◆言問橋
◆水原秋桜子の句碑
羽子板や 子はまぼろしの すみだ川
秋桜子
水原 秋桜子(みずはら しゅうおうし)、1892年(明治25年)~1981年(昭和56年)。
日本の俳人、医師・医学博士とのこと。
松根東洋城、ついで高浜虚子に師事。
花川戸公園
この花川戸公園は、昭和25年に台東区の公園として開設され長く親しまれてきた。
昭和62年度、花川戸公園は園内の歴史的事物を大切に護りながら、未来の人々にも愛され続けられる公園になるよう整備された。公園東側の池は、この地に伝わる一の塚伝説の舞台である姥ケ池を、公園の修景に配慮して表したものである。
また、広場に設置された模様や絵タイルは、台東区の代表的な自然地と、それに深く関わりながら人々によって育み見守られてきた文化的な事物を表している。
助六歌碑
ご存知歌舞伎十八番「助六」は、正徳3年(1713)二代目が初演して以来、代々の市川團十郎が家芸として伝えてきた演目である。この碑は九代目団十郎治作自筆の歌をきざんだもので、明治12年(1879)山谷仰願寺(ぎょうがんじ)境内に建立。昭和33年花川戸の池に移建された。
「助六にゆかりの雲の紫を阿陀の利剣で鬼は外なり 団洲」
姥(うば)ケ池跡
いわゆる石枕伝説の舞台となった姥ケ池は、今日その跡に碑を残すのみである。
昔、浅芽ケ原の一軒家に住んでいた老女。美貌の娘をおとりにして旅人に一夜の宿をかしては、寝込んだ所を石を落として殺し、身ぐるみはいでいた。その数999人。これを見た浅草観音は若衆に変化して訪れる。例のごとく手にかけてみれば、頭を砕かれて死んだのは自分の娘であった。
◆福寿稲荷大明神花川戸公園内
◆助六歌碑花川戸公園内
碑面には、
助六にゆかりの雲の紫を
弥陀の利剣で鬼は外なり 団洲
の歌を刻む。九世市川団十郎が自作の歌を揮毫したもので、「団洲」は団十郎の雅号である。
歌碑は、明治十二年(1879)九世団十郎が中心となり、日頃世話になっている日本橋の須永彦兵衛(通称棒彦)という人を顕彰して、彦兵衛の菩提寺仰願寺(現、清川1-4-6)に建立した。大正十二年関東大震災で崩壊し、しばらくは土中に埋没していたが、後に発見、碑創建の際に世話役を務めた人物の子息により、この地に再建立された。台石に「花川戸鳶平治郎」、碑裏に「昭和三十三年秋再建 鳶花川戸桶田」と刻む。
歌舞伎十八番の「助六」は、二代目市川団十郎が正徳三年(1713)に初演して以来代々の団十郎が伝えた。ちなみに、今日上演されている「助六所縁江戸桜」は、天保三年(1832上演の台本である。助六の実像は不明だが、関東大震災まで浅草清川にあった易行院(足立区伊興町狭間八七〇)に墓がある。
◆旧浅草花川戸一・二丁目花川戸公園内
本町は、昭和九年(1934)、この地にあった町を整理統合し誕生した。 浅草花川戸一丁目は、浅草花川戸町大部、同馬道町四丁目東部、同馬道团六丁目南側一部、山ノ宿町南隅を合した。浅草花川戸二丁目は、浅草馬道町六丁目 東部、同猿若町一丁目南側一部、同山ノ宿町大部からなった。
町名の由来ははっきりしないが、川や海に臨む地に戸を付けることが多いという。花川戸の地は、桜の並木あるいは対岸の墨堤に咲く桜など桜と隅田川に結びついていたので、この名が付いたのではなかろうか。
昭和四十年(1965)、住居表示の実施で浅草花川戸一・二丁目は、浅草の二文字を略しそのまま花川戸一・ニ丁目になった。
姥ヶ池は、昔、隅田川に通じていた大池で、明治二十四年に埋め立てられた。浅草寺の子院妙音院所蔵の石枕にまつわる伝説に次のようなものがある。
昔、浅茅ヶ原の一軒屋で、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって、天井から吊した大石の下敷きになって死ぬ。それを悲しんで悪行を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てたので、里人はこれを姥ヶ池と呼んだ。
続く。