2021/05/20 鐘ヶ淵散歩 07 東白髭公園/隅田川神社/木母寺/隅田ポンプ所/近代映画スタジオ発祥の地/白髭橋親水テラス

東白髭公園周辺を今度は南へ進んでいく。



◆東白髭公園

また、東白髭公園へ入る。



この現在地と書かれたところから上(西)へ向かって進む。


纏(まとい)

 


 纏(まとい)。それは、江戸時代において、火事といえば即、纏といわれ、纏のもとに総力を結集して、消火活動を行い纏が火を消したとまで言われていました。
 この公園は、大震火災時には、都民の安全を守る避難場所ともなっています。
 その安全をあらわすシンボルとして、ここに纏のモニュメントを建造しました。


東白髭公園サービスセンター


葛飾北斎

 雪景色の隅田河畔を描いた作品で、月の淀川、花の吉野と共に選ばれた三名所の一枚です。画面中央の森の中には木母寺と料亭「植半」、手前には水神社と呼ばれた隅田川神社を配し、厚い雪を積もらせています。当時はいずれも雪景色の名所と言われました。画面上下の濃い藍色が、夜が明け切らない早朝の印象を与えていて、静寂さとそこはかとない郷愁を感じさせる作品です。そして、静かな冬の朝の中にも舟で網を仕掛ける人や雪の中を行く二人の人物が描かれ、左下の都鳥らしき鳥たちもアクセントとなっています。文政末から天保初(1830)年頃の作品です。


隅田宿跡

 当地は、古東海道の渡河地で、平安時代の末頃には隅田宿が成立していたといわれています。
 隅田宿は、治承四年(1180)に源頼朝が布陣したと伝わる宿で(『吾妻鏡』)、元来は江戸氏など中世武士団の軍事拠点であったと考えられています。遅くとも南北時代までには人と物が集まる都市的な場が形成されたようで、歌人藤原光俊が詠んだという十三世紀中期の歌には、多くの舟が停泊してにぎわう様子が描かれています(『夫木和歌抄』)。
 また、室町時代成立の『義経記』には「墨田の渡り両所」と見え、墨田宿が対岸の石浜付近と一体性を有する宿であったらしいこともうかがえます。
 対岸との関係については今なお不明な点を多く残しますが、隅田川東岸部における宿の広がりについては、江戸時代の地誌に載る一部の伝承と絵地図が参考になります。それらを分析した研究成果によれば、所在範囲はおよそ図示したように想定されます。
 なお、人買にさらわれた梅若丸とその母の悲話を伝えた梅若伝説、そして罪業深い老母と娘の悲劇を伝えた石枕の伝説(一ツ家伝説)など、隅田川流域にはいくつか著名な伝説が残されました。この付近に成立した隅田宿は、そうした伝説を育む場でもあったようです。









隅田川神社


水神の森跡

 荒川の下流、鐘ヶ淵を越え大きく曲がったこの地は、隅田川の落ち口(終点)で、かつては鬱蒼とした森が広がっていました。人々からは水神の森とも浮洲の森とも呼ばれて親しまれていました。
 昔、ここから入江が始まり、海となっていたことから「江の口」、すなわち「江戸」の語源ともなったといわれています。
 水神の森は「江戸名所図会」にも描写されているとおり、川岸にあった水神社(隅田川神社)の鎮守の森でした。川を下ってきた人々は隅田川の入口の森として、川をさがのぼる人々にとっては鐘ヶ淵の難所が近いことを知らせる森として、格好の目印となっていました。
 その後、震災・戦災にも焼失を免れた森は戦後の開発で失われてしまい、隅田川神社自体も百メートルほど移されて現在地に鎮座しました。


