2023/10/11 興岳寺


『文禄元年(1592年)、武田家家臣の石坂勘兵衛森通が随翁舜悦を開山として招聘し創建した。勘兵衛の子で八王子千人頭の石坂弥次右衛門森信が開基とされている。以後石坂家の菩提寺となった。
本堂に向かって左側に幕末の八王子千人頭石坂弥次右衛門義礼(よしたか)の顕彰碑が建てられている。義礼は日光勤番として、徳川家康を祀る日光東照宮を護る立場にあった。慶応4年(1868年)、戊辰戦争の際、幕府軍の伝習隊を率いる大鳥圭介らが日光山に立て篭もり、板垣退助らの官軍と対峙していた。この時、義礼は大鳥に相談して伝習隊を日光山から下山させ、幕府軍と官軍の戦いを未然に防いで日光山を焼失の危機から救ったとされている。しかし、八王子に帰還した義礼は、官軍と一戦もせずに日光東照宮を明け渡したことの非を問われ、責任を取り切腹して果てた。この縁で八王子市と姉妹都市となった日光市から寄贈された香炉が、興岳寺墓地にある義礼の墓前に置かれている。 』
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◆石坂弥次右衛門墓

 石坂弥次右衛門は名を義礼といい八王子千人頭の一人である。
 慶応四年(1868)三月、日光勤番(定番萩原友親の急死による代番として)に赴いて、隊員五十人を受け継ぎ任にあたった。同年閏四月新政府軍(板垣退助等)が日光に迫った時、幕軍の大鳥圭介等に謀り、交戦せずに日光を明け渡し帰還した。
 しかし、郷土八王子には攘夷派の批判もありその問責の声に、責任を負い一人同月十日自刃し六十年の生涯をとじた。
法名 興樹院殿大忍義禮居士
戦後の研究により、日光東照宮を今日にあらしめた功績者の一人として世にたたえられるに至った。




◆稲荷神社




◆間瀬温菩薩




水子地蔵




◆山門




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