2023/10/11 千人同心屋敷跡記念碑


八王子千人同心(はちおうじせんにんどうしん)は、江戸幕府の職制のひとつ。幕府直轄領である武蔵国多摩郡八王子(現・東京都八王子市)に配置された譜代旗本およびその配下の譜代武士(譜代同心)のことである。職務は多岐にわたり、関ヶ原の戦いの参陣、日光勤番、甲州街道日光街道日光脇往還)の整備、蝦夷地警固と開拓、八王子及び周辺地域の治安維持であった。』
八王子千人同心 - Wikipedia






八王子千人同心

千人同心の成立
 八王子千人同心は江戸時代に千人町と付近の村々に分かれて住んでいた半士半農の武士集団で、そのもとは甲斐の武田氏の家臣・小人頭と配下の小人 (同心) たちにあります。
みちすじ
 天正10年 (1582) 武田氏が滅び、同年6月織田信長本能寺の変で死亡すると、 甲斐国徳川家康が治めるようになります。 家康は旧武田氏の家臣を取り立て、 その中で9人の小人頭を武田時代と同様に甲州の国境9ヵ所の道筋
奉行に任じました。
 天正18年 (1590) 八王子城豊臣秀吉小田原城攻めの時に落城した後、徳川家康は関東に領地換えとなり、小人頭と配下約250人を八王子 (現在の元八王子) に移し、落城後の城下の警備にあたらせました。
びとがしら
 天正19年(1591)、 頭を1人増員し、同心も北条やその他の浪人を加え500人とし、 戦乱がおさまりきらない時代には戦闘部隊として、朝鮮出兵時に肥前名護屋などにも出陣していました。
 文禄2年(1593) 小人頭と小人たちは現在の千人町に拝領屋敷地を与えられ、 元八王子から移転します。 千人町に移された理由としては、八王子城下の混乱が静まったこと、 甲州口の押えとして江戸の西を守ること等があります。
 慶長4年(1599) 関ヶ原の戦いを前にして、 代官頭・大久保長安の指示により1000人に増員され、文字どおり 「ハ王子千人同心」が成立しました。
 「千人町」は最初から呼ばれていたのではなく、 「五百人町」 と呼ばれていたことが記録にあり、 「千人同心」 「千「人町」と呼ばれるようになったのは、 しばらくたった寛永年間 (1624~) 頃からと言われています。 またこのあたりは千人頭・原家の屋敷があった場所です。

千人同心の組織と公務
 千人町に住んでいたのは頭10人と同心約100人で、他の同心は付近の村々に住んでおり、幕末の嘉永7年(1854)組頭・二宮光鄰(こうりん)が作成した「番組合之縮図(ばんくみあいのしゅくず)」 によると、 当時の同心在住村は、東は三鷹市川崎市登戸、南は相模原市、西は津久井郡、北は飯能市と広域にわたっていました。
 千人頭10人は幕府・鎗奉行配下の旗本(将軍の直臣で1万石未満の者) 身分で今の横浜市都筑区、 千葉県市原市などに200石~ 500石の知行地を与えられていました。 1人の千人頭に10人の組頭と90人の平同心が属し、 各組100
人の組織でした。 同心は将軍の直臣であっても、お目見え以下 (将軍に謁見する資格がない)の身分で、 日常は農業を営んでおり、 公務の時には武士となる珍しい集団でした。
 当初は関ヶ原の戦いや、大坂冬の陣、夏の陣に従軍するなど軍事的な役割を担っていましたが、 戦乱がおさまるとともに家康の日光への改葬のお供、 将軍の日光東照宮への社参のお供、江戸城修築の警備、将軍上洛のお供などを勤め、 慶安4年 (1651) 日光に三代将軍家光の墓が作られると、 翌慶安5年に「日光火の番」 を命じられ、幕末に至るまでの公務の中心となります。
 日光火の番は東照宮の警備、防火、消火をおこなうもので、最初は、 頭2人と属する同心50人ずつ100人が50日で交代するものでしたが、 寛政3年(1791) からは頭1人同心50人が半年で交代することとなり、 慶応4年(1868)まで、216 年間に1030回にのぼりました。
 故郷から離れ、 寒い日光での勤番は厳しいものでしたが、武士の身分として勤務する千人同心のほとんど唯一の公務でもありました。

蝦夷地開拓
 千人頭・原胤敦 (たねあつ)(1747~1827) は幕府に蝦夷地 (北海道) の警備と開拓を願い出て許され、 寛政12年(1800) 3月、弟・新介とともに千人同心の子弟100人を引き連れ、白糠(しらぬか) (白糠町) と勇払(ゆうふつ) (苫小牧市) に入植しました。 また秋には後続30人が合流し、警備、開拓、 道路建設などに従事しましたが、慣れない環境と厳しい寒さのため、4年後の文化元年(1804)までに病死者32人、帰国者19人を出し、 事業も中止されると、残りの者も順次帰国してしまいました。
 またこれらとは別に、家族とともに勇払場所に派遣された組頭見習河西祐助は、3年後に妻・梅を亡くし、さらに4年後祐助自身も死亡して幼い2人の子が残される悲劇となり、 今も苫小牧市に夜泣き梅女の伝説とともに語り伝えられています。
 苫小牧市民会館前に立つ開拓記念碑の像は2人がモデルになっています。

