2022/02/07 本所吾妻橋散歩 04 墨田公園/牛島神社/言問橋/常泉寺/本行寺/遠藤商店/堀辰雄住居跡

墨田公園を北上。
言問い通りを渡ってさらに北上。
墨田公園を超えて路地を北東へ進む。


墨田公園はこちらのにっきとだいぶかぶる。
2019/03/19 本所吾妻橋散歩 07 佐多稲子旧居跡/隅田公園/牛嶋神社/二峯先生之碑/堀辰雄ゆかりの地/平成植栽の碑/藤田東湖「天地正大気」の漢詩碑 - ovanの社会科見学






◆墨田公園


二峯先生之碑/堀辰雄ゆかりの地


二峯先生之碑

 二峯先生とは、幕末から明治時代初期にかけて活躍した書家の高林二峯のことです。二峯の生涯を称える内容が刻まれたこの碑は明治三十年(1897)八月十六日に二峯が没した翌年の三月、円通寺(押上二)に建碑され、のちに現在地に移設されました。
 二峯は、文政二年(1819)九月三日に上野国後閑村(群馬県安中市)に生まれました。生誕地より望める妙義・榛名の二山にちなみ二峯と号しました。幼少より書の才を現わし、天保十四年(1843)には幕末の三筆と呼ばれた巻菱湖に師事しようと江戸に出ました。 しかし、菱湖はすでに亡くなっていたので、二峯は中国の古筆の研究を進めやがて独自の書法を確立するに至ります。二峯の書は向島百花園の「しのぶつか」、「きゃうけん塚」などの碑でも見ることができます。
 碑文を担当したのは長男の寛です。五峯と号し、父の書風を受け継ぎ、さらに中国の書に近世の諸流を学び、独特の書風を打ち立てました。篆額「二峯先生之碑」は勝海舟(勝安房)が受け持ちました。
 建碑の中心となったのは、今泉雄作です。東京美術学校(現在の東京藝術大学創立者の一人で、二峯の弟子として文峯の号を名乗りました。庶務を担当した佐羽喜六は11才で二峯に入門した後、桐生の豪商に婿入りして佐羽氏を継ぎ、桐生の近代織物業の発展に力を注ぎました。裏面に刻まれる建碑寄付者の中には、二峯の出身地とゆかりのある前橋市長竹内勝蔵や貴族院議員江原芳平などの名も見られます。


堀辰雄ゆかりの地

 堀辰雄は明治三十七年 (1904)、麹町平河町 (現在の千代田区平河町) に生まれました。2歳とき、母に連れられ向島小梅町 (現在の向島3丁目) に住む叔母の家に移りました。明治四十一年には母が彫金師・上條松吉と結婚し、向島中ノ郷町 32番地 (現在のすみだ福祉保健センター所在地) で暮らしはじめます。
 更にその二年後には大水の影響で新小梅町2の4に移り、ここから牛嶋尋常小学校に通います。府立第三中学校(現在の都立両国高校)を卒業した辰雄は、室生犀星の紹介により同校の先輩である芥川龍之介を知り、文学的影響を受けます。
 関東大震災では九死に一生を得ますが、母を亡くしました。大正 十三年 (1924) 四月に父・松吉が隅田公園の新小梅町8番地 (現在の向島1丁目7番) に住居を新築し、辰雄が結婚して軽井沢へ赴く昭和十三年 (1938) まで父と共にそこで暮らしました。辰雄の夫人多恵氏は随筆「蓮の花」の中でこの家を懐かしみ、「あの竹の植わっていた小さい玄関ー辰雄はそんな自分の家を『雀のお宿』と呼んでいた」と記しています。
 人生の過半を向島で過ごした辰雄は、「墓畔の家」や『幼年時代』などの作品に、当時の墨堤や近隣の寺社の様子を記しています。「神社の境内の奥まったところに、赤い涎(よだれ)かけをかけた石の牛が一ぴき臥(ね)てゐた。私はそのどこかメランコリックな目(まな)ざしをした牛が大へん好きだった。」(『幼年時代』)とあるのは、牛島神社境内の撫牛のことです。
 昭和初期の文学の傑作として高い評価を受けた『聖家族』をはじめ、『風立ちぬ』『美しい村』など愛や生死をテーマとする作品を残し、昭和二十八年(1953)に没しました。


