2023/12/23 傳通院


『伝通院(でんづういん)は、東京都文京区小石川三丁目の高台にある浄土宗の寺。正式名称は、無量山 伝通院 寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)。または小石川伝通院とも。徳川将軍家菩提寺。江戸三十三箇所観音札所の第十二番札所。 』
伝通院 - Wikipedia




◆傳通院のあゆみ

 当山は今から約六百年程前の応永二十二年(1415年)、 浄土宗第七祖了誉聖冏上人が開山したお寺です。 当時は小石川極楽水の小さな草庵で無量山寿経寺という名で開創されました。
 それから二百年後慶長七年(1602年)八月二十九日、 徳川家康公の生母於大の方が逝去され、この寿経寺を菩提寺と定めました。 於大の方法名「傳通院殿」 から 「傳通院」 と呼ばれるようになり、 徳川家の庇護のもと、大伽藍が整えられました。

永井荷風は、パリのノートルダム寺院に、この寺の美しさを重ねた。
いのちの継承 開山六百年の歴史を受け継ぐ
名刹菩提寺にする誇り








◆説明版

浪士隊結成の 処静院跡の石柱 
 この石柱は、伝通院 の塔頭の一つで伝通院前の福聚院 北側にあった処静院 の前に建っていたものである。
 石柱の文字は、修行と戒律のきびしさを伝えている。
 処静院は、その後、廃寺となった。
 文久三年(1863)二月四日、幕末の治安維持を目的とした組織-”浪士隊”の結成大会が処静院で行なわれた。
 山岡鉄舟、鵜殿鳩翁、伝通院に眠る清河八郎 を中心に総勢二五〇人、その後、浪士隊を離れて、新撰組 として名をはせた近藤勇土方歳三沖田総司 などが平隊員として加わっていた。
 一行は文久三年二月八日、京都へと発った。年号が明治と改まる五年前のことであった。

幕末の傑僧瑞上人
幕末の傑物と称せられている端瑞は幼時 細谷房蔵と弥む 天保元年十月出羽の国(山形県)に生まれた
幼時より秀才の誉れ高く伝通院山内処静院住職福田行識のもとに学んだその才は見る見る内外に評価され三十有歳にして士々の間においても認められる所となり 高橋泥舟山岡鉄舟 のふき理解者であった
彼は公武合体論を主張し水戸烈公の支持を取りつけ 大いに政治的動をなした しかしながらこれは誤解を生む原因ともなり 慶応三年十月十八日深夜 彼は高橋泥舟宅の帰り広井求馬 松岡丙九郎なる人物らに三百坂で刺殺された時に三十八歳と記されている

新選組の前身 新徴組発会の処静院跡
幕末の歴史に1頁を残した新選組の前身新徴組は、江戸市中から応募した浪士隊として清河八郎山岡鉄舟らの呼びかけで、 芹沢鴨近藤勇土方歳三らが参加し、文久3年2月4日伝通院山内処静院で発会したと記録されている。
処静院は、その後火災に遭い消失したが、 この碑建立の一帯が処静院で大黒天に隣接していた。
幕末時、処静院住職琳瑞和尚は、 清河八郎らを支援したとして佐幕派浪士と見られた武士らに暗殺されたが、今なお伝通院内に墓碑が建立され供養されている。
このたび本会の事業として、この記念碑を建立し、永く歴史の時点を残すことにいたしました。








◆小石川寺町散歩

文字が読み取れず、文字化を断念。









◆石塔








◆句碑



春いまださわがしからぬ空のいろに
 辛夷の花は白く咲きたり
德壽

 橋本德壽は明治二十七年(1894) 神奈川県横浜市にに生まれた。短歌は初め土岐哀果に学んだが、後に万葉集に傾倒し古泉千樫を師と仰いだ。昭和二年(1927)短歌結社「青垣会」を結成するに当たり、その原動力となって活躍した。千樫亡き後は、青垣会を六十年間にわたり牽引すると共に、宮中歌会始の選者、 明治記念綜合歌会の選者を務める等、大正から平成までの長きにわたり、歌壇に大きな足跡を遺した。
 歌碑に刻まれた歌は、歌集 「桃園」に収められており、春の到来を実感した喜びが、清楚な辛夷の花の開花にことよせて格調高く詠まれている。なお、橋本徳壽は我が国屈指の木造船技師でもあり、日本全国に赴き技術指導にあたった。平成元年(1989)死去。








