2023/12/17 小石川植物園


東京大学大学院理学系研究科附属植物園(とうきょうだいがくだいがくいんりがくけいけんきゅうかふぞくしょくぶつえん、英: Botanical Gardens, Graduate School of Science, the University of Tokyo)は、東京都文京区白山三丁目にある植物園。小石川植物園(こいしかわしょくぶつえん)の通称を持つ。
植物に関する様々な研究を行っている東京大学の附属施設の一つだが、広く一般にも公開されている。
また、栃木県日光市に日光分園があり、こちらは日光植物園と通称されている。本項では、東京・日光の両方の植物園について記載する。 』


小石川植物園(本園)
元々は東京大学が開設した施設ではなく、江戸幕府によって開園された小石川御薬園(こいしかわおやくえん)であった。幕府は、人口が増加しつつあった江戸で暮らす人々の薬になる植物(薬草)を育てる目的で、1638年(寛永15年)に麻布と大塚に南北の薬園を設置したが、やがて大塚の薬園は廃止され、1684年(貞享元年)、麻布の薬園を5代将軍徳川綱吉の小石川にあった別邸に移設したものがこの御薬園である[1]。その後、8代徳川吉宗の時代になり敷地全部が薬草園として使われるようになる。1722年(享保7年)、将軍への直訴制度として設置された目安箱に町医師小川笙船の投書で、江戸の貧病人のための「施薬院」設置が請願されると、下層民対策にも取り組んでいた吉宗は江戸町奉行大岡忠相に命じて検討させ、当御薬園内に診療所を設けた。これが小石川養生所であり、 山本周五郎の連作短編小説『赤ひげ診療譚』や、この作品を映画化した黒澤明監督作品の『赤ひげ』は、養生所を舞台とした医師の物語である。のちに、養生所は江戸時代の七分積金を元にした東京市養育院の設立(明治5年)につながった[2]。なお、御薬園は、忠相が庇護した青木昆陽が飢饉対策作物として享保20年に甘藷(サツマイモ)の試験栽培を行った所としても有名である。
その後、明治期に入り、東京帝国大学が1877年に開設されると、同大学理科大学(現:理学部)の附属施設となり、広く一般植物などを多種揃えた植物学の研究施設として生まれ変わった。同時に、一般にも公開されるようになった。1897年には本郷キャンパスにあった植物学教室が小石川植物園内に移転し、講義棟も建設され、植物学に関する講義も行われることになった(1934年に植物学教室は本郷に再移転)。1998年より、現在のように大学院理学系研究科の附属施設となった。理学部→理学系研究科の附属施設ということもあり、毎年5月に理学系研究科・理学部の学生・教職員交歓会が開催されている。
2012年(平成24年)9月19日に、「小石川植物園(御薬園跡及び養生所跡)」として国の名勝および史跡に指定された。
植物園の敷地は周辺道路拡幅のため一部が削られ、すでに御殿坂辺縁部は悲惨なことに御殿坂塀際の希少植物が全滅状態だという。
本館は2013年(平成25年)度のDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選出されている。
2019年11月19日から、新しい温室が一般公開される。 』
東京大学大学院理学系研究科附属植物園 - Wikipedia










小石川植物園 正門受付






精子発見のソテツ



 裸子植物のソテツに精子が存在することが、 1896年(明治29年) 東京大学農科大学助教授(当時) 池野成一郎によって初めて明らかにされた。 この発見は、 平瀬作五郎によるイチョウ (本植物園保有)の精子の発見とともに、日本で近代的な植物学の研究が始まった時期に達成された偉大な業績である。このソテツは池野成一郎が研究に用いた鹿児島市内に現存する株の分株で、 鹿児島県立博物館のご厚意によって分譲されたものである。






小石川植物園本館









◆柴田桂太レリーフ

『柴田 桂太(しばた けいた、1877年9月20日 - 1949年11月19日)は、日本の植物生理学者・生化学者・微生物化学者。薬学者・柴田承桂の長男。弟に化学者柴田雄次がいる。薬学者・柴田承二(文化功労者)の父。 』
柴田桂太 - Wikipedia







◆シダ圓






 世界中に約1万種あるシダ植物のうち約630種 (6%)が日本に分布する。 気候が湿潤な日本のシダ植物相は、北米の約400種、ヨーロッパの約140種に比べて種数が著しく多い。 シダ園にはさまざまな科の代表的な種48種、日本の代表的なシダであるオシダ属やヤブソテツ属などの79種、およびミズニラなどの水生シダ3種、合計130種が集められている。 この中で、ヤシャゼンマイは葉の裂片(小羽片)が細く、川岸にのみ適応した渓流沿い植物である。 また、 コスギイタチシダはナガバノイタチシダとミヤマイタチシダの交雑による雑種起源の種である。 シダは一般に多湿を好むので、本シダ園は湿度を保つようにつくられている。