三才稲荷神社/若宮八幡神社


粟島社/金神社/天神社


小祠/石亀像

左の小祠は何が祀られているのかわからなかった。
石亀塚には亀の像が祀られていた。
さらにその右に小さい祠がある。


石亀像のみの写真

上記の石亀像だけ写真を撮った。


力石


先客


楽殿


鳥居1


鳥居2









◆木母寺



木毋寺由绪浴革
 当寺は平安時代中期の貞元元年(976) 天台宗の僧、忠円阿闍梨が梅若丸の供養のために建てた念仏堂が起源で、梅若寺と名づけて開かれました。
 文治五年(1189)鎌倉時代源頼朝が奧州遠征の途中に参拝し、長禄三年(1459)室町時代太田道灌が訪れ、梅若塚を改修したと伝えられています。
 天正十八年(1590)安土桃山時代徳川家康が参拝し、梅若丸と塚に植えられた柳にちなみ「梅柳山」の山号が与元られます。
 慶長十二年(1607) 江户時代に前関白,近衛信尹が訪れ、柳の枝を筆代わりに「梅」の異字体「栂」を「木」と「母」とに分け書して以来、木母寺と改名されました。
 寛永年間、三代将軍,德川家光の時代には境内に「隅田川御殿」が建てられ代々の将軍が鷹狩りや隅田川遊覧の休息所として利用され、さらに将軍家に献上するための御前栽畑が作られました。
 明治元年(1868)神仏分離令に伴う廃物毀釈のあおりを受け梅若神社となりましたが、明治二十二年(1889)に寺院への復帰を果たします。
 昭和二十年(1945)に米軍の空襲を受けて本堂を焼失し、戦後に復興をとげますが、昭和五十一年(1976)都市再開発法に基づく東京防災拠点建設事業の実施により、現境内へ移転します。

梅若塚
 境内にある梅若塚は能,歌舞伎,謡曲,浄瑠璃等の「隅田川」に登場する文化的旧跡です。当寺に現存する寺宝絵卷物「梅若権現御緣起」(上中下の三卷から成り、高崎城主:安藤対馬守重治が延宝七年(1679)に寄進。墨田区登録文化財)には梅若塚の由来が描かれています。

梅若権現御縁起
 平安時代の中頃、京都の北白川に吉田少将惟房と美濃国野上の長者の一人娘、花御前という夫婦がおりました。
 二人には子供がなく日吉大社へお祈りに行きました。すると、神託によって梅若丸という男の子を授かることができたのです。
 梅若丸が五歳の時、父親の惟房が亡くなり梅若丸は七歳で比叡山の月林寺というお寺へ預けられました。
 梅若丸は塔第一の稚児と賞賛を受けるほど賢い子共でした。その賢さが災いしたのか比叡山では東門院にいる稚児、松若丸と、どちらが賢いかと稚児くらべにあい東門院の法師達に襲われます。彼らに襲われた梅若丸は山中をさまよったのち、大津の浜へと逃れました。
 そこで信夫藤太という人買いに連れ去られ東国へと向かいます。旅の途中、病にかかってしまった梅若丸は貞元元年の三月十五日、隅田川の湖畔で
       尋ね来て 問はば応へよ 都鳥
             隅田川原の露と消へぬと
と句を残し十二歳という若きで命を落としてしまいました。
 そこに通りかかった天台宗の僧である忠円阿閣梨は里人と塚を築き柳を植え弔いました。
 梅若丸が亡くなったあくる年、母は失除した息子を探し狂女となって東国へと向かいます。
 そしてちょうど一周忌の日に隅田川に至り渡し守より梅若丸の死を聞きました。
 大念仏を唱えると梅若丸の霊が現れ再会を果たしますが梅若丸の姿はすぐに消えてしまいました。
 母は墓の傍らにお堂を建立し妙亀尼となって、そこで暮らしますが悲しみのあまり鏡ヶ池に身をなげてしまいます。
 すると不思議なことに霊亀が遺体を乗せて浮かびあがりました。忠円阿闇梨はそこに母親の墓所をたて母を妙亀大明神として紀り梅若丸は山王権現として生まれ変わったとのことです。

