2022/02/27 田原町散歩 01 浅草駅/駒形堂/駒形橋/田原公園/久保田万太郎生誕地/紙漉町跡/本社三島神社

24時間勤務アケで、東京メトロ銀座線浅草駅から、東京メトロ丸の内線淡路町駅まで散歩。





浅草駅南西側エリアを散策後、東京メトロ銀座線田原町駅方向へ向かう。



◆浅草駅

スタートの東京メトロ銀座線浅草駅。












◆駒形堂



 『浅草寺縁起』によると、創建年代は朱雀天皇の天慶五年(942)で、建立者は安房平公雅。名称由来には、
 ①隅田川を舟で通りながらこの堂を見ると、まるで自駒が馳けているようなので、「駒馳け」の転証。(『江戸名所図会』)
 ②観音様へ寄進する絵馬を掛けたので「駒掛け堂」と呼んだのが靴る。(『燕石雑誌』 )
 ③駒形神を相州箱根山から勧請したのにちなむ『大日本地名辞典』)
これらの説がある。本尊は馬頭観世音菩薩
 葛飾北斎安藤広重らによって、堂は絵に描かれた。小さくとも、江戸で名高い堂だった。当時の堂の位置は現駒形橋西詰道路中央付近。堂は関東大震災で焼けた。



 駒形堂は、浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩さまが四百年前、隅田川よりご示現なされ、はじめて奉安された地に建つお堂。
 昔、この辺りは船着き場で、渡しや船宿もあり大変な賑わいをみせ、船で浅草寺参詣に訪れた人々は、まずこの地に上陸して駒形堂をお参りして、観音堂へと向かった。
 このお堂のご本尊さまは馬頭観音さまで、今も昔も、この地を行き交う人々をお守り下さっている。
 現在のお堂は平成十五年に再建されたもの。
 今もこの地はご本尊ご示現の聖地として、人々の篤い信仰に支えられ、毎月の十九日の馬頭観音さまのご縁日には、多くの参詣者で賑わう。
馬頭観音さまのご真言…「おん あみりとどはばうんはった」


浅草観音戒殺碑(あさくさかんのんかいさつのひ)



 駒形堂は浅草寺の伽藍の一つで、浅草寺本尊の聖観世音菩薩が隅田川から 発見された霊地である。こ の ため元禄五年(1692)、当地を魚鳥殺生禁断の地とする法度が出された。これを記念して、翌年(元禄六年)浅草寺第四世権僧正宣存が願主となり、戒殺碑が建てられだ。 殺生禁断の範囲は駒形堂を中心に、南は諏訪町より北は聖天岸に至る十町金余 の川筋だ った。『御府内備考」によると、諏訪町聖天町にも高札が建てられたという、戒殺碑が建てられた駒形堂の堂宇は、江戸時代に何度か焼失している。戒殺碑も倒壞し、宝暦九年(1759)に堂宇とともに再建された。
 現在の碑は関東大震災後の昭和二年(1927)に土中より発見され、同八年の駒形堂再建と同時に修補されたものである。元禄当初の碑か、宝暦再建のものか定かでない。
 碑身は石造(安山岩)で、長方形円頭板状。 正面及び両側面を研磨し、背面は野面のままである。台石は昭和八年修補時のもので、上面正面。両側面,背面の五面を研磨し てある。 総高183.5cm、正面幅61cm。銘文は『浅草寺誌』や『江戸名所図会』にも収載される。元禄期当時の信仰及びその周辺の状況を明らかにする貴重な資料である。












◆駒形橋

下は墨田川。






 駒形(こまかた)の名は、浅草寺に属する駒形堂に由来する。土地の人々によれば、コマカタは清く発音して、コマガタと濁らないと伝えている。
 ここは古来、交通の要地で、”駒形の渡し”のあったところである。
 江戸の巷説に有名な、
  君はいま 駒形あたり ほととぎす
 の句は、文芸・美術などの上で、駒形堂とともに、この辺りの雰囲気を伝えるものである。
 関東大震災(1923年)の後、復興事業の一環として、この地に新しく、優美なアーチ橋が設計され、昭和二年(1927年)に完成した。
 歌人正岡子規の和歌にも、
  浅草の林もわかず 暮れそめて
   三日月低し 駒形の上に
というのがあり、当時の景況がしのばれる。


近くにあった地図










◆田原公園

近くのコンビニで朝ごはん買ってここで食べた。










久保田万太郎生誕地

  ふるさとの 月のつゆけさ 仰ぎけり
 久保田万太郎は明治二十二年(1887年)十一月七日此地に生まれ 市立浅草尋常小学校へ入学 府立三中に学び大正三年(1914年)慶應義塾大学文科を卒業し 十月移転する迄の二十六年間在住した
 昭和三十八年(1963年)五月六日永眠するまでの明治 大正 昭和の三代に亘り 常に下町の義理と人情を描写した小説 戯曲の作品多く 其他文学 演劇界に多大の功績を残した作家であった 此の生誕の地に有志相はかり句碑を建立して永遠に久保田文学を讃えたい










◆紙漉町跡



 この付近は、江戸時代、紙漉町といい江戸における最初の紙漉きが行われた場所である。江戸時代を通じて盛んに製紙業が行われ、その産紙は浅草紙と呼ばれて土地の特産物だった。
 延宝四年(1676)版の『江戸絵図』には田原町一丁目の西側の道に「かみすき丁」と記され、貞享四年(1687)刊『江戸鹿子』にも「紙すき町」の名が見える。また、安永二年(1773)に成立した『江戸図説』によると、田原町のほかに橋場・鳥越や足立区千住方面でも生産されていたという。
 明治時代になると、浅草紙の製造工場は橋場や南千住の方に移り、浅草付近では作られなくなる。わざかに紙漉きの名残をとどめているのは、以前山谷堀に架かっていた「紙洗橋」の名の交差点表示である。
 浅草紙は、不要になった古紙を手で漉き返して再利用する、今でいうリサイクルペーパーである。










◆本社三島神社











続く。