◆メンデルのブドウ



 遺伝学の基礎を築いたメンデル Gregor J. Mendel (1822-1884) が実験に用いた由緒あるブドウの分株です。 第2代植物園長を務めた三好学が、大正2(1913)年、チェコのブルノーにメンデルが在職した修道院(現在のメンデル記念館)を訪ねたとき、旧実験園に残っていたブドウの分譲を依頼して、その翌年に送られてきたものです。 その後、メンデル記念館のブドウは消滅したことがわかり、本園のブドウを里帰りさせて、現地にも同じブドウの株を復活させました。






ニュートンのリンゴ



 物理学者ニュートン Sir Isaac Newton (1643-1727) が リンゴの実が木から落ちるのを見て「万有引力の法則」 を発見したという逸話は有名です。ニュートンの生家にあったその木は、 接ぎ木によって各国の科学に関係ある施設に分譲され育てられています。 この木は昭和 39(1964)年に英国物理学研究所長サザーランド卿から日本学士院長柴田雄次博士に贈られた枝を接木したもので、 植物園でウイルスを除く処置を受けた後、昭和56(1981) 年に植え出されました。






◆旧温室遺構


音節の保存と記録



保存・展示・活用
 小石川植物園の歴史遺産である旧温室煉瓦躯体を可能な限り保存・活用するために、 温室 1.2.3ではモルタルが塗られた現状で、メインエントランスでは煉瓦造であることを示すためにモルタルを剥がして保存・展示しました。 新温室設計上保存不可能な箇所については、移築保存、ベンチへの再利用などの活用を行っています。

記録
 上屋を含む解体部は、基礎構造煉瓦の積み方 使用煉瓦の種類などの躯体構造に関する情報を考古学的方法による二次元記録、写真測量と座標データによるオルソ画像記録のほか、埋蔵文化財調査室と生産技術研究所との協業による三次元スキャンによって上屋細部までの情報をデジタル化し、 多角的記録保存を行っています。


ボイラー室の竈

 この竈跡は、ボイラー室床下より発見された遺構です。 円形炉体部に長方形焚口を接続した柄鏡形をしています。 上部構造は不明ですが、 コンクリート製基礎の上には焚口から炉床にかけ耐火煉瓦が敷き詰められていました。 耐火煉瓦には桜印と 「イセカツ」銘の刻印が認められ、 1883年に深川清住町で創業した「伊勢勝白煉瓦製造所」の製品と考えられます。 伊勢勝は1887年に品川に移転して 「品川白煉瓦製造所」と改称していることから、その間に生産された製品であることが判ります。
 1910年、 新温室建設に伴ってボイラー室が増築され、その設計図面には発見された竈跡と同形の竈が2基描かれています。 また温室建設当初 (1901年頃)の写真にもそれに対応する2本の煙突が写っており、 耐火煉瓦生産年代と合わせ、 発見された竈跡が当時の遺構であることを裏付けています。
 本竈跡は、明治時代の温室用汽缶を知る貴重な歴史遺産です。

1910年の建築図面に描かれた竈
左側の竈が発見された。 図面下の張出部が地下貯炭室。 左の黒枠が増築部。

1901年頃の温室写真
3号室後方に煙突が2本写っている。

耐火煉瓦の刻印
「桜印・イセカツ」の刻印。表面には細かい布目圧痕が観られる。


池と噴水



歴史
 この池は温室完成 1、2年後に造られたことが写真から窺え、温室との調和を図るため、両翼前に2箇所設置されています。 1923年刊行の『東京帝国大学附属植物園案内』 では「水草栽培池」 と記され、当時の写真からもハスが栽培されていたことが読み取れます。池を演出した中央の噴水は、 残念ながら1945年5月の空襲で焼失してしまいました。

構造
 長軸約 9.5m、 短軸 5.7m を測る小判形を呈し、 壁は切石積みで、 鉢物を置くために上端が円盤状に加工された石柱が6箇所付置されています。 そのため基礎は割石と砂礫で突き固めた強固な構造になっています。 発掘調査で温室方向へ伸びる土管管路が検出され、当初は温室への給水機能も備えていたと推定されます。

戦前の状況
池の周囲は植物で囲まれ、 中央の噴水は勢いよく水を噴出している。

空襲の被害
噴水の朝顔形水受けは崩壊し、石柱上の鉢物も見られない。

基礎構造
割石と砂礫で地固めをし、 切石を積み上げていることが確認された。


水生植物



水生植物
 水生植物 (または水草) とは、 陸上植物の中で二次的に水中生活に適応した植物の総称です。 水辺への進出は陸上植物のさまざまな分類群で起こっており、 花を咲かせる被子植物だけでなく、 シダ植物にも水生のものがあります。 水生植物は、 種数でこそ陸上植物の 1% 未満に過ぎませんが、 形態、 生理、 生態などのさまざまな面で独特の適応を遂げており、水草の存在を抜きに植物の多様性を語ることはできません。 ミズニラやスイレンのように、植物進化を理解する鍵となる植物にも水草が含まれます。 豊かな水辺に恵まれた日本には、 湖沼やため池、水田、河川、 湧水といった多様な水辺環境にさまざまな水草が生育しています。 しかし、水辺環境の急速な変化や、繁殖力の旺盛な外来の水草との競争によって、 絶滅の危機に立たされている水草も少なくありません。






