2019/01/05 等々力散歩 03 等々力渓谷

コチラは以前桜を見に来たときに来たことがある場所。
まだ「はてな」でブログを書く前のことだ。



等々力渓谷 1


◆ゴルフ橋



 東急大井町線等々力駅近く、等々力渓谷入口にある橋は、「ゴルフ橋」 と呼ばれています。これは、昭和の初め頃、 旧下野毛に東急電鉄が開発した約8ヘクタールの広大なゴルフ場があったことに由来しています。現在の橋は昭和 36年(1961年)に架けられたアーチ鋼橋で、それ以前は木橋でした。



◆渓流1

奥に小さくゴルフ橋が写っている。


◆渓流2



◆階段

一度この階段をあがって渓谷を離れる。
そして玉川野毛町公園へ。



入口などにあった説明板等

 等々力渓谷は、武蔵野台地の南端を谷沢川が漫食してできた、延長約1kmの東京23区内唯一の渓谷です。東急大井町線等々力駅から南に歩いて3分ほどの、谷沢川に架かる「ゴルフ橋」脇の階段を下りると、下流に向かって谷沢川沿いに散策路があります。
 夏でもひんやりとした渓谷内はケヤキシラカシ、コナラ、ヤマザクラなどの樹木が鬱蒼と茂り、川のせせらぎや野鳥の声が聞こえ、渓谷のいたる所から水が湧き出て、都会とは思えない自然に触れることができます。
 散策路を下流に進み、玉沢橋(環状8 号線)を越えると、古墳時代末期から奈良時代の頃の横穴墓である「等々カ渓谷3号横穴」があります。さらに、渓谷の南端には日本庭園·書院や、桜の名所として知られる等々カ不動尊があります。
 不動尊から渓谷に下りた所に「不動の滝」があり、古来から今日まで滝に打たれて行をする人々が各地から訪れています。「等々力」の地名は、渓谷内の「不動の滝」の音が響き渡り 「轟いた」ところからついた、との言い伝えがあります。





 等々カ渓谷は、武蔵野台地の南端を谷沢川が浸食してできた、延長約1kmの東京23区内唯一の渓谷です。
 谷沢川沿いには、武蔵野の代表的な植生であるケヤキシラカシ、コナラ、ヤマザクラなどの樹木が豊蒼と茂り、川のせせらぎや野鳥の
声が聞こえ、渓谷のいたる所から水が湧き出て、都会とは思えない自然に触れることができます。
 玉沢橋(環状8号線)あたりは、古墳時代末期から奈良時代の頃の横穴墓である「等々力渓谷第三号横穴」があります。さらに、渓谷の南端には桜の名勝として知られている等々カ不動尊があります。不動尊から渓谷に下りた所に「不動の滝」があり、古来から今日まで滝に打たれて行をする人々が各地から訪れています。
 「等々カ」の地名は、渓谷内の「不動の滝」の音が響き渡り「轟いた」ところからついた、との言い伝えがあります。
 等々カ不動尊の敷地を含む、渓谷一帯の約3.5ヘクタールの区域は、平成11年3月に東京都文化財保護条例によって「名勝」の文化財指定を受けました。



名勝指定書



気温の違いを体感しよう

1度以上違うんだね。
夏ならよかった・・・・。



植生

 等々力渓谷の植生は、武蔵野台地の崖線の潜在自然植生と考えられるシラカシ群集ケヤキ亜群集であり、大径木を主体とした樹林地が渓谷の斜面に沿って連続しています。
 崖線の斜面部分には、主としてシラカシケヤキ、ムクノキが、斜面地上部や台地面にはイヌシデやらナラが多く分布しています。また、湧水が流下する緩斜面にはセキショウ草地が見られ、湧勇水が溜まる場所には湿生植物が点在しています。




