2022/04/10 浅草散歩 01 竹橋/錦橋/神田西口商店街/神田駅/浅草駅/隅田公園/かわとはきものギャラリー

24時間勤務アケで浅草駅から東京メトロ日比谷線入谷駅まで散歩。








神田駅から銀座線に乗って浅草駅まで移動後、浅草駅北側エリアを散歩。





◆竹橋


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◆錦橋














◆神田西口商店街















◆神田駅

東京メトロ銀座線で浅草へ。














◆浅草駅



こちらは東武線の浅草駅。
















隅田公園

この時の日記とだいぶかぶる。
2019/10/30 02 三ノ輪橋・浅草散歩 05 池波正太郎生誕地碑/江戸猿若町守田座碑/江戸猿若町市村座跡碑/江戸猿若町中村座跡/旧浅草猿若町/東京大空襲戦災犠牲者追悼碑/マーブル総業 - ovanの社会科見学




山の宿の渡し



 階田川渡船の一つに、「山の宿の渡し」と呼ぶ渡船があった。明治四十年(1907)発行の「果京市浅草区全図」は、隅田川に船路を描き、「山ノ宿ノ渡、枕橋ノ渡トモ云」と記入している。位置は吾妻橋上流約二五〇メートル。浅草区花川戸河岸・本所区中ノ郷瓦町間を結んでいた。花川戸河岸西隣の町名を、「山ノ宿町」といった。渡しの名はその町名をとって命名。別称は、東岸船着場が枕橋橋畔にあったのにちなむ。枕橋は隅田区内現存の北十間川架橋。北十間川隅田川合流点近くに架設されている。
 渡船創設年代は不明。枕橋上流隅田河岸は、江戸中期頃から墨堤と呼ばれ、行楽地として賑わった。
 桜の季節は特に人出が多く、山の宿の渡しはそれらの人を墨堤に運んだであろう。したがって、江戸中期以降開設とみなせるが、天明元年(1781)作「隅田川両岸一覧図絵」はこの渡しを描いてない。


戦災により亡くなられた方々の碑

戦災により亡くなられた方々の碑
 隅田公園のこの一帯は、昭和二十年三月十日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。
 第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
 亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区) に納骨された。
 戦後四十年、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、 年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようと している。
 いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの 貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、 この地に碑を建立した。



 三社まつり・墨堤散歩は、参拝客でにぎわう浅草寺門前の仲見世を通り、浅草寺から墨田川、そして両岸にある桜の名所として有名な隅田公園を結ぶ桜橋までの約1.5㎞のみちのりです。下町の賑わいを楽しむ散歩道です。

隅田川浅草神社
 昭和40年(1965年)新河川法の施工で、岩淵水門から東京湾までを隅田川と定め、その名は正式な名称とされた。江戸時代、隅田川は荒川の別名であった。別名とはいえ、大川の俗称で親しまれていた。隅田川は江戸の行楽地として賑わい、江戸の水運にも大きな役割を果たした。とくに待乳(まつち)山山頂からの眺望は素晴らしく、江戸文人に称された。「浅草寺縁起」は、檜前浜成(ひのくまはまなり)・竹成(たけなり)兄弟が宮戸川(みやとかわ)(隅田川の古名)から観音像を拾得し、主人の土師中知(はじなかとも)邸に安置したと伝えている。浅草寺創建である。3人はその功で、神として三社神社に祭られた。三社神社は現在浅草神社という。その社殿は国の重要文化財に指定。江戸初期の代表的な権現造りである。














◆かわとはきものギャラリー

やっぱり今回も中へは入らなかった。
今度こそ!














続く。