小石川植物園温室


写真にみる音質の変遷

公開温室 120年の歩み
 1896年に3号室、1900年に両翼が完成した温室は、我が国の木造西洋式温室として最初期に建設された温室の一つです。1945年5月24日の空襲によって焼失しましたが、戦後、残された煉瓦躯体を再利用し、 1952年までに2・3・4号室が木造で再建され、1960年代には鉄骨造に改修されました。 さらに 1977年には1号室がアルミ造で再建され、建設当初を彷彿させる両翼構造が甦りました。
 骨組腐蝕状況調査で耐震性脆弱が指摘され、残念ながら2014年に一般公開が中止されましたが、 植物園の主要施設として広く親しまれてきました。

1896
1896年建設の3号室。 手前の壁には両翼増築を想定した骨組がみえる。

1901年頃
両翼が完成した温室 3号室裏手にボイラー室から伸びる2本の煙突がみえる。

1920年代頃
3号室屋根が嵩上げされたことが判る。椰子類の成長に伴う改修と推定される。

1945年
5月24日の空襲で温室は全壊。 その後上屋は取り壊され、 煉瓦躯体のみ残る。

1952年
1947年に4号室、 1952年に2,3号室が木造で再建された。

1982年
1960年代に 2,3号室、 4 号室を鉄骨造に、77年に1号室をアルミ造に改修


温室のはたらき

 研究・教育での利用を主な目的として多様な植物を収集する小石川植物園において、 熱帯・亜熱帯地域の植物の栽培に無くてはならない温室は最も重要な栽培施設のひとつです。 この温室には、植物園の教員や学生が海外調査により収集した貴重な植物や、国内外の植物園から種子や子苗によって入手した植物約2000種が栽培されています。 限られた室内で、できるだけ多くの種類を管理し、個体識別を確実に行うため、大部分の植物は鉢植えで管理しています。
 系統的に基部に位置すると考えられるものなど、多様性研究の鍵を握るとされる植物の多くが熱帯地域に集中していることが知られています。 ところが目的の試料を現地で発見し収集するためには大規模な現地調査が必要です。 そこで、 数少ない調査の機会に収集した植物を、 常に研究に使用できる状態で蓄積しておくことができる温室はきわめて重要な施設です。 また、蓄積されている植物は、 遺伝子資源として利用される可能性も秘めています。
 地球上の生物多様性保全においても、 植物園の活動が大きく期待されています。 熱帯・亜熱帯地域には、生物多様性が高いにもかかわらず自然破壊の危機に瀕しているホットスポットと呼ばれる場所が多く存在します。 植物園では温室を利用した植物多様性の生息域外保全も積極的に進めてきました。 特に、 約140種の固有植物 (その地域だけに生育する植物) のうち約90種が絶滅危惧植物と認められる小笠原諸島の希少植物について、30年以上前からその保護増殖に取り組み、 自生地復帰の実績をあげてきました。


世界の熱帯植物




乾燥地の熱帯植物





ラン室




温室を支えた煉瓦



Lobelia Boninensis Koidz
煉瓦の刻印と年代
 煉瓦の平手面には、文様 文字 (イロハ 漢数字社名) など製造所に関する刻印が認められ、 国産煉瓦の生産・流通研究の重要情報として扱われています。
 各室の刻印を分析した結果、 3号室 ボイラー室には、 東京集治監 (いわゆる小菅煉瓦) 製を示す桜花印 (単弁 複弁) が、 124号室には、 「太十字 漢数字」(現状で製造所不明) が多く、請負者と仕入ルートの関係を示唆する結果が得られ、またボイラー室増築部では再び小菅煉瓦に替わりますが、 新たに蕾印・桜花印 (単弁・複弁)+漢数字が加わり、 小菅煉瓦の変遷を知る情報が得られました。 それ以降の改修では、扇印・上敷免製 (日本煉瓦製造株式会社) 印などが押された機械成形製煉瓦主体で構成されるようになり、 煉瓦生産最盛期の様相を探る一指標と評価されます。


ショクダイオオコンニャク


日本および東アジアの熱帯植物




小笠原諸島の固有植物





冷温室


虫を惑わす葉の形ハクサンカメバヒキオコシ
 葉の形は植物ごとに実にさまざまです。 サクラの葉、 カエデの葉、 イチョウの葉...これらはどれも光合成をする点では同じですが、それぞれ形が異なるのには何か意味があるのでしょうか。葉の形や大きさは、生育地の気温や雨量といった気候と関わりがあることは知られていますが、 それだけではとても説明できそうにはない、奇妙な形の葉をもつ植物も存在します。
 シソ科のハクサンカメバヒキオコシは、葉の先が主脈近くまで深く切れ込む独特の形の葉をつけます。 ハクサンカメバヒキオコシを含むヤマハッカ属の植物は、葉を精巧に巻きあげて自分の子供のための 「揺りかご」 を作るオトシブミの仲間に葉を利用されます。 しかし、 ハクサンカメバヒキオコシの葉はその複雑な形のために、ヤマハッカ属を利用するムツモンオトシブミに避けられることがわかりました。

