どんどん北東に進む。
やっぱり坂が多い。
文京区は坂だらけだねぇ・・・・。
1953年この地にセツルメント・ハウスが設立された。戦災で疲弊した地域で健康・生活・文化の向上を求める活動は、当施設開設の礎となった。
WEBで「セツルメントハウス」を調べるとイロイロ出てくるね。
慈善活動の拠点ということでいいのかな?
今度ゆっくり勉強してみようと思う。
◆太田胃散
薬の名前だと思っていたら、社名だったんだね。
上場はしてないみたいかな?
もと、小石川村であった。元禄年間(1558〜70)北条氏の家臣島津孫四郎の土地および法林院領があった。
江戸時代に入って新田を開き、初め伝通院領であった。のち上地して、砂礫(されき)を取って護国寺造営の用に当てた。享保年中(1716〜36)その跡地を開墾し、氷川たんぼとなった。
旧米農地で、氷川たんぼと称した。明治24年、御殿下、氷川下を氷川下町と改称した。町名は、氷川台(簸川神社のある台地)の下の低地にあるので、氷川下町と名づけた。
氷川たんぼは、明治30年代に埋め立てられて、人家がたち工場が設けられた。谷を流れる千川(小石川)は洪水が多く、昭和9年暗渠となった。
◆全日本かるた協会
そんな協会があるんだ!
と思って調べてみた。
wikiには『小倉百人一首を使用したスポーツ競技である競技かるた大会の開催などを行う法人』とあった。
このあたり一帯は,かつて伊達宇和島藩主の下屋敷であった。近くの区立大塚小学校地は,池を中心とした 伊達屋敷の庭園部に相当すると伝えられる。明治時代を迎えて荒廃するが,「古木老樹がうっそうとしげり 白鷺の集巣地となって日夜その鳴声になやまされたものである。」とは土地の古老の話である。
この白鷺にみせられた アララギの歌人 古泉千樫は,ここに毎日通いつめて白鷺を題材とした短歌をつくったといわれる。
明治末期の東京市区改正に伴う道路整備によって 不忍通りの前身が伊達屋敷内を貫通したため 往時をしのぶものもなく,そこにできたこの長い坂道にも坂名のないままであったが 誰いうとなく 白鷺にちなんだ坂名が愛称となった。
大正から昭和にかけての人によってつけられた坂名といえる。
鷺の群 かずかぎりなき鷺の群
そうぜんとして寂しきものを 古泉千樫(1886-1927)
続く。