2021/02/27 豊島長崎散歩 01 小竹向原駅/向原八雲神社/千早四丁目公園/千川親水公園/庚申塔/千川駅前商店会/千早公園

24時間勤務アケで、東京メトロ小竹向原駅から西武池袋線椎名町経由で東京メトロ要町駅まで散策。



小竹向原駅南側エリアを南東へ向かって歩く。



小竹向原駅

スタートの東京メトロ小竹向原駅










◆向原八雲神社



当神社は江戸時代この地域の先祖が現在の向原一丁目に勧請し、江戸時代末頃現在の地に遷されたと伝えられており、現在は向原地域の鎮守社としてお祀りしております(尚、向原地域の氏神東新町に鎮座する氷川神社であります)
当神社には「祇園守」という京の祇園神社(現八坂神社)所縁の珍しい御神紋が有り、また古から「天王さま」と呼ばれ親しまれております。当神社の総社は愛知県の津島神社であることから同御祭神の八坂様と共に深い所縁がございます。
八雲神社は古来より疫病や天災を祓う神様として崇められておりますが、更に健康や家内安全・商売繁盛・学問成就などに御利益があるとして、向原地域のみならず近隣諸地域の皆様から厚い崇敬をいただいております。
此度、平成十九年丁亥九月崇敬者各位の御奉賛により新社殿が竣工しました。この奉賛事業を記念し、永く御由緒之碑を奉納いたします。



向原八雲神社信仰関係資料
 向原八雲神社は、須佐之男命を祭神とし、当地の鎮守であったと伝えられています。元々は向原一丁目に祀られていましたが、江戸期に現在地へと移座したとされます。
 当社には、富士・大山信仰に関する資料があります。境内の手水鉢は、富士講講中の一つである山万(やままん)講の枝講で、上板橋村に展開した丸證(まるしょう)講が江戸期に奉納したもので、そこに刻まれている世話人には、富士山三十三度成就を果たした大先達である向原の三原松五郎の名前が確認できます。
 大山信仰に関わる資料としては、木太刀や神酒枠があります。木太刀は大山まで講員が持参し、良弁の滝で水垢離をした後に神前へと奉納され、それと引換えに以前奉納した木太刀を持ち帰ってお守りとするものです。神酒枠は大山へ御神酒を奉納し、帰りに御神水を入れる御神輿状のもので、これらは区内では当社だけに確認されています。
 他にも、明治四年(1871)以降の年紀を持つ、榛名・大山・富士・古峯・武州御獄・木曾御獄などへの登拝(とうはい)講にかかわる古文書と、当地「オビシャ」信仰に関わる古文書も管理しています。
 これらの八雲神社の信仰関係資料は、当地の江戸期以降の祭記や登拝講について、その組織の実態などを明らかとする貴重な資料群であり、平成二十年度に区登録有形民俗文化財となりました。


境内社



楽殿









◆千早(ちはや)四丁目公園








◆千川親水公園




 かつてここを流れていた千川上水は、江戸六上水の一つで、元禄九年(1696)に幕府の命により河村瑞賢(かわむらずいけん)が設計したといわれ千川太兵衛・徳兵衛の請負によって造られたもの である。
 全長は七里六町三十九間(約28km)に及び、保谷村(保谷市)で玉川上水から分流し、石神井村、下練馬村、長崎村などを経て、板橋町、巣鴨町より下谷、浅草に達していた。
 この上水は、湯島聖堂、上野東叡山、小石川白山御殿、浅草寺御殿などに給水することを目的とし、余水は流域の武家、寺社、町家の飲料水として使われた。宝永四年(1797)には、流域の村々の嘆願により、農業用水としての利用が認められるようになり、区内では長崎、池袋、巣鴨の各村がその恩恵を受けた。
 千川上水は、享保七年(1722)に江戸への給水が中止され、安永八年(1779)に再開されたが、天明六年(1786)には上水としての利用は廃止された。その間、流域の感慨用水としての利用は続き、明治期以降は工場の産業用水としても利用された。
 また、上水の堤には千数百本の桜が植えられ、花見の名所として一にぎわっていたが、戦後の都市化の進行とともに、区内では昭和二十八年(1953)から三十四年にかけて暗渠化工事が行なわれ、桜のほとんどが伐採され、流域の景観は一変した。
 平成元年(1989)、上水跡に区立千川親水公園が開設され、近隣住民の憩いの場となっている。


河村瑞賢の屋敷跡に行ったことがある。
2017/05/30 霊岩島散歩 03 豊海橋/日本銀行創業の地/高尾稲荷神社/湊橋/河村瑞賢屋敷跡/新川大神宮 - ovanの社会科見学








庚申塔









千川駅前商店会

商店街♪










◆千早公園








続く。