 オトシブミの仲間のメスは、 1枚の葉を1~2時間もの長い時間をかけて葉を巻きあげます。 しかし、こうして作った揺りかごも、 すき間があったり穴が開いたりしていては、なかにいる幼虫やその食料である葉が乾いてしまったり、寄生蜂などの天敵におそわれかねません。 そのため、メス成虫は葉を巻きあげる前に、まるで品定めをするように規則的なルートで葉の上を歩きます (この行動を「踏査」と呼んでいます。 上図参照)。 ハクサンカメバヒキオコシの葉ではこの踏査が上手くいかず、揺りかご作りの次の段階に進まないことが多いとわかりました。また、下図のように、ハクサンカメバヒキオコシと同属で、切れ込みのないクロバナヒキオコシの葉に実験的に切れ込みを入れると、 切れ込まない形に処理をした葉よりもムツモンオトシブミに使われにくくなります。 さらに、 ハクサンカメバヒキオコシの葉で卵を人工的に巻いて作った葉巻でも幼虫は成長できることから、葉の成分などの化学的な違いとは関係なく、 形そのものがムツモンオトシブミの忌避に働いていることがわかりました。



白馬五竜高山植物園 (長野県白馬村) は、 北アルプスを一望できる場所にある植物園です。ゴンドラに乗って気軽に行ける高山植物園は眺望が良く、 五竜岳や白馬岳などの北アルプス百名山が間近に見られ、高山植物の女王コマクサなど、 多くの高山植物に親しむことが出来ます。
標高1515mの標高が高く涼しい場所にあるため、 高山植物の育成に適した環境であり、(公社) 日本植物園協会の絶滅危惧種保全事業において、 希少な高山植物の生息域外保全にも取り組んでいます。

東京大学大学院理学系研究科附属日光植物園
Nikko Botanical Garden
園内には、日本の高山ならびに温帯から亜寒帯に生育する種、およびそれらに関係の深
い外国産の種が集められています。 自生のものも含めると、 シダ植物約130種、裸子植
物約70種、 被子植物約2,000種 (双子葉類約1,750種, 単子葉類約250種) が生育してい
ます。 木本では、 特に、 日本の温帯に種類の多いサクラ属、ツツジ属、カエデ属の植
物が多数集められています。 草本は、林内や林縁に植え込まれていますが、 特殊な生
育環境を必要とする種は、ロックガーデン (高山植物園) ボッグガーデン (湿原植物
園) にて栽培されています。
開園期間4月15日~11月30日 (月曜休園)
栃木県日光市花石町1842
https://www.bg.s.u-tokyo.ac.jp/nikko/






◆柴田記念館


1,幕末までの日本の植物研究

牧野富太郎
植物学者(1862-1957)

3つの功績
植物の命名
生涯で約40万点に及ぶ植物標本を収取し、約1500分類群(変種などを含む)の植物を命名した。ヤマトグサ、ムジナモ、ヤッコソウ、ツチトリモチ、サクライソウなどの特筆すべき植物を見出し、日本の植物相の解明に大きく貢献した。

植物画
牧野は植物画を描く名手でもあり、植物の特徴を正確に分かりやすく表現した植物画を数多く描いた。東京帝国大学から刊行された「大日本植物誌」は牧野が38歳から49歳ごろのもので、円熟期を迎えた牧野の渾身の著作である。

教育普及
牧野は全国の採集会や講演会に積極的に赴き、植物の知識をわかりやすく伝え、一般への植物学の普及に大きく貢献した。また、牧野日本植物図鑑をはじめとした図鑑や、一般向けの読み物を数多く出版し、多くの植物愛好化を育てた。

幕末までの日本の植物研究
日本の植物は外国の植物学者によって研究されていた
 日本では幕末頃まで、 海外の研究者が日本の植物を外国に持ち帰って研究し、 学名をつけていた。 現在も使われる学名 (2命名法) は、 属名と種小名のラテン語から構成されるもので、 植物を含めた生物に対する世界共通の呼び名である。 1753年スウェーデン博物学者ンネが、 生物を分類するために提唱したものである。
 江戸時代の鎖国下に来日し、日本の植物を研究した人物にはケンペル、シュンベルク、シーボルトなどがいる。 なかでもスウェーデン博物学者シュンベルクは、1775年から1年あまり長崎に滞在し、 812 種の植物を記録した。 帰国後、 1784 年に日本の植物に関する論文をまとめた『日本植物誌 (フロラヤポニカ)』を出版し、 日本の植物を世界に紹介するのに貢献した。