幕末の千人同心
 外国船が盛んに日本沿岸に近づくようになり、 嘉永6年(1853) ペリーが来航し開国を迫ると、幕府は外国対策や軍制改革の必要性を痛感し、 大砲等の近代軍備の整備、 台場の築造等の海岸防備に取りかかります。
 千人同心も安政2年(1855) 西洋銃の訓練を命じられます。
 そして近代装備を身に付けた千人同心は、日光火の番の一方で、 戦闘集団として将軍家茂(いえもち)上洛のお供、 横浜警衛、 第2次長州出兵に出陣するなど、休みなく動員されます。
 また慶応元年(1865) 9月陸軍奉行の支配下となり、翌慶応2年10月、幕府の兵制改革により「千人同心」は「千人隊」と改称されます。
 慶応4年(1868) 江戸を目指して進軍する東山道鎮撫軍(とうさんどうちんぶぐん) (官軍) 参謀・ 板垣退助ら約2000人は、3月11日八王子に到着し、千人頭らはこれを迎え入れ、恭順の意を示し、勤王を誓い 、 徳川家・に対する寛大な処分を願う嘆願書を提出しました。
 一方、日光勤番中の千人頭・荻原頼母(たのも)が3月15日に急死し、 代番に千人頭・石坂弥次右衛門(やじうえもん)が決定し、 3月28日に日光に着任します。
 4月11日の江戸城明け渡し等に不満を持つ幕臣たちは幕府脱走軍となり、 2000名が大鳥圭介土方歳三らに率いられ、4月24日の宇都宮での敗戦後、日光山内に立てこもり、これを許さない官軍と対峙します。
 日光の寺社は戦火の危機にさらされますが幕府脱走軍は官軍・ 谷干城(たにたてき)、板垣退助らの攻撃前夜の29日に会津へ引き上げ、 弥次右衛門らは約2カ月前に八王子で出迎えた板垣退助を再び迎え入れることになります。
 そして日光を戦火にかけることなく引き渡し、 216年間続いた日光火の番は終わりになります。
 弥次右衛門は、閏4月10日八王子に帰着しますが、 戦わずに日光を明け渡した責任を問われ、切腹して果てました。

千人隊の解体
 慶応4年(1868) 6月、千人隊に対して、 駿府 (静岡) に移った徳川家に従うか、新政府に仕えるかを願い出るように、通達されました。
 千人頭全員は徳川家に従うことを願い出て、 家族とともに小島陣屋 (静岡市清水小島町)に移住しました。 隊士たちはそれぞれの道を選び、 67名が新政府に仕えることを希望し、護境隊として八王子付近の治安の維持にあたりました。
おいとま
ほとんどの者の約820名は徳川家に御暇を願い出て、それぞれの村々に戻り、 農業に従事する道を選んだのでした。





八王子千人同心

千人同心の文化
 原胤敦は文化9年(1812)、幕府から地誌探索の命令を受け、組頭らとともに文政8年 (1825) まで約13年をかけて、 武蔵国多摩郡秩父郡などを調査します。 これらの成果は 「新編武蔵国風土記稿(しんべんむさしのくにふどきこう)」としてまとめられました。
 また、地誌探索に参加した組頭・植田孟縉(もうしん)は独自にまとめた 「武蔵名勝図会(むさしめいしょうずえ」を残しています。 これらは現在、 八王子や多摩地区の歴史を研究する上で重要な資料となっています。
 寛政の改革 (1787~93) で文武が奨励されて、 さまざまな流派の剣術・柔術などが学ばれるようになります。
 組頭・塩野適斎(しおのてきさい) (1775~1847) は大平真鏡流(おおひらしんきょうりゅう)の八王子総指南役として多くの千人同心を指導しました。 適斎は千人同心の歴史を記した 「桑都日記(そうとにっき)」 を書いたことでも有名です。
 組頭・増田蔵六 (1786?~1871) は天然理心流の創始者・近藤長裕に入門し、その後、指南免許を得て千人町の屋敷に道場を開いて千人同心や付近の農民など多くの門弟を指導しました。
 洋学は外国で唯一オランダに外交を開いていた長崎から伝わり、文化・文政期 (1800年ころ) から蘭学として多摩にも伝わります。
 組頭・伊藤正純の弟・猶白 (ゆうはく)(1747~1831) は医師で、晩年に蘭方を学び、オランダ語の手書きの辞書を残しています。 また、組頭・秋山佐蔵(さぞう) (1816~1887) は江戸で蘭方を学んだ内科医で、わが国の印刷史初期の1858年に、 金属活版印刷でドイツ医学書の翻訳刊行をおこないました。
 千人同心随一の学者といわれる組頭・松本斗機蔵(ときぞう) (1793~1841)は、八王子に12年間滞在した北方探検家・最上徳内の書籍を写すなどして、最新の海外事情にも通じていました。
 また蘭学者高野長英渡辺崋山、幕府天文方・高橋景保とも交流し、日本に近づく外国船に対する幕府の対応を憂い、 海防論 「献芹微衷(けんきんびちゅう)」を水戸藩主・斉昭(なりあき)へ、 異国船打ち払いに慎重であるべきとする「上書」を幕府へ提出しました。
 天保2年(1841) には、 その見識を買われて、 浦賀奉行所に着任することになりましたが、直前に亡くなってしまいます。
 千人町を本拠地とする千人同心の約300年の活動により、 八王子には千人同心関係の古文書や史跡などの文化財が多く残されています。 これらから千人同心のことが明らかになってきました。
 また、千人同心の蝦夷地開拓が縁になり昭和48年に苫小牧市と、日光火の番を縁として昭和49年に日光市と、姉妹都市の盟約を結んでいます。





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