等々力渓谷 2



◆広場

広場に続く橋。






広場の説明版


等々力渓谷公園

 等々力渓谷武蔵野台地の南端に位置する延長約1kmの渓谷です。谷沢川が多摩川と合流する手前で、多摩川が形成した河岸段丘、いわゆる国分寺崖線の優食によってできた、東京都区内でもめずらしい渓谷として知られています。
 『等々カ』の地名は、渓谷内の『不動の滝』の音が響き渡り『轟いた』ところからついた、との言い伝えがあります。滝の上部には、平安時代に役の行者の霊場とされた等々カ不動尊があり、かつてはこの滝にうたれて行をする修行僧が各地から訪れたといいます。
 渓谷内には、『等々カ渓谷第3号横穴古墳』があります。これは谷沢川の東斜面の崖に群集している横穴のひとつで、古墳時代末期から奈良時代のものと推定されています。
 この渓谷は、昭和8年(1933年)、国から風致公園として指定されました。世田谷区では、昭和49年(1974年)に渓谷の河川と斜面地の一部を風致公園として開園しました。
 等々力渓谷では、四季折々の多くの植物や生物を見ることができ、都会とは思えないような自然に触れることができます。



野毛大塚古墳(東京都指定史跡)

 等々力渓谷近くの玉川野毛町公園内にある野毛大塚古墳は、現在の大田区から世田谷区にかけて展開する荏原台古墳群のひとつ、野毛古墳群の中心となる5世紀初頭に築かれた大形の帆立貝形古墳です。 帆立貝形古墳とは、前方後円墳の前方部が小さくなり、上から見たときに帆立貝のような形に見える古墳を言います。
 古墳の規模は、周濠を含め全長104m、墳丘長82m、後円部直径 68m、 高さ10m、前方部幅28mで、前方部の脇に造出部がひとつあります。墳丘上からは、4基の埋葬施設が確認され、多くの武具等が発見されました。前方部と造出部は削られていましたが、現在は復元整備されています。古墳の主は、出土した副葬品などから、当時の政治の頂点であった畿内王権と直接的な交渉があったことがうかがえ、南武蔵(現在の東京都と神奈川県の川崎市横浜市の一部)の小豪族たちの上に立つ大首長であったと考えられています。
 等々力渓谷とその周辺には、等々力渓谷3号横穴、この野毛大塚古墳、御岳山古墳(等々力1-18)、狐塚古墳(尾山台2-17)、などの遺跡が国分寺崖線沿いに分布しています。



等々力不動尊

 瀧轟山明王院等々カ不動尊平安時代の末(1100年頃)に、真言宗中興の祖、興教大師覚錢上人が開かれた霊場で等々力の「お不動様」として親しまれています。
 戦国時代には世田谷城主の蒔田吉良氏が戦勝祈願を祈り、村人は厄難招福を祈りました。
 「お不動さま」から渓谷に降りると開創由来の「お瀧」(不動の滝)があり、古来から今日まで瀧に打たれ行をする人が各地から訪れています。この瀧の轟く音が、「等々カ」の地名の由来という言い伝えもあります。
 境内は数多くの桜や紅葉も美しく、等々力渓谷を代表する自然豊かな樹林地となっています。




等々力渓谷3号横穴



 等々力渓谷の周辺では野毛大塚(玉川野毛町公園内)、御岳山、狐塚などの古墳群が造られた後、古墳時代末から奈良時代(7~8世紀)にかけて横穴群が造られるようになります。
 等々力渓谷横穴群は野毛地域の有力な農民の墓で、これまでに3基の横穴が調査され、現在は3号横穴が完全な形で残っています。
 横穴は谷間の崖地に横に穴を掘って造られていて、玄室と羨道で構成されています。 泥岩の切石でふさがれた玄室の床には河原石が敷かれ、3体の人骨とともに1対の耳環(イヤリング)と土器が副葬されていました。その前面には斜面を切り通して造られた墓道が延びています。ここには土器が供えられたり、火を焚いた跡があり、墓前祭が行なわれたことがわかります。




等々力渓谷1・2号横穴


1号


2号



◆利剣の橋





◆不動の滝






◆稚児大師堂






続く。