外国の植物学の導入
 江戸時代の日本には、薬になる植物や動物、鉱物を研究する中国由来の本草学があった。本草学は、薬物を中心としながらも、博物学的内容に富み、 日本に自生する植物の理解に大きく貢献した。 しかし、植物は日本独自の呼び名である和名が使われており、当時は日本の野生植物のどの種に、どのような学名がつけられているのかを知る日本人はほとんどいなかった。
 日本に西洋の植物学を導入し、 初めて和名と学名を対応させたのが日本の本草学者の伊藤圭介である。 伊藤は、シーボルトからシュンベルク著の『日本植物誌』を贈られ、 1829年 『泰西本草名疏』 で学名と和名の対象表を作成するとともにリンネの分類体系を紹介した。
 伊藤は 1877年の東京大学創設の数年前から小石川植物園の植物について取調 (調査) をおこなっていた。東京大学ができた年に員外教授となり、 東京大学最初の学術的出版物である 『小石川植物園草木目録』 を出版し、 その中で植物園で栽培されていた植物の和名と学名を対応させた。
 この頃、 牧野富太郎は10代半ばで、 小学校を中退し、高知で植物の探求に熱中していた。

牧野富太郎年譜
1862(文久2)
4月24日高知県高岡郡佐川町に生まれる。(幼名 成太郎)

1872(明治5) 10歳
寺子屋で習字を学ぶ。

1873(明治6) 11歳
名教館で西洋の諸学科を学ぶ。

1874 (明治7) 12歳
佐川小学校に入学。

1876 (明治9) 14歳
小学校を自主退学。

2,日本の植物学黎明期

東京大学創設と植物標本室の設立
1877年、 東京大学の設立とともに、 理学部生物学科がつくられた。 植物学の初代教授には、アメリカのコーネル大学で西洋の植物学を学んで帰国した矢田部良吉が 25 歳で着任した。 矢田部は在職中、 植物標本室の設立に尽力した。 伊藤圭介の功績はあったものの、当時は日本の野生植物のどれに、何という学名がついているのかはまだ十分に明らかになっていなかった。また、 西洋の植物学者によって研究に使われた植物標本もすべて国外に持ち出されてしまっていた。 矢田部は、後に小石川植物園初代園長となる松村任三や、 大久保三郎らとともに日本各地に採集旅行に行き、 標本を収集して、 分類学研究の資料となる植物標本の充実に尽力した。 さらに、 外国の文献を読み解き、日本の植物に与えられていた学名の正体を突き止めていったのである。
 こうした研鑽の結果、 松村は1884年、 日本に産する 2406 種の植物の学名と和名を対応させた『日本植物名彙』を出版した。 また、 1886年東京大学帝国大学と改称された年に『帝国大学理科大学植物標品目録』を出版し、当時大学が所蔵していた植物標本に対応する学名を明らかにした。
 これにより、日本のどの植物にすでに学名がつけられているのかが一覧となり、日本人が自らの手で日本の植物を命名していくための基礎が築かれたのである。
 松村の 『日本植物名彙』が出版された 1884 年、 牧野は2度目の上京で矢田部に会い、 その学識の深さから植物学教室への出入りを許される。 その後、研究成果を自由に発表できる場として雑誌の出版を計画し、東京植物学会 (現在の日本植物学会)の機関誌として1887年に出版された 『植物学雑誌』の刊行に貢献した。牧野が発表した 「日本産ヒルムシロ属」 と題した論文にはヒロハノエビモとササエビモの図がつけられており、牧野の植物画の技量が発揮されている。 牧野は植物を図で説くことの大切さを重視し、 1888年には自身の初の出版物となる『日本植物志図篇』 第1巻第1集を刊行した。

1881 (明治14) 19歳
初めての上京。第2回内国動業博覧会見物、李物局の田中秀男と小野職撃を訪問する。

1884(明治17) 22歳
2度目の上京。植物学教長の矢田部良吉に会い、その植物天哉の深さから東京大学理学部物学教室への出入りを許される。

1887(明治20) 25歳
『植物学雑誌』の創刊に参加する。

1888(明治21) 26歳
『日本植物志図篇』刊行開始。


3,日本の植物「題名明治大」の幕開け

日本人の手で初めて植物を命名
 1889年、当時27歳だった牧野は助教授の大久保三郎と共著で『植物学雑誌』 に新種ヤマトグサ Theligonum japonicum Okubo et Makino を発表した。1884年に牧野自身が高知県で採集した標本には花がなかったが、1886年に渡辺荘兵衛から花のついた採集品を提供され、詳細な形態を観察して新種であることを突き止めた。 これは日本人が外国人の手を借りずに初めて命名した植物である。

外国人の手を借りずに独力で新種を記載すると宣言
 牧野がヤマトグサを記載した翌年の 1890 年、 矢田部は 『植物学雑誌』 に 「Afew Words of Explanation to European Botanists (泰西植物学者諸氏ニ告グ)」と題した文章を発表し、「以降、日本の植物の命名は自らの手で行う」ことを世界に向けて宣言した。 当時は外国の植物学者に植物の鑑定を依頼することもあったが、すでに独力で新種を記載するのに十分な数の植物標本と文献を収集しており、欧米の研究者の助けを借りる必要はないと述べた。
 矢田部は宣言文に続いて、 シチョウゲとヒナザクラの2新種を発表し、さらに同じ年に新属新種のキレンゲショウマを発表した。 この後、矢田部は 1893年まで 『植物学雑誌』 にほぼ毎号のように新種の記載論文を発表し、日本は植物の 「大命名時代」 に突入する。
 牧野はヤマトグサの記載に続いて、 高知県横倉山で採集した新種のランに 1890年にコウロギランStigmatodactylus sikokianus Maximex Makino の名を与えた。これは牧野が敬愛したロシアのマキシモヴィッチが名付けたものを牧野が論文として発表したものである。 同じ 1890年には小岩村 (現在の江戸川区)で珍しい食虫植物を発見し、 1893年にムジナモという和名をつけて 『植物学雑誌』 で発表した。 ムジナモは海外ですでに記載されていたが、花が知られていなかった。牧野が描いた精密な植物画はエングラー監修の植物分類学の教科書に転載され、 牧野の名を世界に広めた。
 1890 年、 牧野は矢田部から突然植物学教室への出入りを禁じられる。 矢田部は 1891年に東京大学を非職となり、その後教授職を継いだ松村任三により、牧野は 1893年帝国大学理科大学助手として採用された。

