2018/08/21 江戸川橋散歩 04 講談社野間記念館/旧高田老松町/和敬塾/旧高田老松町/小石川消防署老松出張所/目白台運動公園/肥後細川庭園

江戸川(神田川)を離れ北上する。
3つの区境あたりで、自分がどこの区に居るのかわからなくなる(w



講談社野間記念館

お休みだった・・・。
長い夏休みのようですね。
今度おもしろそうな展示をやっていたら来てみようと思う。






◆旧高田老松町




 明治5年、高田四ツ谷町の内及び高田四ツ谷町下町を併せ、さらに旧土井、小笠原、細川下屋敷武家地を合併し、高田老松町と命名した。
 旧高田老松町76番地の細川邸の門前に昔二株の老松があり、鶴亀松と呼んだ。
 町名はこのめでたい老松からとったといわれる。




和敬塾




 財団法人和敬塾は、首都圏のさまざまな大学で学ぶ男子学生のための学生寮です。海外からの留学生も含め五百余名の大学生・大学院生がここで共同生活を送っています。
 約七千坪の敷地には、学部生寮と大学院生寮、ならびに東京都指定有形文化財の本館(旧細川公爵邸)があります。
 常に理想を求める事業家だった前川善作(一八九五〜一九八六)によって、昭和三十年(一九五五年)この地に和敬塾が設立されました。「国家社会の各方面において中堅となり先達となり支柱となるべき人材の育成」を創設の目的に掲げています。
 聖徳太子 の十七条憲法 の第一条「和をもって貴しとなす」から「和」を、第二条「篤く三宝を敬え」から「敬」をとって名づけられました。
 「人間形成、修養の場として」「日常の共同生活を通じて学生諸君にセルフメイドしてもらう」というのが前川善作の希いでした。
 毎年百余名の若者が社会に巣立ち、多方面で活躍しています。





◆旧高田老松町




 明治5年、高田四ツ谷町の内と高田四ツ谷下町を併せ、さらに旧土井能登守(越前大野藩・6万石)、細川越中守(肥後熊本藩・54万石)の下屋敷武家地を合併した。そして、町名を高田老松町とした。
 旧高田老松町76番地の細川邸の門前に昔2株の老松があり、鶴亀松といった。左手の松は見上げるように高くて鶴の松と言い、右手の松はやや低く平らなのを亀の松と呼んだ。
 町名は、この縁起の良い老松からとったといわれる。鶴の方葉明治38年頃枯れ、亀の松は昭和8年頃枯れた。





◆小石川消防署老松出張所







目白台運動公園






◆肥後細川庭園









肥後熊本細川候下御殿の面影を残す池泉回遊式庭園

大名の下屋敷から細川家へ
この地は、江戸中期以来旗本の邸宅となりました。
江戸末期には、徳川三卿のひとつ清水家の下屋敷となり、のち一橋家の下屋敷に転じ、幕末に、肥後熊本54万石の藩主細川越中守の下屋敷、抱屋敷となりました。


公園の開設
第二次世界大戦後、数度にわたって所有者が変わり、その後、昭和36年(1961)9月、都立公園として開園した後に、昭和50年(1975)4月、文京区に移管されて現在に至っています。
松聲閣から庭園を見た景色は、目の前に広がる池、左手の斜面地の林、燈篭の様子など明治期から変わらぬ風情を留めています。細川家に伝わる絵(下記)と見比べると、この庭園の持つ歴史を味わうことができます。右地図の↑の位置でご覧ください。







続く。