『大盛寺 東京都三鷹市井の頭4-26-1
大盛寺別院(墓地) 東京都三鷹市牟礼2-14-16 三木露風の墓がある。』
大盛寺 - Wikipedia
◆三木露風墓
『三木 露風(みき ろふう、1889年(明治22年)6月23日 - 1964年(昭和39年)12月29日)は、日本の詩人、童謡作家、歌人、随筆家。本名は三木 操(みき みさお)。異父弟に映画カメラマンの碧川道夫がいる。国木田独歩の曾祖母が三木家出身。その縁もあり1912年『独歩詩集』を刊行した。早稲田詩社結成に加わり、『廃園』(1909年)を刊行。ほかに詩集『寂しき曙』(1910年)、『白き手の猟人』(1913年)など。
近代日本を代表する詩人・作詞家として、北原白秋と並んで「白露時代」を築いた。若き日は日本における象徴派詩人でもあった。 』
三木露風 - Wikipedia
本名、 操。 播州龍野藩 (現・ 兵庫県龍野市)の旧士族として生まれる。 年少のころより詩文に優れ、処女詩歌集 「夏姫」を自費出版した明治38(1905) 年16歳で上京する。 明治42(1909)年 「廃園」によって詩壇の地位を得る。 北原白秋の「邪宗門」と並び称され、“白露時代”と呼ばれる一時期を画した。 童謡 「赤とんぼ」は、大正期童謡運動のさなか大正10(1921) 年頃、 北海道函館で作詩され、昭和2(1927)年山田耕作によって曲がつけられた。
昭和3(1928)年より三鷹市牟礼に移り住み、詩作と井の頭公園への散策にふけった。 昭和39(1964)年12月29日下連雀で交通事故により死去。
明治初期の三鷹村の教育における先駆者のひとりで、 牟礼村の旧家に天保13(1842)年11月11日に生れた。 釈一妙、 坂川素石、本田覚庵、木澤成粛、松苗貫一郎、佐瀬得所らに和漢の学や書を学び、自宅で村童に手習いを授けていた。 明治5(1872)年の学制発布を受け、翌6年設立された牟礼、下連雀組合の時習学舎の教員となる。
明治25(1892) 年それまでの時習学校と上仙川(現・新川の一部)、 中仙川村共立の仙流学校、野川村(現・新川の一部)、北野、烏山3村共立の明用学校の3校が併合し設立された東三鷹尋常小学校(現・市立第一小学校の前身)の校長となる。明治38(1905)年まで同校に奉職、明治の小学教育に尽力された。 大正3(1914)年12月7日死去。
◆六地蔵
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