イチョウとソテツの精子の発見
 この頃、植物学教室では植物学史上の大発見が成し遂げられた。帝国大学理科大学助手であった平瀬作五郎と、 農科大学助教授であった池野成一郎が、 1896年にそれぞれ裸子植物イチョウとソテツで精子による受精を見つけたのである。これは、精子で受精することが知られていたコケやシダと、 花粉管によって受精する裸子植物被子植物の進化をつなぐ鍵となる発見であり、日本の植物学の水準が世界を驚かせるまでに到達したことを示すものとなった。

1889(明治22) 27歳
大久保三郎と新種やマトグサを『植物学雑誌』に発表。これは日本人が外国人の手を借りずに初めて命名した植物として知られている。

1890(明治23) 28歳
食虫植物のムジナモを発見する。

1893(明治26) 31歳
帝国大学理科大学助手となる。


4,植物園時代の植物学教室

 1897年、 植物学教室は手狭になった本郷から小石川植物園に移転した。 当初は初代園長の松村が主宰する第1講座 (分類学)と、後に2代目園長となる三好學による第2講座 (植物生理学)の2つの研究室があった。 その後増築を繰り返し、 1934年に本郷に戻るまでの 37 年間、 植物学教室は小石川植物園内にあった。

小石川植物園における牧野富太郎
 牧野は 1897年から 1900年にかけて、『植物学雑誌』に「Plantae Japonenses novae vel minus cognitae」と題する 30 本の論文を連載し、 ヨコグラノキやクラガリシダなどの数々の新種を記載した。 また 1901年から 1914年にかけては 「Observations on the flora of Japan」 と題する論文を118 本発表し、ツチトリモチ、ヤッコソウなどの特筆すべき植物を含む多数の新種を記載し続けた。 牧野が生涯で命名した植物の分類群は1,500 にのぼる。 そのうちのほとんどが、 小石川植物園に在籍していた時期に発表されたものである。
 これらの分類学的研究と並行して、 植物画と解説文からなる図説の出版にも精力を傾けた。 1899年から1903年にかけては 『新撰日本植物図説』の第2巻第8集までを刊行し、 アツイタやクラガリシダなどのシダ植物や、コオロギラン、 クモランなどの植物を精緻な植物画で紹介した。 また、 1900 年に渾身の『大日本植物志』 第 1 巻第1集を発行し、 ヤマザクラとアズマシロカネソウの 2 種を、 植物体に見られる形態的特徴を余すところなく精密な植物画で描いた。 『大日本植物志』 は 1911年までに第1巻第 4集までが刊行され、 10種の植物が描かれた。
 牧野は 1910年に東京帝国大学理科大学を休職となり、一時期嘱託となるが、 1912年に東京帝国大学理科大学講師となる。 1916年には専門家に限らない植物愛好家に向けて植物学を普及することを目的に、現在まで続く 『植物研究雑誌』を創刊した。

植物園時代の植物学教室の研究者
 初代園長の松村は退官までの25年間にわたり園長職を務め、 この間、 後に3代目園長となる早田文蔵や、 4代目園長となる中井猛之進らが活躍した。 早田は日本統治時代の台湾で植物の研究を行い、 約 1,400 種の植物を記載した。 中井は朝鮮半島の植物相の解明に大きな貢献をした。 この頃、小笠原諸島の植物調査も盛んに行われ、 ムニンツツジ、 ワダンノキ、 オオハマギキョウなどの固有植物が中井や小泉源ーらによって記載された。