◆石仏








◆指塚



指もてもろもろの病を癒やし人びとに慶びと救いを与え先きに逝かれし指聖の御名をとどめその御霊に跡継ぎし者等の誠を捧げその功徳を永えに讃えんとてこの塚を建つ








◆宝篋印塔








◆鐘楼








◆傳通院繊月会館



境内の墓地参拝図
一、 於大の方 (徳川家康公の生母)
   法名 傳通院殿蓉譽光岳智香大禪定尼
二、 千姫 (二代目秀忠長女)
   天樹院殿栄譽源法松山大禪定尼
三、 亀松君(三代家光次男)
   法名 月渓院殿華屋尊英大童子
四、 孝子 (三代家光正室)
   法名 本理院殿照譽円光徹心大禪定尼
五、 於奈津 (家康公側室)
   法名 清雲院殿心譽光質大禪定尼
六、 歷代上人墓
七、 了誉聖冏上人 (净土宗第七祖·傳通院開山)
   法名 西蓮社了譽上人纈月禪師聖冏大和尚
八、 清河八郎 (幕末勤王の志士)
   法名 清秀院殿忠正明義居士
九、 佐藤春夫 (詩人·作家)
   法名 凌霄院殿詞譽紀精春日大居士
十、 高畠達四郎 (洋画家)
   法名 玄相院殿達譽和雅悟道大居士
十一、睪 宣嘉 (都指定旧跡)
   幕末七卿落方の- 人
十二、橋本明治  (日本画家)
   法名 宝藏院殿精譽淨勲明治大居士
十三、柴田鍊三郎  (作家)
   法名 蒼岳院殿雋譽円月鍊哲大居士
十四、簡野道明 (漢学者)
   法名 源徳院簡雲虚舟居士
十五、古泉千樫 (歌人)
   法名 朔密院千樫道惠居士
十六 杉浦重剛 (評論家 教育家)
   法名 温德院剛譽清廉天台道士
十七、藤井紋太夫 (水戸家重臣)
   法名 光含院孤峯心了居士
十八、宣教師ジョセフ岡本三衛門神父供養碑








◆傳通院観音堂 総合案内所



傳通院の墓所
 当山は、応永二十二年(1415)、浄土宗第七祖了譽聖間上人が開山されました。当時は小石川極楽水(小石川四丁目)の小さな草庵で、無量寿経寺という名で開創されました。
 それから約二百年後の慶長七年(1602) 八月二十九日、徳川家康公の生母於大の方が七十五歳、伏見城で逝去。その法名を「傳通院殿」と号し、この寿経寺を菩提寺としたことから「傳通院」と呼ばれるようになり、以来千姫(天樹院殿―二代将軍徳川秀忠公・於江の方の長女)や孝子の方(三代将軍徳川家光公の正室)於奈津の方、初姫など多くの徳川家の子女達が埋葬されるようになりました。
 当山には開創六百年におよぶ長い歴史の側面を物語る著名な方々のお墓が現存しております。

史蹟めぐり、ご見学者の皆様へのお願い
お参りなされる方は、必ず観音堂にお立ち寄り頂き、お声掛け下さい。
観音堂にて、お線香、おしきび等をお買い求め下さい。
一、まずは本堂にご参拝下さい。
二、「参拝のしおり」は観音堂にご用意しています。
三、徳川家ゆかりの方々のほか歴代墓のお墓にもお参りしましょう。
四、境内での飲食は慎んで下さい。飲食は観音堂総合案内所内でお願いしております。

お帰りの際は観音堂までお声をお掛け下さい。








◆於大墓



於大の墓 区指定史跡)
 享禄元年 慶長七年(1528~1602)。徳川家康の生母。三河(愛知県)刈屋の城主・水野忠政の娘。天文十年(1541) 岡崎城主・松平広忠と結婚、翌年に家康を生む
 後に離婚して阿古屋城主・久松俊勝に再婚するも人質として織田方や今川方を転々とするわが子家康を慰め、音信を断たなかったという。
 法名、伝通院殿蓉光岳智香大禅定尼にちなみ、この寺の通り名を「伝通院」とした。



