『むいから民家園(むいからみんかえん)とは東京都狛江市元和泉二丁目15-5にある、江戸時代の古民家を復元した公園、野外博物館。狛江市立古民家園(こまえいちりつこみんかえん)とも。「むいから」とは当地で古くから屋根葺きに用いられていた、麦から(麦藁)の転訛である。 』
むいから民家園 - Wikipedia
旧荒井家住宅主屋
この古民家は、かつて元和泉一丁目に所在し、 江戸時代後期頃に建築されたと考えられます。 泉龍寺の山門の突き当たりにあったことから、屋号を大門前 (だいもんさき)と呼ば
れていた荒井家の主屋でした。
荒井家は、江戸時代の後期、 農業を家業とし、また、村方の医師でもありました。
建築当初の主屋は、直屋 (すごや) で、桁行7 間、 梁間3間、三ツ間取りヒロマ型でしたが、 江戸時代末期頃に、 ヒロマの後方部を1間半拡張して角屋 (つのや)とし、整形四ツ間取りに改修されました。 また、 養蚕のために屋根に煙出しを設けるなどの工夫が見られます。
明治時代以降には、 チャノマを間仕切ってナカベヤや小部屋を造ったり、 内便所や縁側を設けています。
この古民家は、 小田急小田原線の立体交差及び複々線化事業にともない解体保存され、平成14年に当地に移築されました。 再建にあたっては、 角屋の時期の状態に復元し、 使い勝手のために縁側を設けました。土間境やザシキ、デイ境の柱を切って差鴨居を入れたり、 ザシキに京呂組(きょうろぐみ)の梁組が使われていることなどに特微がみられます。
旧高木家長屋門 附 棟札1枚
長屋門とは、 主に武家の屋敷門として造られ、 門の両脇に長屋を設けたものです。農村でも、名主など、 格式のある家に、建てられることがありました。 この長屋門を建てた髙木家は、江戸時代に覚東村(がくとうむら)の名主を務めていました。
建築を請け負ったのは、 和泉村の大工棟梁飯田栄八で、 安政6年 (1859) に建てられました。 栄八は、 地元の大工として、泉龍寺の鐘楼門や山門の建築にも携わっています。
建築当初の門の構造は、 両開きの門の南北両側に、 二間四方の部屋が設けられていました。 南側の部屋は、 床、壁、天井に板を張りつめた穀蔵でした。 北側の部屋は、 土間の納屋でした。屋根は、 寄棟造の茅葺屋根でした。
その後、北側の納屋が馬屋になるなど、 部屋の用途が変わり、改築がなされてきましたが、 江戸時代に遡る貴重な建造物として、保存に向けて取り組みがなされました。 平成11年に解体され、部材を保管していたものを、 平成21年に移築復元がなされました。
現在、市内に残る唯一の長屋門です。
狛江市指定文化財 荒井家住宅主屋復元修理記
名称 荒井家住宅主屋一棟
指定年月日 平成3年11月12日
旧所在地 狛江市元和泉一丁目23番2号
構造および形式 木造、寄棟造、角屋付、茅葺、桁行7間、梁間3間
概要
荒井家は、泉龍寺の表門の突き当たりにあったところから、屋号を大門先といい、江戸時代の後期には、 村方医師として医師、農業が家業でした。 昭和2年の小田急線開通の際に屋敷内を線路が通るため、東向きの主屋を曳き屋して南向きにしました。 さらに平成4年に小田急小田原線連続立体交差事業および複々線化事業のために解体保存され、平成14年にこの古民家園に移築されたものです。
建築当初は、 直屋で、桁行7間、梁間3間、三ツ間取り広間型の間取りでしたが、江戸時代末頃にヒロマの後方部を1間半拡張して角屋とし、整形四ツ間取りに改修しました。明治時代以降には、チャノマを間仕切ってナカベヤや小部屋を造ったり、内便所を付けています。
今回の復元は角屋の時期としました。 土間境やザシキ、デイ境の柱を切って差鴨居を入れたり、ザシキに京呂組の梁組が使われていることなどに特徴がみられます。
復元工事期間 平成12年12月15日~平成14年3月15日
◆長屋門
ここに展示した屋形舟と漁舟こは、 多摩川の川岸で長年にわたり、 貸しボート屋を営んできた 「たまりや」で使用されてきたものです。
かつて、 狛江と登戸との間には多摩川を渡るための渡しがありましたが、 昭和28年(1953) に多摩水道橋が完成すると、この渡しは廃止されることになりました。 ちょうどその頃、 高度経済成長期を迎えたこともあって、 現在の多摩水道橋付近の多摩川沿いは、 都心から釣りや遊泳など川遊びに訪れる行楽客で大変賑わいをみせ、 多摩川の河川敷には、 行楽客向けの茶屋や貸しボート屋などが並ぶようになりました。
「たまりや」 は、 多摩川の漁師であり、 登戸の渡しの船頭でもあった谷田部和助氏が、 登戸の渡しが廃止された後、 多摩川を訪れる行楽客向けに茶屋をはじめたものです。 創業当時は「川の家」として親しまれ、 昭和38年頃からは、貸しボートをはじめました。 しかし、 昭和50年を過ぎる頃からは、 茶屋、 貸しボート屋は次第に少なくなり、 たまりやは最後まで残った貸しボート屋となりました。
ボート場では手漕ぎのボートを繋ぎとめておくため、 また客がボートに乗り移るためのボート台船が必要となりました。
この屋形船は、たまりやからの求めに応じて、 稲城市東長沼の川船大工、 久保井冨蔵氏 (明治39年~平成5年) の手によって、昭和30年代後半に作られたものです。 伝統的な和船造りの技術で建造された木造のボート台船であり、同時に屋形船としても利用されてきました。同氏は、グラスファイバー製の船が普及しはじめる昭和50年代後半まで、 約60年以上にわたり多摩川の川船を建造し続け、 多摩川中流域における最後の船大工となりました。
比較的水深が浅い多摩川では、 底が平らで浅い川船が使われましたが、この屋形船 (台船) は多摩川流域における川船の特徴をよくとどめています。 また実際に使用された屋形船(台船) としては現存する唯一のものとみられます。
さらに、多摩川沿いの狛江の地が、 多摩川沿いの行楽地としてたいへん賑わった場所であるという地域の歴史の一端をとどめる資料でもあります。
ともに展示している漁舟こは、 多摩川で鮎などを捕らえる漁に使用された船で、 こちらも伝統的な和船造りの技術によって建造された木造の船です。
※屋形船と漁舟こ、 関連する道具類は、 谷田部ノリ子氏 谷田部和夫氏より寄附を受けたものです。
◆被爆榎2世
1945年(昭和20年) 8月9日、長崎市に原爆が投下され、爆心地から1.6kmの浦上地区で樹齢300余年、 高さ20mの椋の木(ムクノキ)と榎(Iノキ)が被爆。強烈な熱風で幹は折れて黒く焦げたが、 その後、椋の木(ムクノキ)も榎(エノキ)も折れた部分から新しい枝を伸ばし再生した。
65年経った2010年(平成22年)、 その根本に芽生えた 『被爆榎2世』は、狛江に来て鉢で育てられ、2015年(平成27年)10月、 ここ、 むいから民家園に植樹された。
原爆体験を語り継ぐ木として、原爆・戦争・平和について語り合う契機となることを願う。
被爆した椋の木と榎1世の現在(長崎市)
手前の大木が椋の木。 その奥に、更に背の高い榎。
よく似ている椋と榎は枝が重なりあっているため、1本の木に見える。
場所はコチラ