1899(明治32) 37歳
『新撰日本植物図説」刊行開始。

1900(明治33) 38歳
東京帝国大学から『大日本植物志」の刊行開始。

1912(明治45) 50歳
東京帝国大学理科大学講師となる。

1916(大正5) 54歳
『植物研究雑誌』を創刊。

1927(昭和2) 65歳
理学博士の学位を受ける。

1939(昭和14) 77歳
東京帝国大学を辞任。

1940(昭和15) 78 歳
『牧野日本植物図鑑』刊行。

1957(昭和32) 94歳
1月18日永眠。
没後、文化勲章を授与される。


5,東京大学植物標本室

小石川植物園内の本館には約80万点の植物標本が収蔵されている
 東京大学植物標本室は、 1877年の東京大学創設と時を同じくして収集が開始され、 これまでに 190万点以上の標本が納められた、 日本で最も歴史があり、かつ収蔵数が多いハーバリウム (植物標本室)である。うち約80万点は小石川植物園に収蔵されており、新たな種の学名をつける際の基準となるタイプ標本は1万にのぼるなど、 貴重な標本が数多く収蔵されている。世界のハーバリウムは Index Herbariorum に登録されており、東京大学はTI (Tokyo Imperial Univ. の略)のコードが付与されている。 特色のあるコレクションとしては、 中井猛之進の朝鮮半島の植物、早田文蔵の台湾の植物、 戦後、 原寛らによって調査が始まったヒマラヤの植物などがある。 収納スペースの問題により、現在は本郷キャンパスの総合研究博物館 (単子葉・離弁花)と小石川植物園の本館 (シダ・裸子 合弁花)に分けて収蔵している。

植物標本を作る目的
・新しい分類群を記載する際のタイプ標本
・植物の変異や遺伝的系統などの解明(形態計測、 DNA解析など)
・植物相(フロラ) 調査の証拠標本(植物相はある地域の全植物リストのこと)
生態学などの研究への応用(昆虫食害や、開花・結実日の情報が得られる)
→写真や絵ではなく、現物を残すことに意義がある。


小石川植物園内の牧野の居室

理学部の植物系の研究室が集まった植物学教室は1897年から 1934年ごろまで小石川植物園にあった。
上図の1934年の図面からも、当時多くの研究室が園内にあったことがわかる。 建物の多くは取り壊された、または戦災で焼失したが、生理化学研究室だけは現在も残り 「柴田記念館」として展示・販売を行うスペースとなっている。 牧野は植物学教室が本郷に移転してからも、退職までは専ら植物園で過ごしていたという。






◆薬園保存園



 植物園は1681年から明治維新まで徳川幕府の薬園であり、 小石川御薬園と呼ばれていました。現在でもサネブトナツメ、カリン、サンシュユなど薬用に供された樹木が園内に残っています。 薬園保存園では、御薬園時代に栽培されていたコガネバナ、オウレン、マオウなど約120種の薬用植物を栽培・展示しています。



小石川植物園」の通称で親しまれている、東京大学理学部附属植物園の前身は、徳川幕府直轄の小石川御菜園である。 寛永15年(1638) 三代将軍家光は麻布御薬園を現在の麻布広尾の光林寺の付近に 大塚御薬園を現在の音羽護国寺の位置に開設した。 天和元年(1681) 護国寺を建立するため、大塚御薬園は廃止され、大部分の薬草は麻布御薬園に移された。その後、貞享元年(1684) 麻布御薬園は小石川御殿内に移転した。これが小石川御薬園のはじまりである。享保6年(1721) 八代将軍吉宗は、ほぼ現在の面積に相当する14万7840mに拡張して本格的な薬園として整備し、翌年には新たに小石川養生所を設けた。当時朝廷や幕府に献上した薬草の乾場や養生所の井戸などの史跡は、現在も園内に残っている。 明治10年(1877)東京大学が設置されたのに伴い大学附置となり、近代的研究植物園として再出発したが、以前に集められたサネブトナツメ、カリン、サンシュユなど墓用樹木の一部は今も残されている。 昭和54年 (1979) 「菜園保存園」がつくられ、コガネバナ・オウレン・マオウなど御薬園時代に栽培されていた代表的な薬用植物100余種を集めて栽培・公開している。











◆分類標本園



分類標本園の植栽順の見直しについて
 現在の分類標本園は、 主に形態の違いから類縁関係を推定するエングラーの分類体系に基づき植栽されていましたが、これを系統関係(祖先と子孫の関係)に基づいて分類を行う系統分類の一つである APG (Angiosperm Phylogeny Group) の分類体系に改めます。
 移植等作業期間中は、 類縁関係等が見ることができなくなり、 来園者にはご不便をおかけいたしますが、 仮植も含めて植栽箇所には植物ラベルを付けて植物名の表示を行い、 通常の花壇のようにご覧いただけるようにいたしますので、ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。










◆旧養生所の井戸




 小石川養生所は徳川幕府が設けた貧困者のための施療所で、町医者小川雒船の意見により、享保7年12月4日(旧暦),徳川直紀による)にこの場所に開設され、明治維新の時に廃止されるまで続きました。 養生所は町奉行所の管轄で、 40名 (後に170名)の患者を収容することができました。この養生所の井戸は水質が良く、水量も豊富で、大正12(1923)年の関東大震災の時には避難者の飲料水としておおいに役立ちました。
(注) 新暦1723年1月10日)






◆種子発見のイチョウ




 1896(明治29)年子類作五郎はこの雌の木から採取した若い種子において精子を発見した。それまで種子植物はすべて花粉管が伸長し造卵器に達して受精するものと思われたので、この発見は世界の学界に大きな反響を起した。
 平瀬は当時帝国大学植物学教室の助手で、講義や研究のために図を描くかたわら「イチョウの受胎期および胚の発生に関する研究」を行っていた。
 このイチョウ精子発見は池野成一郎のソテツ精子発見とともに日本の近代植物学の発展期における最大の貢献といわれている。






