2022/02/07 本所吾妻橋散歩 10 墨田公園少年野球場/榎本武揚旧居跡/吉川英治旧居跡/羽子板資料館/さくらんぼ児童遊園/鳩の街通り商店街/依田學海旧居跡

鳩の街商店街周辺を散策。
少しずつ北上する。




◆墨田公園少年野球場



隅田川七福神散歩

 関田川七福神散歩は、管問橋から鐘ヶ淵駅までの約3.0Kmのみちのりです。向島百花園文人たちが知恵をしぼって揃えたという隅田川沿いの七福神や梅若伝説の未母寺などをめぐる、江戸庶民の正月の散歩道コースです。

墨田堤と隅田川七福神
 北十間川から綾瀬川のあたりまでの隅田川の提を、墨田堤(黒堤)と呼んだ。とりわけ墨田堤の名を知らしめたのは、 8代将軍吉宗の植えた桜から始まる桜並木であった。隅田川を眺めながらの桜のトンネルは江戸の花見の第一に目されていた。堤沿いに点在する神社仏閣とあいまって、 近郊行楽地としての向島は、 対岸の吉原と竹屋の渡し、隅田の渡しで結ばれ、文人墨客をはじめ注戸市中の人々に愛され、多くの文芸作品や芝
居の舞台にもなってきた。文人墨客の中心人物でもあった太田南畝・酒井抱一・佐原菊場等は向島百花園に伝わる福禄寿尊にちなみ、堤沿いに七福神を配し、基堤散策に一層の花を添えた。その伝統と情緒は今も残る。

※太田南畝
『大田 南畝(おおた なんぽ、寛延2年3月3日(1749年4月19日) - 文政6年4月6日(1823年5月16日))は、天明期を代表する文人狂歌師であり、御家人。 名は覃、字は子耕、南畝は号である。通称、直次郎、のちに七左衛門と改める。別号、蜀山人、玉川漁翁、石楠齋、杏花園、遠櫻主人、巴人亭、風鈴山人、四方山人など。山手馬鹿人、も別名とする説がある。狂名、四方赤良。また狂詩には寝惚先生と称した。法名は杏花園心逸日休。
勘定所勤務として支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚であった一方で、文筆方面でも高い名声を持った。膨大な量の随筆を残す傍ら、狂歌、洒落本、漢詩文、狂詩、などをよくした。特に狂歌で知られ、唐衣橘洲(からころもきっしゅう)・朱楽菅江(あけらかんこう)と共に狂歌三大家と言われる。南畝を中心にした狂歌師グループは、山手連(四方側)と称された。 』
大田南畝 - Wikipedia

太田←こちらの字は碑のほうの文字。 
大田←こちらはwikipediaのほう。

酒井抱一
『酒井 抱一(さかい ほういつ、 宝暦11年7月1日(1761年8月1日) - 文政11年11月29日(1829年1月4日))は、江戸時代後期の絵師、俳人権大僧都。本名は忠因(ただなお)、幼名は善次、通称は栄八、字は暉真(きしん)。ほか、屠牛、狗禅、鶯村、雨華庵、軽挙道人、庭柏子、溟々居、楓窓とも号する。また俳号は、ごく初期は白鳧・濤花、後に杜陵(綾)。狂歌名は、尻焼猿人。屠龍(とりょう)の号は俳諧狂歌、さらに浮世絵美人画でも用いている
尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風を、俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻案し江戸琳派の祖となった。 』
酒井抱一 - Wikipedia

※佐原菊場
向島百花園(むこうじまひゃっかえん)は、東京都墨田区東向島三丁目にある都立庭園で、江戸時代に発祥をもつ花園である。みどころは早春の梅と秋の萩である。隅田川七福神の発祥の地であり佐原鞠塢が所有していた、ともいわれる「福禄寿」が祭られている。 』
向島百花園 - Wikipedia


近くにあった地図








榎本武揚旧居跡



 父は将軍側近で天文方として伊能忠敬にも師事した知識人であった。武揚も幼い頃から学才に長け、昌平愛で儒学を、江川太郎左衛門から蘭語、中演薦次郎から英語をそれぞれ学び、恵まれた環境で洋学の素養を身につけた。19歳で箱館奉行の従者として蝦夷地に赴き、樺太探検に参加する。安政3 (1856) 年には長崎海軍伝習所に学び、蘭学や造船学、航海術などを身につけた。文久2(1862)年に幕府留学生としてオランダ に
渡って、船舶に関する知識をさらに深める一方、国際法軍学を修めた。慶応3(1867)年、幕府が発注した軍艦「開陽」に乗艦して帰国、翌
4年に海軍副総裁に任ぜられた。
 戊辰戦争では徹底抗戦を唱えたが、五稜郭で降伏、3年間投獄された。この箱館戦争で敵将ながらその非凡の才に感服した黒田清隆の庇護を受け、北海道開拓使に出仕。明治7(1874)年に駐露特命全権公使となり、樺太·・島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て文部大臣、外務大臣などを歴任した。
 明治8(1905)年から、73歳で没する同但年まで乙の地で暮らし、墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたという。