明治天皇行幸処・水戸徳川邸旧址の碑


隅田公園水戸邸跡由来記

 コノ地ハ江戸時代 水戸徳川家下屋敷 小梅別邸ガ置カレタトコロデアル
 徳川御三家ノ一ツデアル水戸家ガ オ浜屋敷 中央区ニ替エテコノ地ヲ賜ッタノハ 元禄六年 一六九三年 
 三代綱條公ノ時デアル 屋敷ハ西ハ隅田川ニ面シ南ハ北十間川ヲ巡ラシ 面積オヨソ六万六千平方メートル 約二万坪 南北二百メートル余 東西約三百メートルニワタリ南ニ広ガル梯形ノ地デ 現在ノ向島一丁目ノホボ大半ヲ占メ 墨田区南部ニ置カレタ大 小名屋敷八十余ノウチデ最大ノ規模ヲ誇ルモノデアッタ
 コノ屋敷ハ 現在後楽園ノ名ガ残ル小石川本邸 駒込別邸 イズレモ文京区 ノ控トシテ 従者デアル蔵奉行 
 水主 鷹匠ノ住マイナドニアテラレ マタ西側ニ接シタ一角ニハオ船蔵ガ置カレ 水戸家所有ノ船 材木ナドガ保管サレテイタ
 弘化元年 一八四四年 烈公トシテ知ラレル九代斉昭公ガ藩政改革ノ一端カラ幕府ノ誤解ヲ招キ駒込別邸デ謹慎ヲ命ジラレタ際 改革派ノ中心デアリ高名ナ水戸学者デアッタ藤田東湖ガ責任ノ一班ヲ負イ蟄居ノ日々ヲ送ッタノモ コノ屋敷内ノ長屋デアッタ
 ヤガテ明治維新トナリ 十一代昭武公ノ代ヲ以テ藩制度ハ解消 一時政府の管理スルトコロトナッタモノノ 爾後 改メテ水戸家本邸ガ置カレ 明治八年ニハ 
 明治天皇 同二十五年ニハ 昭憲皇太后ノゴ訪問ヲ受ケタ シカシ大正十二年九月 関東大震災ノ劫火ニヨリ烏有ニ帰シ 二百三十年ニ及ブ水戸屋敷ノ歴史ハココデ閉ジタノデアル
 昭和六年 帝都復興計画ニ基ヅキ隅田公園ガ造営サレルト 水戸邸ノ旧跡ハ同園ニ取リ入レラレ 往時ヲシノブヨスガヲソノ一角ニトドメ 広ク市民ノ憩イノ場トナッテイタ  シカシソノ後 半世紀近イ歳月トトモニ環境ハ変化シ マタ第二次大戦ノ戦火ノ被害モアリ ソノ面影モオオカタ失ワレタ
 昭和五十年 コノ公園ヲ管理スルコトトナッタ墨田区ハ 同五十二年区制施行三十周年ヲ記念シテ改修ニ着手シ コノタビ昔日ノ風趣ヲ伝エル日本風庭園ヲ再現サセタ ココニ カッテノ水戸徳川邸ノ林泉ノ美ガ復元サレタコトヲ機会トシテ一碑ヲ建テ イササカコノ地ノ由来ヲ記シ 後世ニ伝エルモノデアル


ひょうたん池


水戸街道(言問い通り)

上が水戸街道(言問い通り)
したをくぐって反対側(北側)へ




魚釣り場


隅田川七福神散歩

みっけ♪



出入口











◆牛島神社



 牛嶋神社は、元来弘福寺の西隣(向島五丁目)に所在しましたが、関東大震災後、帝都復興計画事業に伴い区画整理が実施された際、当地に遷座しました。その際新築されたのが、現在の社殿と神輿蔵です。
 ①墨田区登録有形文化財牛嶋神社社殿」
 本殿、幣殿、拝殿から成る木造複合社殿で、地元の棟梁石川梅吉によって建築され、昭和七年(1932)に竣工し最輿に位置する本殿は入母屋造・銅板瓦棒葺 (正面三間、側面三間)で、組物は禅宗様を基調としています。板支輪や慕股等に亀や鯉、驚などの彫刻が施されており、全体的に装飾性が高い建築となっています。
 また、中央に位置する拝殿は両下造・銅板瓦棒葺(正面三間、側面五間)、最前に位置する拝殿は入母屋造・銅板瓦棒葺 (正面七間、側面四間)となっており、拝殿正面にはそれぞれ三間の向拝と千島破風が取り付けられています。
 この建物の特徴は、基礎に亀腹を捧すコンクリート造の布基礎です。これは、地震による建物倒壊の危険を緩和する効果をねらったものと考えられます。
 ②墨田区登録有形文化財牛嶋神社神輿蔵」
 境内東辺縁部に建てられています。正面二間の切妻造妻入の建物の両側に、幅五間の切妻造の建物が接続した鉄筋コンクリート造の建物です。昭和初期の建物とみられています。
 この建物は、参道から見る外観を木造瓦葺風に仕立てることで境内景観の統一を図る一方、耐震·耐火性も合理的に満たすよう工夫されたことがうかがわれます。
 これら二つの建物は、伝統的な建築形式に近代技術を調和させた優れた近代神社建築と評価され、平成三十年十一月八日に墨田区登録有形文化財に登録されました。