◆イロハモミジ並木






◆甘藷試作跡




 青木文蔵 (昆陽) は、江戸付近でも甘藷 (サツマイモ)の栽培ができるならば、利益も大きく飢饉の時の食料作物としても役立つと考え、享保20 (1735) 年に幕府に進言し許可を得て、この地で栽培を試みました。この試作は成功し、やがて全国的に甘藷が栽培されるきっかけとなりました。 大正 10 (1921)年にこの業績をたたえる記念碑が建てられました。






◆寒桜

花が一輪だけ咲いてた。






◆ハンカチノキ



 ハンカチノキは中国中部と西南部だけに自生する中国の固有植物で、海抜2000mほどの山地の湿った日当りのよい斜面などに生育している。欧米では園芸植物として昔から有名であり、庭木、街路樹として植えられている。 ハンカチノキの名前のもととなった二枚の白いものは花を飾る特殊化した葉であり、 植物学的には苞と呼ばれる。その下 (内側)にある球状のものは花弁のない小さな花の集まり (花序) である。雄花だけからなる雄花序は花粉を散らした後に苞とともに地面に落ちるが、一個の雌花のまわりを多数の雄花が取り囲んでいる両性の花序は受粉して果実をつける。花序がこのような特殊な構造をしているためにミズキ科やヌマミズキ科に入れられることもあれば、ただ一種でハンカチノキ科 (ダヴィディア科)がつくられることもある。






関東大震災記念碑



 大正12年9月1日の関東大震災によって東京市内は大きな被害を受け、焼け出された市民3万人以上が一時的に植物園に避難しました。 その一部は園内の震災救護所でさらに長期にわたる避難生活を送りました。大正14年1月に最後の居住者が退去し、有志によってこの記念碑が建てられました。






ユリノキ



 ユリノキとシナユリノキはそれぞれ北米と中国とに分布しており、近縁な種が隔離分布する例にあげられます。 この木は明治の初め頃に植えられた我が国でもっとも古い株のひとつで、理学部植物学教室の員外教授として植物園で活躍した伊藤圭介が米国からもらい受けた種子を育てたものです。 明治23年大正天皇が皇太子の頃にご来園された際に、この木を見てユリノキ命名されたと言われています。






スズカケノキ



スズカケノキ (スズカケノキ) Planomas orientalis Li Platonaceae)
 この木は明治9年に導入された日本でもっとも古いスズカケノキのひとつです。 街路樹として現在広く使われているモミジバスズカケノキはこのスズカケノキアメリスズカケノキの雑種であることが知られています。この広場ではこれら3種類を比較観察することができます。






◆サネブトナツメ (クロウメモドキ科)




 中国名を酸棗という薬用植物です。 明治10年発行の「小石川植物園草木目録」 に、 享保12 (1727) 年に中国から輸入されたものと記されています。 同時に駒場御薬園にも植えられました。 大正6 (1917) 年の暴風雨で倒れ、現在の樹形になりました。 また、 1979年の台風でも大きな被害を受けています。






◆日本庭園を望む東屋






◆日本庭園







ツツジ






◆ツュンベリーのマツ



 シュンベリー(C.P. Thunberg, 1743~1828) は植物分類学の祖・リンネの直弟子で、リンネの分類体系を発展させたスウェーデンの植物分類学者であり、医者でもあった。1775年、鎖国日本の長崎出島に到着、翌年、江戸参府に随行し、道中で植物採集を行った。1年4ヵ月の滞在中、日本の植物を調査研究した。 帰国後 「日本植物誌」(1784) などを著して、日本の植物を広く世界に紹介した。 1976年、スウェーデン大使館と日本植物学会の主催でツュンベリー来日200年記念行事が催され、 シュンベリーに献名されたクロマツが記念植樹された。






◆旧東京医学校本館(東京大学総合研究博物館 小石川分館)



昭和45年6月17日重要文化財に指定
この建物は重要文化財に指定されておりますので大切にしましょう。
もし壊したりしますと、 文化財保護法により罰せられます。
東京大学


この建物近くに次郎神社というのがあるみたいなのだが、行けなかった。






◆太郎稲荷神社(小石川植物園内・太郎稲荷大明神の分社)








メタセコイア(アケボノスギ)



 メタセコイア属は、北半球の第三紀層から出る化石や遺体植物の研究の結果、三木茂博士により1941(昭和16)年に発表された化石属であった。発表当時は約100万年前に絶滅したものと考えられていたが、1945(昭和20)年に中国湖北四川省境付近で現生種が発見され、「生きた化石」として反響を呼んだ。
 1947 (昭和22)年この植物の種子がアメリカの調査隊によって現地で採集され、日本に初めて送られてきた!この種子は 1949(昭和24)年3月東京で播種され、そのうちの1本をもとに木によって増殖したのがこの林である。






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小石川植物園



休園日
月曜(月曜が祝日の場合はその翌日、月曜から連休の場合は最後の祝日の翌日が休園日)
とありますが、行かれる方は事前にHPなどで確認してから行ってくださいネ!


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