隅田川沿いに南下する。
広い通りは「川の手通り」
橋から首都高速6号側。
手前の川が墨田川で橋に平行に流れている。
google mapより
奥に見えるのが水神大橋。
手前の橋が白髭橋。奥にスカイツリーが見える。
真先銭座は、江戸時代末期の文久二年(1862)、百文通貨の天保通宝鋳造ために設けられた大規模なエ場である。「百文銭鋳立所」と呼ばれた。姫路藩酒井雅楽頭の抱屋敷(それ以前は、石浜神社の神主・鈴木兵部の屋敷地)の建物を転用し施設が築造された。天保通宝の他、文久一永宝も鋳造された。
數地は、六千五百八十坪(約22000㎡に及んだ。当時の絵図などから、石浜神社の北束南千住三ー三七・三八付近から、瑞光橋公園 (旧座田川貨物駅運河と水門跡)あたりまでと推定される。平成二年三月の試掘調査で、天保通宝鋳造エ程でできた屑鉱などが出土した。
江戸神社/北野天満宮/妙義八幡神社/寿老人/宝得大黒天/真先稲荷神社
鳥居
ちょっと撮り残してしまったみたいなので再訪することにする。
2021/05/20 再訪した。
2021/05/20 鐘ヶ淵散歩 09 石浜神社 - ovanの社会科見学
◆石浜城址公園
石浜城址(石浜神社)
石浜城は、室町時代の中ごろ、武蔵千葉氏の居城となり、戦乱の世に百年あまり続いた城である。天正年間(1573~1591)、城主千葉胤村(北条氏繁三男)を最後に、後北条氏滅亡後、廃城となったと思われる。石浜城の位置には諸説あるが、石浜神社付近は有力な推定地の一つとされる。
石浜神社は、聖武天皇の時代·神亀元年(724)の創建と伝える古社で、源頼朝・千葉氏・字都宮氏らの崇敬を受けたという。江戸時代の夏越の萩(六月三十日)は、その壮麗さにおいて名高く、天保九年(1838)刊行の『東都歳事記』の挿絵に夏の風物詩として紹介されている。
橋場の渡し
対岸の墨田区寺島とを結ぶ、約160mの渡しで、「白髭の渡し」ともいわれていた。
『江戸名所図会』によると、古ㄑは「隅田川の渡し」と呼ばれ、『伊勢物語』の在原業平が渡河した渡してあるとしている。しかし、渡しの位置は、幾度か移動したらしく、はっきりしていない。
大正三年(1914)に白髭木橋が架けられるまで、多くの人々に利用された。
対鴨荘跡
対勝荘は白葉橋西詰の地に明治六年(1873)明治の元勲三条実美(さんじょうさねとみ)の別邸として建築された。
いそがしき つとめのひまを
ぬすみ来て 橋場の里の
月をみるかな
三条実美が京都風の優雅さをこの地に求め、橋場の地を愛して詠んだ歌である。
橋場の地はその歴史も古く、明治初年にいたるまで、閑静な土地であった。この河岸から見渡す向島一帯は、うっそうどした樹木の前面に土手の桜並木が見えて、情緒豊かな風景を楽しむことができたのである。
隅田川畔の橋場一帯は、風光明媚な地であり、かつては著名人の屋敷が軒を連ねていたという。対鷗荘(対鴎荘)もその1つで、明治時代の政治家三条実美(1837~1891)の別邸であった。
「征韓論」をめぐって、政府内に対立が続いていた明治六年(1873)の十月、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れ、この別邸で静養していたが、明治六年(1873)十二月十九日明治天皇は病床の実美を気使い、この邸を訪れている。
隣りの碑は、この事跡を顕彰して、のち対鷗荘(対鴎荘)の所有者となった一市民の尽力によって建立されたものである。高さ3m余。側面に「昭和六年(1931)歳次辛末五月建立石井久太郎」、裏面に「多摩聖蹟記念館顧問中島利一郎謹撰 上条修徳謹書」の碑文が刻まれている。
対鷗荘(対鴎荘)は、昭和三年(1928)、白髪橋か教架橋工事に伴い、多摩聖蹟記念館(多摩市連光寺)に移築された。
続く。