2021/11/18 高円寺散歩 01 氷川橋/長善寺/福寿院/杉並区立第八小学校跡/宗泰院/松応寺/西照寺

休み。
高円寺南側エリアを散歩。




◆氷川橋

下は桃園川。












◆長善寺

門が閉じていたので外からお参り。



 当寺は如法山と号する日蓮宗の寺院で、本尊は十界諸尊と日蓮聖人坐像です。寺伝によれば天正18年(1590)、円立院日義によって江戸府内の谷中(現台東区谷中)に開創され、はじめは実蔵坊と称していましたが、2世長善院日行の時に現在の寺号になったと伝えられています。
 その後、5世日成の時代に谷中本村(現荒川区東日暮里)の地に移転しています。しかし、近代に入り国鉄線路拡張のために再び移転をよぎなくされ、大正15年に高円寺の寺町の一角を占める現在の地に移りました。昭和20年末、火災で堂宇を焼失し現在の本堂は昭和34年再建されたものです。
 本堂左手前の三十番神堂は『新編武蔵風土記稿』に谷中本村の鎮守と記載されているもので、天保4年(1833)再建の古い建物です。堂内には法華経を守護するという30体の番神が祀られていますが、当寺のように三十番神像が全部揃っているのは都内でも珍しいといわれます。
 文化財としては江戸時代からすでに知られていた十羅刹女像・毘沙門天像が安置されているほか、鬼子母神像や板碑も所蔵されています。
 なお、墓地には徳川幕府の鍛金打物師として名高かった家城源七(文化13年<1816>没)の墓があります。











◆福寿院



 当院は、祥雲山と号する曹洞宗の寺院です。
 本尊は、像高46cmの金銅釈迦如来像(江戸期)で杉並区内においてはたいへんめずらしい「金銅仏」です。
 江戸時代の「御府内備考続編」には、当寺の起立は不詳としながらも天正十九年(1591)に境内地を拝領したのを開創としています。一方明治10年の「寺院明細帳」には、明確に慶長十九年(1614)四月を開創としており、何等かの根拠に基づいているようですが、くわしいことは明らかでありません。寺伝によれば開山は雪底春積(寛永四年1627年寂)と伝えられ、徳川幕府創業に功績のあった伊賀藩士の慰霊のために、同藩士の三浦氏等12人が開基となって開創したとされています。
 当院は、「文政寺社書上」によると、麹町13丁目(現新宿区四谷2丁目)に境内拝領地549坪を持ち、間口8間半奥行5間の本堂と、他に鎮守堂、薬師堂が建てられていました。明治四十年4月区画整理のため現在地にに移りました。現本堂は、昭和十一年類焼で失い昭和三十九年再建されました。文化財として、地蔵菩薩立像(江戸初期)地蔵菩薩半跏像(江戸初期)などがあります。
 本堂の裏に「東京都指定旧跡(昭和十五年二月指定)」となっている「渓斎池田英泉之墓」があります。英泉(1790~1848)は江戸星ヶ岡(現千代田区永田町)に生まれ、多くの美人画、絵本や木曽街道69次などの風景画を描いた、江戸時代後期の代表的な浮世絵師でした。













◆杉並区立第八小学校跡

工事中だった。
マンションにでもなるんだろうか。
左側に写っている特徴的な木はうちのマンションから見える木だ。












◆宗泰院



 当寺は山号を永昌山と号する曹洞宗の寺で、本尊は釈迦牟尼仏です。寺伝によれば、嘯山春虎和尚が天正十二年(1584)、麹町表四番町(現千代田区四番町)に草庵を結んだのが始まりといわれています。開山は小田原万松院の格峰泰逸和尚で、文禄二年(1593)に、幕府から寺地の寄進を受けて、堂塔を整えました。
 その後、元和二年(1616)に至り、寺地が旗本の屋敷地と定められたため、市ヶ谷左内坂に境内地を拝領して移転、寺院の取締りにあたる市ヶ谷組寺院触頭を命ぜられています。
 当寺の檀家は旗本・御家人尾張藩士などの武家350家とその出入商人などで、本堂・開山堂・客殿をはじめ、武家檀家参詣のための供待ち部屋・槍小屋・馬小屋など十六棟の伽藍を有する旗本寺として隆盛を誇ったといわれています。
 明治維新の変動により当寺も一時、寺勢が衰えましたが明治二十年代には復興し、明治四十二年、陸軍士官学校の校地拡張のため寺地を買収され、現在の地に移転しました。
 宝暦七年(1757)建立の本堂、寛延三年(1750)建造の開山堂は、そのまま移築したもので、江戸中期建造の開運弁天堂(尾張藩主の持仏堂といわれる)とともに区内有数の古い建造物です。
 なお、当寺には他に類をみない乳房を嬰児にふくませている木彫の「子授け地蔵尊」が安置されているほか、明治の俳人原月舟の句碑、幕末の名剣士すずきは無念流の始祖鈴木大学重明、相撲年寄松ヶ根・東関の墓などがあります。



