2023/09/10 廻田不動尊



 江戸時代に記された『新編武蔵風土記稿』には「村の中央の鍛冶屋というところにあり、日向山光明院と呼ばれる。新義真言宗にて、多摩郡青梅村の金剛寺の末寺となっている。本堂は、六間四方の南向で、本尊は、高さ一尺の不動の坐像で、智證大使の作といわれる。この仏像は秘仏で見ることはできません。この寺は、古へは大寺なりというが、今は住持もないほどにおとろえている。開山開基も詳しくはわからず、下に掲載する薬師堂・石薬師なども、この寺の持であったが、いつの頃か村民の持となったと言い伝える。 (後略)」と書かれ、詳細は定かではありませんが、現在の多摩湖町あたりにあった大伽藍の寺であったとの伝承もあります。また明治時代の『狭山の栞』には、「日向山光明院瑠璃光寺」と寺の名前も見え、瑠璃光寺の名の由来は、薬師如来の東方瑠璃光浄土にちなむものと考えられ現在この場所に建てられた峯薬師堂と関係が考えられます。





◆境内の文化財

一、不動堂
室町時代の創建と推察される。 不動明王及び二童子像が祀られている。 お不動様は、 現世利益を叶えてくれる仏さま。 剣と投げ縄を持ち、 炎を背負っている。

二、薬師堂
旧地の峯薬師堂に祀られていた薬師如来を納めるため、平成十九年七月に建立された。 薬師如来立像及び両脇侍像(市指定有形文化財)、瑠璃光扁額などが祀られている。 薬師様は薬壺を持ち、病気を治す仏さまです。

三、応永の板碑(市指定有形民俗文化財)
現在上下二辺だが、完全な形ならば四メートル程で都内最大級であったと言われている。

四、廻田安産地蔵堂
享保三年作の丸彫り地蔵と多くの子地蔵がある。かつては、安産祈願の女性で賑わい、多くの赤い腰巻が垂れ下がっていた。

五、鐘楼 鐘つき堂)
明治二十年頃建立。 屋根中央に疑宝珠がある。太平洋戦争中の金属供出で鐘はない。

六、池谷熊次郎碑
熊次郎は廻田町の出身で、明治二十五年に兵役に就き日清戦争に従軍した。 彼の忠勇を表彰するための碑である。





◆鐘楼跡
:image:w360]
明治二十年頃建立と思われる。四本柱の宝形造(ぼうぎょうづくり)で屋根中央に疑宝珠(ぎほうじゅ)が乗っている。
太平洋戦争中の金属供出により、梵鐘はない。





◆薬師堂



 檜材を用いた割矧ぎ造りの像で、肉身部素地・着衣部黒漆塗り仕上げ。玉眼を嵌入し、肉髻珠・白毫珠は各水晶製。像高77.5cm。通称を「峯薬師」といい、地元の信仰を集めています。
 元弘3念(1333)の新田義貞の鎌倉攻めの際に戦火にあって焼きだされたという伝説があり、その姿には、中世彫刻特有の写実的な造形感覚が認められ、十三世紀後半の制作と推測されます。
 この峯薬師は、ここから近い場所にあった薬師堂に阿弥陀如来立像と不動三尊像とともに安置されていましたが、事情により薬師堂が取り壊され、長く故人宅で保管されていました。
 今回地域の人々の尽力で、この光明院不動堂の境内に薬師堂が建てられ、峯薬師も修理されて阿弥陀薬師立像と不動三尊像とともに改めて安置され末永く保存されることとなりました。





◆廻田安産地蔵



 現在薬師堂の建っている場所に祀られていたが、平成十九年に薬師堂の建設により、現在の場所に移設されました。 地蔵の台座には、享保三年の年号があり、廻田村の村人が寒念仏を達成した記念にこの地蔵菩薩が建立されたことを物語っています。
 この地蔵菩薩は、いつの頃からは定かではありませんが、安産祈願のお地蔵さまと親しまれていました。妊婦はこのお地蔵さまに巻かれた腰巻を借りて身につけていると丈夫な子どもが授かり、安産まちがいなしと伝えられ、安産だった人は、お礼に借りた腰巻と新しい腰巻を地蔵に奉納しました。戦前は多くの人が参詣に訪れ、お堂には、腰巻がいっぱいにぶら下がっていたそうです。現在では、安産祈願のための腰巻を奉納することはなくなりましたが、地元の方たちの信仰は今でも続いています。

民間の寒念仏は、室町時代以降に始まると見られ、寒中の三十日間寒夜に諸所を廻巡りながら虹をたたき念仏を唱える行法と村堂に集まって和讃、念仏を唱える二通りがあった。



◆応永の板碑



 板碑は鎌倉時代から戦国時代にかけての中世に建てられた供養のための碑で、石材は緑泥片岩という秩父長瀞を産地とするものです。
 この応永の板碑は中央に「□読妙経一百三十六部」と刻まれ、法華経信仰を同じくする多くの人々によって応永十三年(1406)に建てられた「法華経読誦塔」で「結板碑」ともよばれます。
 現在は数片に割れて欠落した部分も多くありますが、復元すると高さは4メートル近くあり都内でも最大級の板碑で、これだけ大きな石を運び建てることは容易なことではなかったと思います。また碑面に刻まれた法名は現在数十名残され、当初は100名以上かと思われます。
 この板碑によって、応永13年という昔に東村山を中心として大きな法華経信仰の集団があり、信仰の証としてこれだけの碑をたてる力が有ったことがわかります。
文献の少ない中世の東村山を知る貴重な資料です。





◆池谷熊次郎碑



 熊次郎は廻田町二丁目三十一番地で生まれ、育った。明治二十五年に兵役に就き近衛師団に属して日清戦争に従軍し、台湾に渡って戦闘に参加したが、この地で病死した。彼の忠勇を表彰するため、ここに碑を建てた。
この碑には次のように記されています。
 陸軍大将正三位勲一等功二級伯爵野津道貫題額池谷熊次郎は武州北多摩郡東村山村市郎右衛門の長子、母は磯田氏。家代々農を業とする。 人となり温厚、志業端正。親に事へて至孝なり。明治二十五年兵役に就き、近衛師団に属し歩兵一等卒となる。 昼夜勉強、槍銃の技に熟し、又能苦難苦に耐える。 二十八年四月海を渡って清国奉天省に入り、六月転じて台湾に向かい、賊徒を征伐し、三角湧、太姑陥等の地に戦い、毎に戦ひて功あり。既にして疾に罹り、台北兵填病院に入り、医薬効なく、意に起たず。実にそれ八月十五日なり。享年二十有四。郷人深くこれを悼み、厚礼遺骨を回田の座域に葬る。遠近会葬する者凡そ三千人なり。 又碑を光明院に建て、その武勇を表彰する。 余にこれが銘を謁す。銘に曰く致身報國 揚名顕親 克全忠孝偉埃斯人陸軍編修正六位勲四等横井忠直撰並びに書す。





◆山門





場所はコチラ