江戸・東京の農業 浮島の牛牧(うしまき)

 文武天皇(701〜704)の時代、現在の向島から両国辺にかけての牛島といわれた地域に、国営の牧場が設置されたと伝えられ、この周辺もかつては牛が草を食んでいたのどかな牧場で、当牛嶋神社は古代から牛とのかかわりの深い神社であったといえます。
 大宝元年(701)、大宝律令で厩牧令が出され、平安時代までに全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、天皇の意思により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置され、この付近(本所)にも官牧の「浮嶋牛牧」が置かれたと伝えられています。
 時代は変わり江戸時代、「鎖国令」が解けた事などから、欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増えることとなりました。
 明治19年東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、本所区の太平町、緑町、林町、北二葉町と、本所でもたくさんの乳牛が飼われるようになりました。とりわけ、現在の錦糸町駅前の伊藤左千夫「牛乳改良社」や寺島の「大倉牧場」は良く知られています。


烏亭焉馬「いそかすは」の狂歌



いそかすは(がずば) 濡れまし物と 夕立の あとよりはるる 堪忍の虹 談洲楼烏亭焉馬
この狂歌碑は裏面にあるとおり、初世烏亭焉馬自身が文化7年(1810)に建てた碑です。江戸落語中興の祖と称された烏亭焉馬は本名中村利貞、字は英祝、通称は和泉屋和助です。寛保3年(1743)生まれ、本所相生町5丁目(現緑1丁目)の大工の棟梁で狂歌や戯文をよくする文化人としても有名でした。談洲楼の号は五世市川団十郎と義兄弟の契りを結んだことから団十郎をもじったもの、また竪川に住むことから立川焉馬、職業が大工であることから「鑿釿言墨曲尺」とも号しました。
元禄時代にはひとつの話芸として確立した落語もその後衰えていましたが、天明4年(1784)に向島の料亭武蔵屋において、焉馬が自作自演の「噺の会」を催し、好評を得たことから江戸落語が盛んになっていきました。寛政末年頃には現在の落噺の形が完成し、明治に入って落語という呼び方が定着しました。
文政5年(1822)80歳で亡くなり、本所の最勝寺に葬られました。(現在は寺・墓共に江戸川区平井に移転)


楽殿

左側の建物。


鳥居











言問橋

下は墨田川。






碑があったが文字がだいぶ薄くて文字化を断念。


『「言問」という名称は在原業平の詠んだ、
名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
という歌に因むといわれている[7]。しかし、実際にこの業平の故事があったとされている場所は現在の白鬚橋付近にあった「橋場の渡し」でのことであり、言問橋近辺には地名としては存在していたわけではないため、多くの説がある。
有力な説としては、1871年明治4年)の創業でこの地に現在もある言問団子の主人(もとは植木職人の外山佐吉(1817年~1886年)という人物)が団子を売り出すにあたって、隅田川にちなむ在原業平をもちだして「言問団子」と名づけ、人気の店となったことからこの近辺が俗に「言問ケ岡」と呼ばれるようになり、それにあわせて業平を祀ったことに由来するというものがある』
言問橋 - Wikipedia












常泉寺



 慶長元(1596)年に牛島村の草創者の一人である高橋新右衛門が開基、弟の仙樹院日是贈上人が開山した日蓮正宗の寺院。
 江戸中期に六代将軍家宣公 (在職1709~12)の御台所·天英院殿が帰依し、寺料30石が給されるようになり繁栄。この時期に大伽藍を築き、境内には本行坊、本種坊、本住坊の三つの塔頭があった。
 嘉永6(1853)年には、島津斉彬公が十三代将軍家定公(在職 1853~58)の御台所となる養女、篤姫の輿入れ成就を祈願している。当時、隣地
水戸藩下屋敷で幕府からは葵御紋の使用を許され、高い格式を誇っていた。
 篤姫は輿入れ直前に天英院殿の生家で境内に墓所もあった近衛家と養子縁組しており、これが縁で落飾して天障院殿となった後も篤い信仰を寄せている。
 昭和3(1928)年、言問橋の完成に伴い、言問通りが境内の中央を横切ることになり、国は代替地を提案してきたが、古刹としての歴史を重視し、寺域を縮小して現在地にとどまった。
 境内には江戸の儒学者で医者の朝川善庵の墓やドイッなど海外で研究を重ね、日本で初の薬学博士となった尾張犬山藩士、下山順一郎の記念碑などがある。


