24時間勤務アケで、茗荷谷から水道橋まで散歩。
6/26に散歩した場所のやや東側を歩く。
◆茗荷谷駅
スタートの茗荷谷駅。
少し雨が降ったがすぐに止んだ。
◆林泉寺
しばられ地蔵があるとのことだったのだが、境内が工事中で中に入れなかった。
しばらくしてから行こうと思う。
「町内より東の方 松平播磨守御屋敷之下候坂にて、里俗団平坂と唱候 右は先年門前地之内に団平と申者舂米商売致住居仕罷候節より唱始候由申伝 年代等相知不申候」と『御府内備考』にある。
団平という米つきを商売とする人が住んでいたので、その名がついた。
何かで名の知られた人だったのであろう。庶民の名の付いた坂は珍しい。
この坂の一つ東側の道の途中(小石川5-11-7)に、薄幸の詩人石川啄木の終焉の地がある。北海道の放浪生活の後上京して、文京区内を移り変わって4か所目である。明治45年(1912)4月13日朝、26歳の若さで短い一生を終わった。
椽先(えんさき)にまくら出させて、
ひさしぶりに、
ゆふべの空にしたしめるかな 石川啄木(直筆ノート最後から2首目)
◆石川啄木終焉の地
「石川啄木顕彰室」 という小さな資料館があった。
呼吸すれば、
胸の中にて鳴ってる音あり。
凩(こがらし)よりもさびしきその音!
眼閉づれど
心にうかぶ何もなし。
さびしくもまた眼をあけるかな
石川啄木は明治一九年(1886)二月二〇日(または一八年一〇月二七日)、岩手県南岩手郡日戸村(現 盛岡市玉山区日戸)の常光寺で生まれた。本名を一(はじめ)という。
盛岡中学校入学後、『明星』を愛読し、文学を志した。生活のため、故郷で小学校代用教員となり、のち北海道に渡り地方新聞社の記者となったが、作家を志望して上京、朝日新聞社に勤務しながら創作活動を行った。歌集『一握の砂』・『悲しき玩具』、詩集『あこがれ』・『呼子と口笛』、評論『時代閉塞の現状』などを著した。
啄木は、明治四四年(一九一一)8月7日、本郷弓町の喜之床(現・文京区本郷2丁目38)の二階からこの地の借家(当時の小石川区久堅町74番46号)に移り、翌年病没するまで居住した。
この地に移った啄木は、既に病魔に侵されていた。明治四五年四月一三日午前九時三〇分、父一禎、妻節子、友人の若山牧水に看取られながら、結核により26歳の若さで亡くなった。法名は啄木居士。
もと、小石川村の内で、元和年間(1615〜24)以降町屋を開いた。
明治2年、橋戸町、久保町、宮下町飛地、門前町(宗慶寺、善仁寺)、松平播磨守屋敷跡や旗本屋敷跡などを合併した。
町名は、永久の町の発展を願って久堅町とした。
戦後作られた環状3号線の坂名は、ここに屋敷のあった松平播磨守(常陸府中・水戸家支藩)にちなんで、播磨坂と名づけられた。町の人の努力で育てられた桜並木は、花の名所となり毎年桜まつりが行われている。
◆播磨坂
もう何度も来てます。
◆山櫻
墨田区の「名刺と紙製品の博物館」に行ったときの企業さん。
こちらにもあったんだね!
2017/05/23
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170523/1495800089
続く。