徳川家康の母 於大の方の生涯
 於大の方は享禄元年(1528)、愛知県知多郡東浦町緒川城四代目城主水野忠政の娘として生を受けました。 於大の方が六歳の時、父忠政は三河刈谷に城を築き、家臣と共に移ったと伝えられています。 天文十年(1541)、当時今川方であった岡崎城松平広忠に嫁ぎ、竹千代(家康)が生まれました。
 その後、父忠政の死後、家督を継いだ兄信元は織田方に付いた為、於大の方は離縁され、刈谷へ戻って来ました。その後、坂部城主、久松俊勝に再嫁し三男四女をもうけました。
 夫俊勝が天正十五年に亡くなり、翌年尼となり、後に伝通院の号を授かりました。
 慶長七年(1602)於大の方は、天下をとった家康の招きで訪れていた京都伏見城で七十五歳の生涯を閉じました。
 戦国の世を生きた於大の方は、争いの無い平和な世を願い続け、その波乱の生涯が、時を越え今に語り継がれています。
 於大の方の故郷東浦には緒川城址と、 水野家四代の墓が菩提寺である乾坤院に残っています。
 一度是非足を運んでみては如何でしょうか。








千姫




千姫の墓 (区指定史跡)
 慶長二年 寛文六年(1597~1666)。二代将軍秀忠の娘。
慶長八年(1603)幼少の身で豊臣秀頼に嫁し、大坂城にはいる。
 元和元年(1615)城を出て翌年桑名城主・本多忠政の子、忠刻と再婚するも死別とともに天樹院と号して江戸に帰り竹橋に住む。








◆沢宣嘉の墓



 天保六年 明治六年1835~1873) 公卿”政治家三条実美らとともに尊攘派公卿として活躍するも文久三年八月十八日の政変による尊獄派失脚ののち「七卿落」の一人として長州藩に逃亡。
 のち、明治政府のもとで参与、九州鎮撫総督、外国事務総督、長崎府知事、外務卿を歴任して明治初期の外交を担当した。








◆孝子の墓




 慶長七年〜延宝二年(1602~1674) 孝子は三代将軍徳川家光正室。前関白鷹司信房の娘。 元和九年(一六二三)京都から江戸に下り江戸城西の丸に入る 寛永二年1625)家光と結婚するが、公家出身で武家の生活になじめないまま七十三歳で没す。








清河八郎




 天保元年~文久三年(1830~1863)、幕末勤王の志士。羽前(山形県)清川村斉藤治兵衛の長男。嘉永四年(1851)江戸に出て千葉周作に剣を、安積艮斎に儒学を学び、その後、昌平坂学問所に入り文武を学ぶ。はじめ眞木保臣(まきやすおみ)・平野国臣(ひらのくにおみ)らの尊王攘夷運動に参画したが、寺田屋事件に失望して、文久三年幕府の浪士隊(のちの新撰組) 結成に参加したが、近藤勇土方歳三佐幕派と対立し、江戸に戻され、その後暗殺された。 (隣りは貞女阿連(おれん)の墓)








佐藤春夫



 明治25年~昭和39年(1892~1964)。
大正・昭和期の詩人・小説家。和歌山県の生まれ。明治43年(1910)上京し、与謝野寛の新詩社に入り、永井荷風をしたって慶應義塾大学に学ぶ。 はじめ叙情詩人として出発したが、のちに耽美主義の影響を受けて大正8年(1919)小説「田園の憂欝(ゆううつ)」を発表し好評を博し小説家として独自の地位を確立した。
 古典的な詩人としては、大正以降の第一人者である。芸術院会員となり、文化勲章を受什、区内関口三丁目の自宅没Lㄤ。文京区歌の作詞者でもある。








◆サイコロのかたちをした墓石

サイコロが好きだったのだろうか・・・。








◆山門








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