2022/04/10 浅草散歩 04 正法寺橋/合力稲荷神社/山谷堀橋/正岡子規の句碑/浅草警察署/浅草富士浅間神社/富士幼稚園

正岡子規の句碑の場所から山谷堀公園を離れて馬道通りを南下。
一葉桜・小松橋通りにぶつかったら通りを西へ。






正法寺





酉の市

 毎年11月の西の日、午前零時に打ち鳴らされる「一番太鼓」を合図に、終日執り行われる祭礼。11月最初の西の日を「一の西」と呼び、以下 「二の西」 「三の西」 という。
 各地で開催されているが、台東区では千束の鷲神社と長国寺で行われ、 全国的にも有名である。東側に新吉原の遊郭があり、西の市の日には、通常は閉ざされている大門以外の門を開いて、遊郭を開放したといわれ、江戸時代から盛況であった。
 西の市は当初、実用的な農具としての熊手を売る市であったが、熊手は幸運や財産を「かきこむ」 ことから、緑起物として商売繁盛開運の御守として尊ばれてきた。その他の縁起物として、人の頭に立つように出世できるようにと「八頭」 や、金色の小判に似以ていることから「黄金餅」といわれた粟餅があった。
 なお、「西の市」は転じて 「西のまち」 とも呼ばれていた。













◆合力稲荷神社



御祭神       保食神(ウケモチノカミ)
創建        永禄年中(一五五六~)良法院護持
緣起        当社は永禄年中 山谷村百姓一同にて鄉中鎮守として奉斎
御祭神は生活の基をなす食を司る神として御神威を発揚され四百数十年に亘り度庶民の信仰を集め尊栄を見守る
馬頭観音合祀    寬文三年(一六六三) 四代将軍家綱
日光社参の砌 御乗馬 名馬【荒波】千住宿にて死亡依って当社に於いて荒波馬頭として是を奉る
将軍の愛馬を祀る縁により敷地六十坪は除地となって年貢は免除となる
日本堤の土手下に有り「土手のお稲荷さん」として江戶時代より現在に至るまで多くの人々に崇められる
境内には江户時代随一の力持ち「ミノ宮卯之助の力石」が奉納されている


三ノ宮卯之助の力石




 力石は、「力比べ」や「曲持ち」を行うときに用いられた石である。江戸時代には、神社の祭礼などで力と技を競った。持ち上げた石には姓名などが刻まれ、寺社に奉納された。江戸時代後期には、職業的な力持ち力士による興行も行われるようになった。
 この力石は、江戸時代後期に奉納されたと推定される。高さ九三センチメートル、幅八○センチメートル、奥行き四八センチメートルの自然石である。石には、三ノ宮卯之助、足持石、数名 の世話人の名が刻まれている。
 三ノ宮卯之助(1807~54)は、現在の埼玉県越谷市三野宮に生まれ、力持ちを見世物とした一座を結成し諸国を巡業した。嘉永元(1848)年六月の「力持番付」(山梨県立博物館蔵) には、当時の最高位である東の大関としてその名が記されており、卯之助の名が刻まれた力石は関東地方を中心に長野県、大阪府兵庫県にも分布していることから、著名な人物であったと考えられる。卯之助は仰向けになり力石を足で差回す「曲持ち」や、馬一頭を乗せた小舟を持ち上げる技を得意としたといわれ、「足持石」と刻まれてSるこの石も、足も使って持ち上げたことが推測される。
 境内にある力石の由来は明らかではないが、江戸時代の信仰や娯楽の一端を知ることができる資料として、地元の浅草馬三町会により大切に保存されている。


近くにあった地図













◆山谷堀橋



山谷堀

 かつて山谷堀は、北区王子の音無川を通り隅田川に流れる水路だった。 遊郭が新吉原に移転した後、当時の江戸の人々にとって、潜牙用に乗って山谷堀を通り、吉原の遊郭へ遊びに行くことは、大変製沢であった。
 その後、山谷堀は、 経済成長に伴う水質汚濁と悪臭が問題となり、東京都により昭和51年(1976)頃から暗渠化された。 掲載写真は、 暗果化される前の山谷堀の様子である。昭和52年(1977) 以降、台東区が上部を公園に整備し、山谷堀公園となった。














