史跡「明月校開校の地」
明治二年、武蔵知県事の支配地域が三つの県(小菅県・大宮県・品川県)となり、三鷹地方は品川県に属し時の代官、松村長為(後に古賀一平)が治めることになった。また同年十二月には、組合寄場を廃止し番組を設置した。そして後年、三鷹村を構成する諸村は七番組となった。明治四年、廃藩置県が行なわれ品川県が廃止され、翌五年一月には多摩地方の村々は神奈川県の所属にかえられた。
こうした時代の変遷と共に新学校制度の発足もあり、同年の学制制定により全ての子供が教育を受ける義務教育制度ができ、これにより当時三鷹地方の村では次のような学校を設けた。
まず東部地区には明治五年五月、牟礼村山崎(現牟礼高山地区)六一八に牟礼村・上連雀の一部・下連雀村で設立の時習学舎(後に時習校・高橋亭之助校長)。明治六年四月、新川本村に新川本村・中仙川村で設立の仙流校(加藤安礼校長)。そして言い伝えに因ると明治七年二月、當地(新川一、〇二八)に新川宿・北野村・烏山(飛地)で設立の明月校(清水勘次郎校長)の三つの小学校が、また西部地区には井口に連雀学校(前井ロ学舎を明治九年改称)、長久寺に大沢学校(前含章学舎)が各々開校された。これらは寺小屋から近代小学校へ転化したもので、読み・書き・算盤を中心に地理や歴史を附随的に教えていた。
明治十九年、小学校令が制定公布され小学校統合の動きへと変転してきた。そして明治二十五年十二月、牟礼村西原(前古判塚)二、〇五〇及び二、〇五一に東部地区の三つの小学校が合併され、三鷹の教育の発祥として北多摩郡東三鷹尋常小学校(現三鷹市立第一小学校)の誕生を見るに至り、初代校長に高橋亭之助先生が就任した。
當山十二世密庵即禅大和尚(石坂即禅老師・一八七四~一九六三)は、明治三十五年から大正八年まで北多摩郡東三鷹尋常高等小学校当時に教員として奉職していた。また昭和三十年から五期二十年間、三鷹市長を勤め同五十五年十一月に三鷹市名誉市民に推挙された鈴木平三郎氏(一九〇六~一九八四)も老師の数多い教え子のひとりである。
平成四年秋、三鷹市立第一小学校創立百周年記念吉慶に因み永く後世に伝えんとす。
◆石造馬頭観音供養塔
この石造馬頭観音供養塔は、江戸幕府の崩壊から明治新政府への政権交代期の政情が不安定な中で起きた盗賊殺害という不幸な事件に関連して建立されました。
その事件は「野川村ニ而盗賊四人打殺候節御届書」 という古文書 (三鷹吉野泰平家文書)によると、慶応四(1868) 六月、 近隣の村々に出没し、 強盗、 追剰などの悪事を働いていた盗賊四人を、最寄りの村々で申し合わせて山狩りをして捕縛しようとしたが反撃にあい、 やむなく打ち殺したというものでした。 事件後、 盗賊は野川村に埋葬され、 所持していた武器と共に事件の経緯が関東御取締御役所に届けられていました。
その盗賊たちの埋葬地には、伝承によると当初 「野盗様」 と彫られた自然石が置かれていたようですが、明治六 (1873) 四月に野川村と周辺の村の農民たちによって、三鷹市下連雀九丁目にあった馬捨場付近に盗賊たちを弔うために、この石造馬頭観音供養塔が再建され、近年に至り縁のある威徳院に移設されました。
馬頭観音供養塔は、江戸時代以降、五街道や脇往還等の道路が整備され、人や物資の移動手段に馬が使われることが増え、これに伴い馬が死亡した時に路傍や馬捨場などに供養の意味合いを持って建立されていました。 しかし、この馬頭観音供養塔は、人が祀られている異例のものでした。また威徳院には、 馬頭観音供養塔と同じ被葬者の戒名が記された位牌が野川村の名主によって奉安されています。
この石造馬頭観音供養塔は、幕末から明治初頭にかけて地域の治安が極度に悪化した時期に起きた不幸な出来事に対し、 それに関わった村民たちが、後年に至り死者を悼み供養するという敬虔な祈りの姿があったことを想起させ、地域社会における民衆の歴史を理解する上で、きわめて貴重な文化財です。
◆六地蔵菩薩
すべての衆生(一切衆生)が生前の業因(苦の果を招く因となる善悪の行為)によって、生死を繰り返す六つの迷いの世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を六道という。
そして、その六道のそれぞれにおいて衆生の苦悩を救済して下さるという六種の地蔵菩薩を六地蔵菩薩という。
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