2021/06/13 01 雑司が谷散歩 02 目白坂/大泉寺/旧町名案内板/永泉寺/養国寺/正八幡神社/幸神社

神田川ちょい北側の坂道を西へ向かって歩く。
以前散歩したときとかぶる。
2018/08/21 江戸川橋散歩 01 江戸川橋駅/関口水道町/江戸川橋/江戸川橋公園/大井玄洞の胸像/目白坂/大泉寺 - ovanの社会科見学
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◆目白坂

坂下。



坂上




 西方清戸(清瀬市内)から練馬区経由で江戸川橋北詰にぬける道筋を「清戸道」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通り、このあたりから音羽谷の底地へ急傾斜で下るようになる。
 この坂の南面に、元和4年(1618)大和長谷寺の能化秀算僧正再興による新長谷寺があり本尊を目白不動尊と称した。そもそも3代将軍家光が特に「目白」の号を授けたことに由来するとある。
 坂名はこれによって名付けられた。『御府内備考』には「目白不動の脇なれば名とす」とある。
 かつては江戸時代「時の鐘」の寺として寛永寺の鐘とともに庶民に親しまれた寺も明治とともに衰微し、不動尊は豊島区金乗院にまつられている。
    目白台の空を真北にわたる雁
        稀に見る雁の四・五十羽かも   窪田空穂(1877-1967)








◆大泉寺

関係者以外立ち入り禁止とあったので、外からお参り。
前の時は中まで入っていた。








◆旧町名案内板(旧関口駒井町)

 古くは、関口村の畑地であった。宝永元年(1704)町屋を設け、元文2年(1737)ころ町奉行支配となった。
 町名の由来は明らかではないが、「若葉梢(わかばのこずえ)」に次の記事がある。
 駒止(こまどめ)橋(現、駒塚橋)の項目に、丸太橋であったころ、この上四ツ谷の南土手に馬を多く宿して、駒込の馬市に出していた。目白不動の門前駒井町にも駒店(こまだな)(馬を売る)があった。
 駒店があり、駒がいるから駒居ー駒井の町名が生まれたのであろう。
 明治4年、新長谷寺(はせでら)門前、大泉寺(だいせんじ)門前および武家地を合併した。
 目白坂上に新長谷寺目白不動)があった。「時の鐘」として有名であったが、戦災に会い廃寺となった。









◆永泉寺








◆養国寺

「養國寺」ともあった。









◆正八幡神社

こちらも以前お参りしたことがある。









◆幸神社(こうじんじゃ)

こちらも以前お参りしたことがある。



 祭神は、猿田彦命稲荷大神である。道山幸神社また駒塚神社とも称した。
 創建年代は不祥。江戸時代、当社の祭神の猿田彦命の神像は、その昔当地の崖下が入江であった頃、海中より出現した神像で、神体全体に蛎殻が付着していたと伝わる。かつては神木の榎が植えられた庚申供養塚があり、そこに猿田彦命を安置したという。
 幸神社が面する道路は、かつて「清土道」とよばれ、江戸・東京から練馬などの西北近郊の村々とを結ぶ主要道の一つであった。未知の神である猿田彦命を祀った当社は、清土道における江戸・東京の出入り口に位置し、道行く人々の安全を祈った祠であった。




旧町名案内板(旧関口台町)

 もと、関口村の内で畑地であった。天和2年(1682)町家を開き、享保5年(1720)から町奉行支配となった。
 町名は、関口村の高台(目白台地)にあったので、関口台町と称えたといわれる。関口の名称は、むかしこの辺りに奥州街道の関所があったからとも、また神田上水の分水のための大洗堰があったからともいわれる。
 明治5年、旧細川越中守ほかの武家屋敷地及び寺地を併せた。
 目白台下に、松尾芭蕉ゆかりの芭蕉案がある。西隣の胸突坂下には、神田上水の守護神で合った水神社がある。
 芭蕉案や水神社の一帯を椿山といった。鎌倉合戦の頃この辺りに伏兵を入れたとあり、そのころから椿が多かった。







続く。