朝川善庵墓



 朝川善庵(ぜんあん)(1781~1849)は江戸後期の儒学者です。名は鼎、善庵は号です。天明元年(1781)、片山兼山の末子として江戸に生まれますが、早くして父を亡くし、母の再嫁先の医師朝川黙翁の姓を名乗り主す。山本北山に学び、黙翁に伴われ京阪へ遊学しました。さらに寛政十年(1798)、長崎に赴きその後南九州にも遊歷します。平戸藩松浦家の厚遇を受け、弘化三年(1846)には将軍にも謁見し名を高めました。清国の船が下田に漂着した際には代官江川氏に招かれ清人と筆談したこともあります。嘉永二年(1849)六九歲で没しました。

※片山兼山
『片山 兼山(かたやま けんざん、1730年(享保15年) - 1782年5月11日(天明2年3月29日))は、江戸時代中期の儒学者。兼山は号。名は世璠(せはん・せばん)。字は叔瑟。通称は東造。一字姓により山世璠とも名乗った。
当初は徂徠学派に属したが、独立して折衷学派の創始者の一人となった。その学問は「山子学」(さんしがく)と呼ばれ、門人は「山子学派」と呼ばれる。 』
片山兼山 - Wikipedia

※朝川黙翁
『朝川黙翁(読み)あさかわ もくおう
?-1814 江戸時代後期の医師。
代々安芸(あき)広島藩主につかえる家に生まれたが,弟に家督をゆずる。のち江戸で活躍した。養子朝川善庵は儒者として著名。文化11年死去。本姓は平井。名ははじめ信,のち順徳。字(あざな)は子順。通称は寛蔵。』
朝川黙翁とは - コトバンク

※山本北山
『山本 北山(やまもと ほくざん、宝暦2年(1752年) - 文化9年5月18日(1812年6月26日))は、江戸時代中期の儒学者折衷学派)である。
名は信有、字を天禧、通称 喜六、憙六、北山は号、別号に孝経楼主人、学半堂逸士、奚疑翁、竹堤隠逸などがある。』
山本北山 - Wikipedia












◆本行寺













◆遠藤商店

レトロな建築物だね!












堀辰雄住居跡



 堀辰雄は明治三十七年(1904)、麹町平河町(現在の千代田区平河町)に生まれました。二歳のとき、母に連れられ向島小梅町(現在の向島三丁目)に住む叔母の家に移りました。明治四十一年には母が彫金師上條松吉と結婚し、向島中ノ郷町三十二番地(現在のすみだ福祉保健センター所在地)で暮らしはじめます。新居は「曳舟通りに近い、或る狭い路地の奥の、新しい家」でした。そこは辰雄にとって「とりとめのない幸福を今の私にまでまざまざと感じさせる」大切な場所であり、辰雄のための小さなブランコが吊るされていた無花果の木や日あたりのいい縁側などがあったと『幼年時代』に記しています。明治四十三年の大水で新小梅町二ノ四(現在の向島一丁目十六番)に移るまで、この地で過ごしました。
 牛島尋常小学校を経て、府立第三中学校(現在の都立両国高校)を卒業した辰雄は、後に室生犀星の紹介により、同校の先輩である芥川龍之介を知り文学的影響を受けます。
 関東大震災では九死に一生を得ますが、母を亡くしました。大正十三年(1924)四月に父松吉が隅田公園裏の新小梅町八番地(現在の向島1丁目七番)に住居を新築し、辰雄は結婚して軽井沢へ赴く昭和十三年(1938)まで父と共にそこで暮らしていました。辰雄は松吉を慕い、同年十二月に松吉が亡くなるまで、彼を実父と信じていたようです。
 人生の過半を向島で過ごした辰雄は、「墓畔の家」や『幼年時代』などの作品に、当時の墨堤や近隣の寺社の様子を記しています。昭和初期の文学の傑作として高い評価を受けた『聖家族』をはじめ、『風立ちぬ』『美しい村』など愛や生死をテーマとする代表作を残しました。













続く。