奥まで入れなかったので調べてみた。

相模年寄松ケ根・東関の墓
『松ヶ根(まつがね)は、日本相撲協会年寄名跡のひとつで、初代・松鐘が四股名として名乗っていたもので、その由来は定かではない。 』
松ヶ根 - Wikipedia


鈴木派無念流始祖鈴木大學重明記念碑
神道無念流(しんとうむねんりゅう)は、日本の剣術流派。宝暦年間(1751年 - 1764年)頃[1]に福井兵右衛門嘉平によって創始された。「立居合」という居合も含むが、実際に立居合も学んだ者は極めて少なく、免許皆伝に至った者でも大部分は剣術のみを修めた者であった。』
『岡田吉利は「撃剣館」という道場を開いた。岡田吉利の弟子に、岡田吉貞(2代目 岡田十松を襲名)、鈴木重明(鈴木斧八郎。のちに鈴木派無念流を開く)や斎藤弥九郎、金子健四郎、江川英龍藤田東湖渡辺崋山らがいる。岡田吉利以後は、吉利の子・岡田吉貞(2代目 岡田十松)が第4代となった。吉貞は岡田吉利や斎藤弥九郎を凌ぐ達人であったとされ、隠居後に斎藤の道場「練兵館」の客分となり、練兵館で指導にあたった。
第3代の岡田吉利の弟子であった斎藤弥九郎は、撃剣館師範代を務めた後、文政9年(1826年)に練兵館を開いた。斎藤を凌ぐ実力の岡田吉貞が、弟の岡田利章(3代目・岡田十松)に撃剣館と流儀を継承(第5代)させ、自身は練兵館の客分となって指導にあたった。練兵館は、千葉周作北辰一刀流)の玄武館桃井春蔵鏡新明智流)の士学館と並ぶ隆盛を誇ったといわれ、後に幕末江戸三大道場と言われている。
練兵館および斎藤家から諸藩への指導は、地方に一時的に滞在しての指導と、江戸の練兵館に入門した者への指導や諸藩の江戸藩邸での指導のみで、大村藩に召し抱えられた斎藤歓之助(後述)を除いて斎藤家から諸藩に正式に仕官した事例は無い。 』
神道無念流 - Wikipedia











◆松応寺



 当寺は、万寿山と号する曹洞宗の寺で、現在の本尊は聖観音坐像です。(戦火で本尊釈迦牟尼仏を消失したため)
寺伝によると明暦二年(1656)浅草八軒寺町(現台東区寿2丁目)に開創されました。
 開山は大松寺(現北区西ヶ丘1丁目)5世の悦州舜喜大和尚で、開基は雪岩長卯大和尚です。
 山門に掲げる万寿山の山号は江戸時代の高名な書家高玄融の筆になるものです。
 江戸時代の当寺は、与力・同心など武家寺として栄えていましたが、墓地が狭小なことから大正七年六月に寺院の維持発展のため、現在地に移転して来ました。
 当寺の歴史については、昭和20年の戦火で全焼し、本尊はじめ、寺宝・寺録などの全てを消失したため、詳細は、明らかではありません。
 現在の本尊は、禅宗様式の濃い仏像で、藤原時代の様式を模したと思われるふっくらした円満なお顔に特徴があります。
 なお、当寺には「農政本論」「経済要録」「開国要論」等の著者で江戸時代の農政学者佐藤信淵1850年歿)の墓があります。


願王殿


山門











◆西照寺



 当寺は普明山と号する曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来坐像です。寺伝によれば、日比谷村の漁夫が海中より拾い上げた阿弥陀如来を安置した御堂を、天正2年(1574)開山文竜和尚が一寺としたのが開創と伝えられています。
 その後、徳川家康の江戸入府による江戸城大築営のため、寺域は武家屋敷地となり、慶長十七年(1612)芝金杉(現港区芝1丁目)に移転しました。しかし寛永20年類焼にあい寺地は御用地となり、拝領した替地は狭くて本堂の再建も不可能なため、寛文五年(1665)に至って芝白金台町(現港区白金2丁目)高原寺持ちの地を買収して移り、寺を再興しました。
 この再興に力あったのが中興開基岡田豊前守善政で、以来当寺は代々岡田家の菩提所となっています。この後、当寺は観音堂・鐘楼堂等の堂宇も整え、江戸西方三十三観音の第26番札所ともなり、門前には町矢が並び大いに賑わったといわれます。
 慶応三年(1867)、当寺は倒幕派の放火によって伽藍を全焼しましたが、明治十年頃には復興しています。この再建された堂舎には明治二十年、明治学院に入学した島崎藤村が寄宿していたということです。
 永く御府内にあった当寺も、東京発展のなかで寺域が区画整理の対象となり、明治44年現在の地に移転しました。
 なお、当寺には室町時代末期の阿弥陀如来坐像、承応二年(1653)銘のとろけ地蔵、南町奉行所山村良旺や書家佐瀬得所の墓、江戸期建築の格式を持つ道了堂、心越禅師の山門額字書幅など多くの文化財が所蔵されています。


魔王殿


梵鐘


山門











続く。