6代。書家としても知られ、字を錫我・亀我、号を梧堂また知秋庵と名乗った。 』
石川総朋 (梧堂) - Wikipedia



あづまやから見た景色。
案内図には「厩跡」とあるが、説明版などは見当たらなかった。





◆三吉神社

案内図には近くに「武藤氏本丸跡」「やぐら跡」「西の丸跡」があるが、説明版など見当たらなかった。

大宝寺 義氏(だいほうじ よしうじ) は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名。大宝寺氏17代当主。武藤義氏とも呼ばれ、越後国上杉謙信と誼を結び上杉姓を名乗ったこともある(山形県史)。大宝寺氏の当主であると同時に羽黒山別当職も務めた。 』
大宝寺義氏 - Wikipedia

↑こちらで合っているかな?
詳しい事をご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください。
ぺこ <(_ _)>





◆秋野庸彦歌碑



千はやふる 神代の跡を たつねてぞ
 真広きみちを 行へかりける 庸彦

後の文字化は断念・・・。
助けていただける方お待ちしております・・・・。



千はやぶる
 神代の跡をたつねてぞ
真廣きみちを
  行くべかりける
秋野庸彦





◆小祠等





◆碑



余、大山の古城に遊ぶ、山川田野、城都村落、大泉の形勝一覧して尽くすべし、ただ桃李の方華、禽鳥の哀鳴をうくるなし、星薄に山亭に憩う、花下老あり、せつに余になげきて曰く、これもと武藤氏の墟なり、武藤氏亡びてより二百七十有余年社稷煙滅すといえども慰霊なお存す、昔年僧某新たに祠を立てこれを祀る、祠を以て又三吉神主によせる、俗にこれ三吉神という、これに二神おごそかに山下千戸の色にのぞみ以て禍福をなすを知るべし、故に虔誠奉神して福を得る者日月盛なり
邑中の田中政春は難を離れんと日夜神に祷りて、免るるを得る、政春感泣して多く花木を植え以てその徳に酬いるを図る、栽えるところ八百余株、今に至り十有八年、桃桜爛然、山上の春を成すはこれなり、余これを聞き、唱然歎きて曰く、武藤氏数十世この地により、隣国を虎視す、一旦社稷滅すといえども、宜しく祈有るべし、以てその清爽赫赫の民の崇敬にこたうるなり、田中氏誠心請祷してよく難を免るるがごとし、これ其の尤も彰明するものなり、すなわち花木ううるをおもい、以て神の恵に報い、歳に植え歳に殖やして十八年間一日の如くして、山上の祠前にこの爛漫の春をなさしむ、又言うべし、能く困版の時を忘れず、以て神霊に答うるなり、われ異日田中氏の請にこたえ、いささか耳目に属するの所感、以てここに碑にこれを刻む、





加藤嘉八郎有邦 句碑



荒金の土を
  手向けて世を祈る
三吉の御神
  幸あらせ給え
加藤嘉八郎有邦





◆太古橋

下は空堀








◆大山(加嘉山)公園八景鶯谷



 春来ぬと
  よにさき可希(かけ)て
    加嘉(かが)の山
  谷のうぐいす
 今日(けふ)鳴き出でぬ
作者不祥





◆展望台



展望台からの景色




◆古峯神社鳥居





◆古峯神社



 創始年代は天文年間(1532~1554)荘内の地頭 (領主)武藤氏が城を大山公園に築いて以来、城内の鎮守として祀ったことに始まる。武藤氏は代々その居城に八幡宮を建立し、祀っていた御尊像を奉安した。その後武藤氏が亡び元和元年(1658)に「本城のみ支城は破棄すべし」の幕命が下った時、梅本院が居宅の地に遷宮し奉仕。
文化九年(1812) 大山大火災の折御尊像はその類を免れる。
明治の初年、大山村はもちろん庄内各地で火災発生甚だしく「火防の神様」勧請の気運高まり、明治四年(1871)二月、下野国(栃木)鎮座の古峯神社を勧請し八幡台に社殿を再建し古峰神社と称した。昭和二年不慮の事故により社殿被災。翌年八月講員崇敬者の総力結集によって現社殿の復旧をみる。
昭和二十九年、直会殿建設、昭和三十四年、境外地を大山公園敷地として無償貸与することを大山町と誓約調印、合併後は鶴岡市が公園管理に努めている。


大山祇神社


石塔等





◆歌碑



古峯の神
 みそのの境はき清め
ぬさを手向けて
   世を祈るかも
加藤嘉八郎有邦





◆平和慰霊塔


参道


歌碑



明けしらむ
 まては雲なり山桜
櫻井墟山(伊左衛門)





