2024/09/24 狛江・仙川散歩 01 狛江駅南口/狛江湯/多麻郡泉村庚申塔(品川道)/狛江駅デザインマンホール/庚申塔/亀塚古墳


24時間勤務アケで、小田急狛江駅から京王線仙川駅まで散歩。






狛江駅南口






駅前

朝ごはん。
箱根そばかき揚げ蕎麦


「こもれびの泉」像


ニュースター

美味しそうなメニュー。
アジフライとホッピーがいいかな
(@ ̄¬ ̄@)ジュルリ♪









◆狛江湯

銭湯♪










◆多麻郡泉村庚申塔(品川道)










狛江駅デザインマンホール

別のページで。
2024/09/24 狛江駅デザインマンホール(絵手紙デザインマンホール) - ovanの社会科見学









庚申塔










◆亀塚古墳



亀塚古墳
 狛江古墳群は、 古墳時代中期にあたる5世紀半ばから6世紀半ばにかけて数多くの古墳が築造された古墳群です。 これまでに約70基ほどの古墳が確認されており、 多摩川中流域において展開した古墳文化を考える際に貴重な古墳群です。
 狛江古墳群に残された古墳は、規模の違いはありますが、 そのほとんどが円墳です。 そのなかでも亀塚古墳は、唯一の帆立貝型前方後円墳であり、その特徴的な形態や大きさなどから、古くから注目されてきた古墳です。
 江戸時代の後期、 文政3年(1820) に完成した 『武蔵名勝図会』 という江戸近郊の名所を案内する書物では、 和泉村に大小9ヶ所の 「古塚」 が残されており、 そのうちのひとつが 「亀塚」という名で紹介されています。 江戸時代にはすでに、この古墳が 「亀塚」 の名前で地域の人々から親しまれていたと考えられます。
 昭和26年(1951) 墳丘の一部が土取り工事のために掘削されはじめていたことを契機に、 狛江町は國學院大學の大場磐雄(おおば いわお)氏に発掘調査を依頼し、同年の6月と7月、 さらに昭和28年と3次にわたり発掘調査が実施されました。
 発掘調査の結果、 亀塚古墳の墳丘は、前方部を西側に向けた帆立貝形の前方後円墳であり、 全長 40m、 後円部の直径 31m、高さ6m、前方部の長さ9m、前方部先端の幅 14mを測る古墳であることが確認されました。
 また、墳丘の周囲には幅 9mほどの周溝が巡らされており、前方部の先端に沿う部分が幅 3mと狭くなっていること、 墳丘北側にはブリッジが存在することも確認されました。
 主体部は、 後円部において上下に重複して発見された2基の木炭槨と、前方部で発見された泥岩の切り石を組み合わせた石棺 1 基です。
 上下に重複した木炭槨(もくたんかく)のうち、 上部の木炭槨からは、直刀(ちょくとう) 1点 刀子(とうす)1点、 金銅製毛彫(けぼり)金具、銀製小環2点、 鉄鏃(てつぞく)多数が出土し、下部の木炭槨からは直刀1点、 銅鏡1点、 鈴釧(すずくしろ) 1点、管玉(くだたま)やガラス小玉が多数出土しました。また、槨外からは、直刀1点、 刀子3点、雲珠(うず)・杏葉(ぎょうよう) ・鏡板付轡(くつわ)・木心鉄装輪鐙(わあぶみ)などの馬具類や鉄鏃などが出土しました。なお、 前方部で発見された石棺からは遺物は出土しませんでした。 また、 古墳を取り巻く周溝からは土師器や円筒埴輪のほかに、 人物埴輪や馬形埴輪なども出土しています。
 亀塚古墳は、 これらの出土遺物から5世紀末頃に築造された古墳と考えられるとともに、 多彩な副葬品から、 多摩川中流域でも屈指の古墳と考えられています。
 上部木炭槨から出土した金銅製毛彫金具は、 金箔が貼られた厚さ0.3mmほどの薄い銅板に、 唐草文様や人物像、龍、 麒麟(きりん) (あるいは天馬)といった図像が点刻されたもので、いくつかの破片に分かれて出土しました。 もともとの形や用途等の詳細は不明ですが、 そこに刻まれた図像が、高句麗の古墳の壁画と酷似していることから、本古墳の被葬者と渡来系集団との関係性が注目されました。
 下部木炭槨から出土した銅鏡は、 白銅製の舶載(はくさい)鏡で、中国の後漢時代 (25~220年)に製作されたものです。 これまでに国内では、西日本の複数の古墳から同笵鏡(どうはんきょう) が出土しています。後漢時代の鏡が5世紀末頃に築造された古墳に副葬された事例はきわめて珍しく、他の同笵鏡との関係性や伝世のあり方、 さらには本古墳への伝来のあり方を含めて大きな検討課題となっています。
 このように発掘調査によって多大な成果が得られた亀塚古墳は、発掘調査の後、 墳丘の大部分が宅地造成工事によって削平され、現在残されているのは、 前方部のごく一部となっています。
 しかし、今回の公園整備に先立って実施した発掘調査では、かつての墳丘を取り巻くように、 周溝が残されていることが確認され、 周溝からは円筒埴輪の破片等も出土しています。
 今回の公園整備では、 調査によって確認された墳丘を取り巻く周溝の位置と規模を、ツツジの植栽で示しています。 この植栽の位置が前方部の先端に沿った周溝となり、この周溝から東側がかつての前方部の位置です。
 かろうじて残された前方部には、 昭和 31 年 9 月に記念碑が建てられていますが、 碑に刻まれた 『狛江亀塚』 の文字は、 徳富蘇峰の揮毫(きごう)によるものです。
 なお、 亀塚古墳の発掘調査によって主体部から出土した遺物は、東京国立博物館に収蔵されています。










続く。
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