正岡子規の句碑

「牡丹載せて今戸へ歸る小舟かな」














◆浅草警察署

帰ってからビックリしたのだが、ちょうどこの写真を撮った時、署内は大混乱していたんだろうね(汗

https://www.asahi.com/articles/ASQ4B5QYDQ4BUTIL00R.html

https://www.yomiuri.co.jp/national/20220410-OYT1T50164/














◆浅草富士浅間神社



浅間神社
 浅間神社は、富士山への信仰に基き勧請された神社で、神体として『木造木花咲耶姬命坐像」を安置する。
 創建年代は不明だが、『浅草寺志』所収「寬文十一年江户給図」に表記があり、江戶時代初期の寛文十一年(一六七一)までには鎮座していたようである。 現在の鎮座地は、 約二メートルほどの高みを成Lているが、中世から江户初期にかけて、関東地方では人工の塚、あるいは自然の高みに浅間神社を勧請する習俗があったとされてお
もくぞうこのはなさめのみことざぞり、 ものと思われる。当神社の立地もそうした習俗に基づくものと思われる。
 江戶時代には浅草寺子院修善院の管理のもと、修験道による祭祀|が行われ、江户を代表する富士信仰の聖地として、各所の富士講講員たちの尊崇を集めた。明治維新後は浅草寺の管理を離れ、明治六年には浅草神社が社務を兼ねることとなり、 現在に至っている。
 本殿は、平成九十年の改修工事によって外観のみ新たに漆喰塗がほどこきれたが、内部には明治十一年建築の土藏造.本殿が遺されている。さらに、この改修工事に伴う所蔵品調查により、江戶時代以来の神像,祭祀用具,古文書なが大量に確認された。
 これら、本殿,諸資料群,境內地は、江戶時代以後の江户,東京における富士信仰ありさまを知る上で貴重であり、平成十一年三月、台東区有形民俗文化財に指定された。|祭礼は、每年七月一日の「富士山開き」が著名で、また、五.六月の最終土,日曜日には植木市が開催されている。

浅草富士浅間神社三好町
 富士の山に似た小高い丘に勧請されたとされる当社は、元々は現蔵前の地である旧浅草三好町十番地に富士権現として鎮座されていたが、江戸時代元禄年間(一六八八~一七〇三)に幕府の命により現在の地に遷座されたと云われている。
 この三好町とは、『新選東京名所図会 浅草区之部』に「浅草三好町。東は駒形河岸の南端に接し、西は電車路線を隔てて黒船町の一部に八幡町の一部に対し。南は南元町の北端に面し、北は黒船町の一部に隣れり。 地勢は平夷にして。土地の番号は一より十に至る。」と記されており、現在の蔵前二丁目周辺と考えられる。
 更に同書に依れば、「三好」とは「 船首 ( みよし ) 」からの当て字とされており、この地一帯が地域における重要な御厨河岸であった事を表しているのであろう。
 旧三好町自体は、時代の趨勢によりその名称が途切れているが、元禄年間以前からの同権現社の氏子であり、現在地へ遷座以降も、永きに亘り同じく当社の氏子として御祭礼に奉仕されると共に、今も尚その護持運営に格別なる御尽力を頂いている。



浅草富士



楽殿














◆富士幼稚園



復興記念碑
昭和20年東京大空襲で赤レンガ校舎は焼けてしまいました。戦争が終わったあと、子供たちは、歯ブラシやせっけんを売って建てなおすお金を集めました。昭和24年、念願の復興赤レンガ校舎ができたのをお祝いしてつくられたのがこの石碑です。

里帰りのタマスダレ
1970年頃、赤レンガ校舎から今の校舎に建て替えられました、当時、富士小にいた●●先生は工事でぬかれていく草木を惜しみ、タマスダレをご自宅に持ち帰り、大事に育てました。それから30年たった100周年の時、●●先生はタマスダレを富士小にもどしてくださいました。
秋に白い素敵な花を咲かせます。













続く。