2023/12/17 茗荷谷・新大塚散歩 01 茗荷谷駅/竹早公園/団平坂/石川啄木終焉の地/極楽水/善仁寺/宗慶寺


24時間勤務アケでJR丸の内線茗荷谷から同じく新大塚駅まで散歩。
新大塚まで歩いた後は丸の内線で中野坂上駅まで乗り、周辺を散策して帰った。




茗荷谷駅

東京メトロ丸の内線茗荷谷駅



駅前で気になったので・・・・。
おでん焼き芋いつか食べてみたい(w




◆竹早公園



竹早小学校 (竹早国民学校) 跡
 1928年 (昭和3) 4月1日、 竹早小学校がこの地で開校した。 旧竹早町と久堅町の一部を学区として、近隣4校からの5年生以下の児童472名と教員14名、 12学級をもってスタートした。 現在の小石川図書館とテニスコートがある場所で、校舎は木造2階建であった。 校名は、 所在地の竹早町からとった。
 校訓 "剛健、 協同、勤勉”のもとに、充実した新しい学校創りを目指して、児童も教職員も、保護者も努力を傾けた。
 残念なことに、昭和20年5月25日の空襲により校舎が焼失し、1946年 (昭和21)3月、在校生、卒業生の愛惜の想いを残し、18年間の歴史の幕を閉じた。

校歌(一部)
理想も高く伸び出づる
 竹の剛さを健げさを
  永劫に冷りの竹早校








◆団平坂

坂上



坂下。



団平(だんぺい)坂(丹平(たんぺい)坂・袖引(そでひき)坂)
「町内より東の方 松平播磨守御屋敷之下候坂にて、 里俗(りぞく)団平坂と唱(となえ)候 右は先年門前地之内に団平と申者(もうすもの)春米(つきまい)商売致住居仕罷(すまいつかまつりあり)候節より唱(となえ)始候由申伝 年代等相知不申(しりもうさず)候」と「御府内備考』にある。
 団平という米つきを商売とする人が住んでいたので、 その名がついた。
 何かで名の知られた人だったのであろう。 庶民の名の付いた坂は珍しい。
 この坂の一つ東側の道の途中 (小石川5-11-7) に、 薄幸の詩人石川啄木の終焉の地がある。 北海道の放浪生活の後上京して、文京区内を移り変わって四か所目である。 明治45年(1912) 4月13日朝、26歳の若さで短い一生を終わった。

椽先(えんさき)にまくら出させて、
ひさしぶりに、
ゆふべの空にしたしめるかな
石川啄木 (直筆ノート最後から2首目)




石川啄木終焉の地

こちらの奥にあるのだが、以前来たことがあるので今回は寄らなかった。
2018/07/12 小石川散歩 01 茗荷谷駅/林泉寺/団平坂/石川啄木終焉の地/旧久堅町/播磨坂/山櫻 - ovanの社会科見学





◆極楽水




極楽水(ごくらくすい)
 ここは、 了誉聖冏上人(りょうよしょうげいしょうにん)が、応永22年 (1415) 伝通院の元ともなった庵を結んだ所で、後に吉水山宗慶寺の境内となった。 現在の宗慶寺は、すぐ下にある。
 『江戸名所記』に、「小石川吉水の極楽の井は、 そのかみ 伝通院の開山了誉上人よし水の寺におわせし時に、 竜女形をあらわして上人にまみえ奉り、仏法の深き旨を求めしかば、上人はすなわち 弥陀の本願、 他力の実義をねんごろにしめし賜うにその報恩としてこの名水を出して奉り
けり」 とある。
 現在の極楽水は、小石川パークタワーの手によって近代風に整備されたものである。




◆善仁寺

別のページで。
2023/12/17 善仁寺 - ovanの社会科見学




◆宗慶寺



茶阿局(ちゃあのつぼね)墓碑 (小石川4-15-17)
 この墓碑は、元和7年(1621) の年紀をもつ古い宝篋印塔である。太平洋戦争により、宗慶寺は大きな被害を受けたが、当寺と檀信徒の絶大な協力で、この墓碑は、旧観を今に残している。葵の紋が鮮やかである。
 茶阿局は、駿河(現静岡県)の人で、徳川家康の側室として、家康の第六男忠輝(松平)の生母となった。家康の没後、髪をおろして朝覚院と称し、飛騨高山に流中の忠輝を案じながら、 元和7年6月12日 没した。
 法名「朝覚院殿貞宗慶大禅定尼」にちなんで、寺は宗慶寺と称するようになった。この寺の創建は古く、応永22年(1415) と伝えられ、家康の生母伝通院(於大(おだい)の方)の墓所のある伝通院とゆかりの深い寺である。









続く。
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