◆大山(加嘉山)公園八景(旭臺(あさひだ)櫻が丘)



師木嶋乃(しきしまの)
 山跡(やまと)ごころを
        人とはば
 朝日に匂ふ
    やま桜花(ざくらばな)
本居宣長





◆尾浦茶屋

やっていなかった。





◆大山(加嘉山)公園八景(旭臺(あさひだい))



 出羽のさと
  ひとめの
    うちに
    阿希(あけ)そめて
 かすみにうかぶ
村の八百嶋(やおしま)
石川梧堂(継述)





加藤嘉八郎





◆眺望景観資産碑



大山公園~尾浦入景~からの自然と市街地と庄内平野をとりまく山々の眺め



初夏遊加嘉山公園 石川梧堂
加嘉公園曳杖遊
羽陽山水眼中收
月峯鳥嶽連東北
花樹霜林春亦秋
琴社苔蒸尋古事
雙湖波静泛漁舟
寄言天下風流客
佳地逍遙散百憂


この場所からの景色





◆武藤家碑



文字化は断念・・・・。


東京尾浦会碑


庄内空港開港記念樹欅碑





◆三春の瀧桜



国の天然記念物に指定された「三春の瀧桜(福島県)」 孫に当たる(成木3本)





◆大山(加嘉山)公園八景(松が崎納涼所)



 夏の日に
  来てもやすらへ
      松が崎
 風もみどりの
   色にこそ吹希(ふけ)
作者不祥





◆展望台






◆大山(加嘉山) 公園八景(躑躅(つつじ)が丘)


]
真荒男(ますらお)の
    こころの色乃(いろの)
      躑躅か那(な)
石川梧堂(継述)

案内図を見るとこの辺りに「尾浦城跡」とあるのだが、説明版など見当たらなかった。
参考
出羽 尾浦城-城郭放浪記





◆自然休養●●●碑

●のところが読めなかった・・・。





◆干害防備保安林




熊って・・・・・。



この辺りの場所から撮ったら雪が迫ってきた・・・





◆記念碑

何の記念碑なのかわからなかった。
ご存じの方は教えてください。
ぺこ <(_ _)>





◆大山(加嘉山) 公園八景(紅葉が丘)



車をとどめて
 坐(そぞろ)に愛す楓林(ふうりん)の晩(くれ)
霜葉(そうよう)は二月(にかつ)の
 花よりも紅(くれない)なり
杜牧





◆あづまや






◆大山公園由来碑

 太平山、金剛山、鳥打山をあわせて大山公園という。
太平山には三吉神社、金剛山には古峯神社が祭られ、その境の空堀には大古橋がかけられている。空堀は大浦城の遺跡である。金剛山の西は新山森といい、鳥打山に続く。天文年間(十六世紀前半)大宝寺(鶴岡)から大浦(大山)にに移った武藤氏がここに大浦城を築いたので城山ともいう。
 嘉永元年(1848)大山村の田中政春が、大山騒動に対する幕府の重い処罰から免れたことを、三吉大神に感謝して、城山に八百余本の桜・桃の木を植えたのか城山への桜植樹の最初である。その後、慶応三年(1867)前庄内藩主酒井忠発が、大庄屋佐藤順太に命じて大山組村々から桜を買上げて植付けさせ、以来城山は桜の名所となった。
 昭和の初め不況が続き、酒造家加藤嘉八郎有邦は大山町民の救済と将来の人々の行楽の地にあてるため、昭和八年(1933)ここに自費をもって一大公園を造る工事を起し同十五年に完工した。園内には、紅葉が丘、南桜ヶ丘、松が崎納涼所、旭台桜ヶ丘、つつじヶ丘鶯谷北桜ヶ丘、旭台の八景が配され、それぞれの眺望を楽しめる加藤氏はここを加嘉山公園と名付け、訪客への園主のの意をこめて自らの石像をたてた。
 昭和十八年公園は古峯神社・三吉神社に寄付され、その後大山公園と改称、昭和二十五年度山形新聞社主催観光山形県一自慢投票では、第一位に当選した。今大山公園は、鶴岡市で管理され東京尾浦会より二万二千本余の桜・つつじ等苗木をいただくなど補植樹に努め、隣接する高館山休養林と共に、多くの人々の散策や行楽の地となっている。





◆尾浦の館





もうちょっとゆっくり巡ってみたかった。
まだ史跡などありそう。
機会があったらまた来たい。





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