南東に進み、10/24に通ったルートと重なる。
東京大空襲戦災犠牲者追悼碑はそのときに浮浪者がずーっとたたずんでいて写真が撮れなかった所。
◆池波正太郎生誕地碑待乳山聖天公園内
作家・池波正太郎(1923~1990)は、大正12年、旧東京市浅草区聖天町61番地に生まれました。
この年の9月に関東大震災が起こり、生家は消失してしまいましたが、その後も少年期・青年期を台東区で暮らしました。
昭和35年(1960)、「錯乱」で直木賞を受賞し、「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」などの人気シリーズをはじめ、時代小説の傑作をつぎつぎと生み出し、このあたりもたびたび舞台として描いています。
「大川と待乳山聖天宮」というエッセイでは、「生家は跡形もないが、大川(隅田川)の水と待乳山聖天宮は私の心のふるさとのようなものだ」と記しています。
生家は、待乳山聖天公園の南側(現台東区浅草7丁目3番付近)にありました。
猿若町は江戸役者の始祖猿若勘三郎の名に因んだ町名であり天保十三年(1842)以来、昭和四十一年(1966)十月住居表示制度の実施に到るまで続いた町名である。
1丁目に中村座、2丁目に市村座、3丁目に河原崎座(のち守田座となる)があって明治初期までは江戸歌舞伎を中心に華美殷賑を極めたわが国芸能文化の歴史に一頁を刻んだ処である。
◆江戸猿若町市村座跡碑
天保期、1丁目に中村座、2丁目に市村座、3丁目に河原崎座(のち守田座となる)があってわが國始めての芝居町を形成していた。
これがいわゆる猿若三座である。猿若は江戸役者の始祖猿若勘三郎に因んだ甼名で江戸歌舞伎の王國としてこの地は華美を誇り、殷賑を極めたのである。
◆江戸猿若町中村座跡
中村座の定式幕(じょうしきまく)は、左から「白」「柿色」「黒」三色の引幕であった。
「白」は幕府から特に許されて中村座だけが使用していた。
◆旧浅草猿若町
この地はをの昔、丹波国(現在の京都府)園部藩主小出氏の下屋敷であった。天保十二年(1841)德川幕府は天保改革の一環として、この屋敷を公収し、その跡地に境町・葺屋(ふきや)町・木挽(こひき)町(いずれも現・中央区)にあった芝居小屋の移転を命じた。芝居小屋は、天保十三年から翌四年にかけて当地に移り、猿若町はできた。芝居小屋の移転とともに猿若町は、一丁目から三丁目にわけられ、ー丁目には中村座および薩摩座、二丁目には市村座および結城座が移った。そして、三丁目には河原崎座が移転してきた。このうち中村座、市村座、河原崎座が世にいう 「猿若三座」である。 町名は、江戸芝居の始祖といわれた猿若動三郎の名をとってつけたという。
江戸時代に歌舞伎は大衆に支持される一大娯楽となったが、幕府は風紀の乱れを恐れ様々な規制をもうけて、統制を強めてきた。老中・水野忠邦の「天保の改革」の際に芝居小屋廃止を打ち出すことになったが、遠山左衛門尉影元(選山の金さん)の「庶民の娯楽を奪うことは、却って人心の安定に役立たない」との献策を受け、日本橋周辺にあった幕府公認の芝居小屋を江戸城郊外に当たる当地へ強制移転させることにした。
1842年(天保十三年)当地に新しく芝居町が造られ、江戸歌舞伎の始祖である猿若勘三郎(のち の初代中村勘三郎)の名から「猿若町」と命名された。ここには芝居小屋、芝居茶屋、役者や芝居関係者の住まいなどが造られ、大勢の江戸の人々が「猿若三座」の歌舞伎や人形浄瑠璃を見物するため繰り出したと言われている。
のちに住居表示の実施により、1966年(昭和四十一年)浅草六丁目の一部となった。
◆東京大空襲戦災犠牲者追悼碑
戦災により亡くなられた方々の碑
隅田公園のこの一帯は、昭和二十年三月十日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。
第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区) に納骨された。
戦後四十年、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、 年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようと している。
いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの 貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、 この地に碑を建立した。
言問橋の縁石
ここに置かれているコンクリート塊は、1992年言問橋の欄干(らんかん)を改修した際に、その基部の縁石を切り取ったものです。1945年3月10日、東京大空襲のとき、言問橋は猛火に見舞われ、大勢の人が犠牲となりました。
この縁石は、当時の痛ましい出来事の記念石として、ここに保存するものです。
◆マーブル総業
10月24日にも写真を撮った。
ずっと昔の想い出があるお店。
続く。