2021/06/13 01 雑司が谷散歩 04 目白台運動公園/小石川消防署老松出張所/目白台三丁目児童遊園/目白台総合センター/村川家住宅/薬罐坂/旧町名案内板

幽霊坂西側にある目白台運動公園へ入って、また目白通りに戻る。
その後は細い路地へ入り、北へ進む。
やっぱり以前来たことがある場所。
2018/08/21 江戸川橋散歩 04 講談社野間記念館/旧高田老松町/和敬塾/旧高田老松町/小石川消防署老松出張所/目白台運動公園/肥後細川庭園 - ovanの社会科見学
2018/07/07 小日向散歩 03 神田上水旧白堀跡/黒田小学校縁起/旧小日向水道町/福勝寺/横町坂/石切劔箭神社 東京分祠/薬罐坂 - ovanの社会科見学



目白台運動公園

広い公園は逆に密になりやすいね・・・・。
日曜日だったし人がいっぱいいた。








◆小石川消防署老松出張所







目白台三丁目児童遊園







目白台総合センター

WEBで調べると、名前が違う?
目白台交流館となっている??
https://mejirodai-krk.roukyou.gr.jp/annai.html

調べきれなかったので、ご利用される方はご注意を!







◆村川家住宅



 明治時代後期から昭和戦前にかけて建設された和洋折裏住宅である。主屋(しゅおく)・西洋館・表門(ともに1911年竣工)石蔵(1920年竣工)・離れ(1933年竣工)の5棟と石塀(1930年竣工)2基から構成される。
 これらの施主は西洋史学者の村川堅固(けんご)(1875~1946)で、長男で同じく西洋史学者の堅太郎(1907~1991)が継承した。主屋・西洋館・表門は当時小石川区白山御殿町(現・白山三丁目)で建築請負業を営んでいた片山清太郎が施工した。
 住宅の造りは和風住宅の脇に小規模の西洋館を配置した形式をとり、近代化された中規模住宅の典型例といえる。主屋は明治末期から大正期にかけてわが国の住宅に急速に普及した「中廊下形住宅様式」(建物の中央に中廊下が東西に貫通し、 南側に和室、 北側に台所・浴室などを配置)の現存するもっとも古いもののひとつである。文京区のみならず、 わが国の住宅史上非常に貴重な文化財である。







◆薬罐(やかん)坂

坂上



坂下。



 江戸時代、坂の東側は松平出羽守の広い下屋敷であったが、維新後上地され国の所有となった。現在の筑波大学付属盲学校一帯にあたる。また、西側には広い矢場があった。当時は大名屋敷と矢場に挟まれた淋しい所であったと思われる。
 やかん坂のやかんとは、野豻とも射干とも書く。犬や狐のことをいう。野犬や狐の出るような淋しい坂道であったのであろう。また、薬罐のような化物が転がり出た、とのうわさから、薬罐坂と呼んだ。夜寒坂のおこりは、この地が「夜さむの里道」と、風雅な呼び方もされていたことによる。
 この坂を挟んで、東西に大町桂月(1869~1925、評論家、随筆家)と、窪田空穂(1877~1967、歌人、国文学者)が住んでいた。
    この道を行きつつみやる谷こえて蒼くもけぶる護国寺の屋根(窪田空穂)








◆旧町名案内板(旧雑司ヶ谷町)

 延亨3年(1746) 町方支配となり、雑司ヶ谷の町名がつけられた。町名の由来については、いろいろな説がある。
 昔、小日向の金剛寺(また法明寺とも)の支配地で物や税を納める雑司料であった。また、建武のころ (1334~36) 南朝の雑士 (雑事をつかさどる)柳下若狭、 長島内匠などがここに住んだので、雑司ヶ谷と唱えたという。
 その後、蔵主ヶ谷、僧司ヶ谷、曹子ヶ谷などと書かれたが、8代将軍吉宗が驚狩のとき、雑司ヶ谷村と書くべしとの命があり、今の文字を用いたという。











続く。