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https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/12/17/163000_1
このあたりをかって吹上村といった。この地名から名づけられたと思われる。
吹上坂は松平播磨守の屋敷の坂をいへり (改選江戸志)。なお、別名「禿坂」の禿は河童に通じ、都内六ヶ所あるが、いずれもかっては近くに古池や川などがあって寂しい所とされている地域の名である。
この坂も善仁寺前から宗慶寺 極楽水のそばへくだり、坂下は「播磨たんぼ」といわれた水田であり、しかも小石川が流れていた。
この水田や川は、鷺の群がるよき場所であり、大正時代でもそのおもかげを止めていた。
雑然と驚は群れつつおのがじし
あなやるせなき姿なりけり
古泉千樫 (1886~1927)
『古泉 千樫(こいずみ ちかし、1886年〈明治19年〉9月26日 - 1927年〈昭和2年〉8月11日)は、日本の歌人。本名:幾太郎。伊藤左千夫に師事。貧困と病弱に苦しみながら創作を続けた。 』
古泉千樫 - Wikipedia
◆小石川植物園
別のページで。
2023/12/17 小石川植物園 (工事中) - ovanの社会科見学
◆新福寺
別のページで。
2023/12/17 善仁寺 - ovanの社会科見学
◆東京消防庁 小石川消防署
◆御殿町尋常小学校跡
明治45年(1912) 4月、当時「氷川田圃(ひかわたんぼ)」と呼ばれたこの「小石川消防署」の地(旧白山御殿町41) に 「東京市御殿町尋常小学校」が設立された。
校舎は、コの字形の木造2階建てで、開校当時の児童数1446名 25学級、 教員数26名であった。 5月8日を開校記念日とする。
大正8年(1919) 3月、昼間働く生徒のための 「御殿町尋常夜学校」を併設。 (昭和18年廃校)
昭和12年(1937) 3月28日、近隣からの出火により校舎を全焼。 4月から柳町、大塚 林町の各小学校にて分散授業。 10月に元の 「跡見女学校」(旧柳町27) を改修した仮校舎に移転。
戦争激化により本校舎建設にいたらず、終戦間もない昭和21年 (1946) 3月31日廃校。 34年間におよぶ歴史を閉じる。
◆網干坂(あみほしざか)
坂下。
坂上。
白山台地から千川の流れる谷に下る坂道である。小石川台地へ上る「湯立坂」に向かいあっている。
むかし、 坂下の谷は入江で舟の出入りがあり、 漁師がいて網を干したのであろう。 明治の末頃までは千川沿いの一帯は 「氷川たんぼ」といわれた水田地帯であった。
その後、住宅や工場がふえ、大雨のたびに洪水となり、 昭和9年に千川は暗渠になった。 なお、 千川は古くは 「小石川」 といわれたが、いつの頃からか千川と呼ばれるようになった。
◆簸川神社
別のページで。
2023/12/17 簸川神社 - ovanの社会科見学
続く。
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