天保7(1836)年8月25日~明治41(1908)年10月26日。箱館戦争で官軍と戦ったが、3年間の投稿獄後は新政府で文部大臣、外務大臣などを歴任した。下町情緒を好み、門づけの三味線弾きを家に呼び込んだり、 ひいきのカ士に相撲の型をとらせて楽しんだという。 また墨堤植桜之碑や牛島小学校の篆額(てんがく)に揮毫している。








吉川英治旧居跡



 明治25(1892) 年、横浜生まれ。父は旧小田原藩士。県庁勤務の後、 牧場経営に失敗し、家運が傾いたため、 小学校を中退。職を転々と
しながら、 朝から晩まで働き通した。
 1B歳の時、上京。本所菊川町(立川4丁目) のラセン釘工場に住み込み、 夜は、本所林町 (菊川1丁目) の府立夜間職工学校で、工芸図案を学ぶ。
その後、浅草三筋町にある輸出用金属象嵌の下絵描きの徒弟となった。
 贪しさも あまりの果ては 笑ひ合ひ (吉川雉子郎の名で発表した川柳)
 大正6(1917)年、羽歳の時、下谷の花街で知5合った赤沢やすの寺島村1820 (東向島1丁目) のこの辺りの家で同棲を始め、 母たちを近くの寺島村1120(東向島3丁目) の借家に呼んだといわれている。
 本格的な作家活動は、卲歳で「親鸞記」を初めて新聞連載した時に始まる。 以後、創刊された「キング」に「剣難女難」、大阪毎日新聞に「鳴門秘帖」を連載し、国民文学作家としての地位を不動のものにした。

本名:吉川英次
明治25 (1892)年8月11日~昭和37 (1962)年9月7日。「鳴門秘帖」「宮本武蔵」「三国志」「新,平家物語」など、長約80編、短編約180編と
いう膨大な小説を執筆、 国民文学作家と親しまれ、昭和35年文化勲章受章。








◆羽子板資料館

HPがあった。
すみだスポット - 羽子板資料館 | 一般社団法人 墨田区観光協会【本物が生きる街 すみだ観光サイト】









さくらんぼ児童遊園








◆鳩の街通り商店街

商店街♪











◆依田學海旧居跡



 佐倉藩士の家に生れた學海は、藩校・成徳書院で漢学を学び、教授となった。後に江戸藩邸留守居役などの重職を務め、維新後は東京会議
所の書記官、文部省動務に出仕し、漢文教科書の編集に携わってい る。X歳で退官し、創作や文芸評論に力を注いだ。
 森鷗外の師としてる知られ、「ヰタ・セクスアリス」の中では文淵先生として登場。 向島隅田川の土手を臨む須崎村 .(向島5丁目、言問小学校あだり) に居を構え、若い妻と幸せな日々を送っていたことを書いている(実際は妾宅で、漢文の直しを乞いに訪ねた若い鷗外は気づかなかった)。
 鴎外が 旧歳の頃の出会いだが、その後め2人 の交流は続き、鷗外のドイッ留学に際しては、「送森軍医遊伯林序」 と いう送別の漢詩を贈っている。
 向島百花園にるよく足を運び、明治15年に発行された「墨水二十四景記」には、百花園について記載している。同書は永井荷風著 「遷東綺譚」の主人公が持徴って歩いていたことでも知られている。
 また、印年以上に亘って書き続けた日記「學海目録」には多くの文化人との交流が記され、明治文化史の貴重な資料にるなってい る。

本名:依田百川
天保4 (1833) 年1月3日~明治42(1909)年12月27日。漢学者、文芸評平論家、小説家、劇作家。森鵬外の師、幸田露伴を文壇に送り出した人
としても知られている。


成島柳北の住居跡

 成島柳北 (1837~1884)は、幕府の儒者の家に生まれ、奥儒者として将軍德川家定・家茂に仕えました。後に、騎兵奉行・外国奉行などを歴任しました。
 明治維新後は新政府の招きを固辞し、「朝野新聞」の主宰として、新聞条例や讒謗律(ざんぼうりつ)を批判したことで知られました。
 明治十七年(1884)十一月、海常園と呼ばれたこの場所で48年の生涯を閉じました。初め、横川にある本法寺に葬られたが、明治四十二年(1909)に豊島区の雑司ヶ谷墓地に改葬された。
 明治十八年、長命寺の境内に柳北の記念碑が建てられた。




google mapには載っていなかった。
赤い丸印のところあたりが上の写真のところあたり。








続く。