隅田川
 謡曲隅田川」は世阿弥の息子、観世十郎元雅によって作曲きれました。梅若丸と狂女となった母親の悲話として伝わる梅若丸物語は室町時代より「層田川物」として能楽をはじめ浄瑠璃、歌舞伎、舞踊、謡曲などの演目として盛んに上演されてきました。
 この「隅田川物」を上演する際に、役者が梅若丸の供養と興行の成功ならびに役者自身の芸道の上達を祈念して「木母寺詣り」を行なったことから、芸道上達の祈願寺として大衆の
信仰を集めています。



木母寺境内之図『新選東京名所図会·隅田堤』
山本松谷画 木母寺蔵
木母寺境内之図は明治三十一年(1898)、梅若塚の再興から十年を経た風景です。春昼、俄か雨の中、傘をすぼめて足早に行く婦人を近景として絵の中央に梅若堂、右手に本堂、左奥に料亭、植半が描かれています。この絵の中の世界は昭和二十年四月の戦災をもって過去のものとなりました。そして、画中御堂(梅若堂)だけが、身に多くの爆弾弾片の傷跡を残しながら、時の証人として生き続けています。

木母寺の変遷
江戸時代、当寺では梅若忌(梅若丸を供養する大念仏の行事)や開帳がおこなわれ、多くの参拝者を集めていました。 また、幕府から寺領二十五石を与えられ歴代将軍将軍世子・公家・大名・文人など当代の貴顕とともに、一般庶民も多く訪れる隅田川遊覧の代表的な名所でした。時代が江戸時代から明治時代にかわると、廃仏毀釈により明治元年(1868) に廃寺し、寺の堂舎は取り除かれ跡地には梅若神社が創建されました。徳川家の庇護を失った梅若神社の経営は苦しく、存続の危機に陥りますが、多くの地域住民と政財界の有力者および文化人たちの支援を受け、明治二十二年(1889)に寺院への復帰を果たします。神社を再び仏寺にすることは、当時としては非常に困難な事業であり、当寺では、これを明治中興と称しています。その後も、昭和二十年(1945)四月十三日に米軍の空襲を受けて本堂・庫裏を焼失。さらに同月十五日に爆撃を受け、梅若堂や境内の石碑が大きな被害を被りました。昭和二十五年(1950)に仮本堂を建立し、二十七年(1952)に梅若忌が再開され今日に至ります。


謡曲隅田川」と木母寺

 謡曲隅田川」は、我が子の行方を尋ねさまよう母の悲劇をテーマにした狂女物の代表曲で、探し求めた我が子は既に亡く、その墓前で亡き子の霊の声のみ聞く哀れさは、本曲の圧巻である。
 梅若権現縁起に「梅若丸は吉田少将惟房卿の子、美濃国野上宿に生まる。母の名は花子五才で父を失い、七才の時比叡山に登り修学中、人買いに欺かれ、ここ隅田川原まで来たが病を得、貞永元年三月十五日此の地にみまかる。時に十二才、いまわの際の「尋ね来て問わば応えよ都鳥隅田川原の露と消えぬと」との詠歌を哀れんだ天台の僧忠円が里人と計り、一堆の塚を築き柳一株を植えて標とし跡を弔う。これが梅若寺の起源となる。慶長十二年(1607)梅の字を分けて木母寺と改名された」と書かれている。


境内の諸碑

「梅若塚」で知られる境内には、謡曲隅田川」の碑など、三○基の石碑があり、
 著名なものとしては次の諸碑があります。
◆華笠文京翁碑
幕末に出た劇作家花笠文京(魯助)の数奇に富んだ生涯を述べた碑で、弟子である仮名垣魯文が建てました。
◆天下之糸平の碑
高さ五メートル、幅三メートルを越す都内一の巨碑です。明治の初め、貿易で成功を収めた田中平八(通称天下の糸平)の石碑です。親交のあった政治家、伊藤博文の書です。
◆三遊塚
三遊亭円朝が先師初代円生追福のため、明治二十二年に建てた碑です。題字は山岡鉄舟。銘文は高橋泥舟の書です。
◆題墨田堤桜花(墨田堤桜花に題す)の詩碑
亀田鵬斎の作ならびに書で「長堤十里、白にして痕なし、訝しむ澄江の月と共に渾るに似たるを。飛蝶還り迷う三月の雪。香風吹き度る水晶の村」と読みます。銘文は九歳の少年、清水孝の書です。  文政十二年建立。


三遊塚



 初代円生(1765~1838)の追善供養と三遊派落語の隆盛を祈念して、三遊亭円朝が明治二十二年(1889)に建立されました。題字は「幕末の三舟」といわれた山岡鉄舟、裏の銘文は高橋泥舟の筆によるものです。



身代り地蔵尊



「身代り地蔵尊」の由緒
 この地蔵尊は、木母寺が旧地にあった頃、門前に安置されて多くの人々から深い尊信を寄せられ、民衆守護の願いを聞き届けられた、ゆかり深いお地蔵様です。
 そもそも地蔵菩薩は、常に六道(人間が転々とする六つの境涯)を巡り、人々の悩み、苦しみを察し、身代わりとなって下さるという「代受苦の菩薩」としての信仰が古くからあります。
 つらいこと、苦しいこと、悲しいことが起こった時には、このお地蔵様に訴え、「身代わり」をお願いして、あなた自身は元気を取り戻してください。


梅若堂



 この仏堂は明治の廃仏で一時、梅若神社とされた梅若塚が再び仏式に復帰した年、すなわち明治二十二年の建立になります。
 当寺一帯が全焼した昭和二十年四月の繊細にも焼失をまぬかれた唯一の仏堂ですが、その後の空襲で受けた爆弾々片による痕跡が所々に見られます。
 防災拠点内であるため木造建造物の在地は許可されず、覆堂内に納められることになりました。


梅若塚



「たづね来て 問わばこたえよ 都鳥 すみだ河原の 露ときえぬと」
の辞世で名高い梅若塚は中世からは能「隅田川」の文学的旧跡、また江戸時代には梅若山王権現の霊地として尊信されました。


天下之糸平の碑



 幕末から明治にかけて活躍した実業家、田中平八の石碑です。平八は横浜で生糸売込と洋銀売買で巨利を得て、「天下の糸平」ち呼ばれました。
 表面の文字を揮毫した伊藤博文は平八と親交があり、わが国初代の総理大臣です。碑の裏面には平八の生涯と平八と交友があった渋沢栄一など明治の政財界の知名人の名が列ねてあります。これらの人々は木母寺の明治再興(明治二十二年)に協力され、その縁で二年後に建碑されました。
 高さ5.2m、幅3m、重量80tある都内第一の石碑です。


山門









◆隅田ポンプ所









◆近代映画スタジオ発祥の地



 明治34年(1901年)フランスからシネマトグラフが輸入され、日本で映画の興行や製作が始まりました。ところが外国映画の質の高さに刺激され、本格的な劇映画の発展を目指そうと、明治44年(1911年)にエム・パテー商会、梅屋庄吉の提案で、吉沢商店 河浦謙一、横田商会 横田永之介、福宝堂 田畑健造など4社の合同で日本活動写真フィルム株式会社(日活)が設立され、大正2年(1913年)10月ここ隅田川畔の杉山茂丸氏の別荘地7500֥㎡に、向島撮影所が開設されました。川岸に広さ約900㎡の、天候に左右されずに撮影ができる、東洋一のグラスステージが建てられて、日本映画の質を飛躍的に向上させることができました。初期の作品であるカチューシャは大ヒットし「向島作品」の名を高めました。当時は女性の役は女形によって演じられ、カチューシャを演じた立花貞二郎や、後に監督になった衣笠貞之助女形でした。やがて女優が採用され、酒井米子が向島撮影所最初の女優となりました。ここは本格的な日本劇映画の発祥の地です。しかし大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊し、惜しくも向島撮影所は閉鎖されました。この間、およそ760本の作品が作られました。









◆白髭橋親水テラス



鯉のぼり♪









続く。